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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 山村地域の林業

(1)ヨコノジで炭を焼く

 ア ヨコノジ

 「私(Aさん)が伊之曽(いのそ)から大分奥のヨコノジまで炭を焼きに行っていたのは、昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)までの間です。当時は戦争に行っていた人たちが帰郷して、すぐに現金収入になるような仕事を、ということで、多くの人が炭焼きをしていました。当時、炭を焼く窯を設置していたヨコノジヘ行くには、男の人の足で片道1時間半かかるといわれていましたが、私はそろそろ(ゆっくり)歩いて行っていたので、2時間はかかっていたように記憶しています。ヨコノジというのは、滑川の人が使う呼び名で、実際の地名が何という所かは分かりませんが、遠い山の総称というような感じでした。ヨコノジヘ行くと、タカダの滝という見事な滝があります。歩いて行くには遠いのですが、夕立など、雨が降った後に行くと、ドッドッドツと水が流れ落ちてとてもきれいな滝です。冬になると、流れ落ちる水がきれいに全部凍ってしまって、『水があったら(常時、流れ落ちていたら)有名な滝になるんじゃないか。』とよく言われていて、白猪(しらい)の滝(東温(とうおん)市)と同様で、とてもきれいでした。冬場の天気が良いときには、解け始めた氷がガラガラガラと落ちていたのを憶えています。ヨコノジの山は、私の家が所有する山ではありませんでした。炭を焼くために地主さんの所へ行って、『あの山の立木を売ってください。』と、お願いをして立木だけを購入していました。立木を炭に焼いた後は、地主さんがそのままにしておこうが、植え込みをしようが自由でした。炭焼きをしていた当時は建築ブームで、杉の木などの需要があり、値も良かったので、雑木を炭に焼いた後に人を雇ってまで杉の植え込みをしていたようです。地主さんにとってみると、炭焼きで上(うえ)切って(山に生えている木を切って)もらう方が、切り賃もいらず、都合が良かったのだと思います。一つの場所で10年ほど炭を焼くので、初めの方に切った木は芽が立って(再び生長して)きます。私らは、木を切って間もない、芽が立っていない場所へ大豆などを植えていました。山を貸してくれている地主さんも、『作られん(作ってはいけない)。』とは言いませんでした。ヨコノジは山の中ですが、運動場のように広く平坦な土地があり、木を切った後に作物を植えるのには適した揚所だったので、昭和30年(1955年)ころは、大豆やトウキビなどが結構作れました。昔は山畑(やまはた)といって、歩いて片道1時間以上かかるくらい遠い山で栽培をしても、よく採れていました。」

 イ 炭窯を造る

 「私たち(Aさん)が炭を焼くときには、炭窯は1か所で固定するのではなく、その周囲に炭にするための木がなくなれば、木がある所の近くに場所を替え、窯を造り直していました(写真2-2-1参照)。設置した炭窯の近くから木を切っていくと、その場所が炭窯からだんだんと離れていき、切った木を背負って炭窯まで寄せる(運ぶ)作業が大変になるので、その負担を軽くするために、木を切る場所に応じて炭窯を造り替えるということです。ただ、炭窯を造り替える仕事は、何日もかかって、とても大変なものでした。
 炭窯に入れて焼いた木の全てが炭になるわけではありませんでした。炭窯の前の方(窯口近く)に置かれた木は灰になってしまいます。これらのことを考えて、灰になってもよい、ぼろの木は窯の前の方へ置いて、炭として値が良くなる木は窯の奥の方へ立てて焼いていました。窯の奥の方へ立てた木は丸々炭になっていました。その炭は、長くても硬さがあるので折れることがなく、品質が良いので、値も良く、火が起こってから長持ちもしていました。」

 ウ 木を切る

 「炭窯には、炭にする木を隙間がないくらいに詰めて置いていきます。木を炭窯に置いていく仕事は結構な重労働でした。上手に詰めると一度にたくさんの炭ができるので、カシやナラなど、良い炭になる木を炭窯のサイズに合わせて切って、奥から立てていきます。炭窯の天井は丸いドーム状になっているので、天井付近の木は、立てて置いた木の上に、寝かせた状態にして置いていました。炭にするための木を炭窯まで運搬する索道は、免許を持っていた私(Aさん)の夫が、ワイヤーや集材機を購入して設置していました。しかし、ヨコノジではあまり使わなかったように思います。私らはお窯の傍(そば)へ切った木を寄せる(集める)ために、オイコ(物を運ぶのに用いる背負い台)で背負って運んでいましたが、これが重労働だったので、山の谷間に炭窯を造り、こかした(切り倒した)木を両方の斜面を使って楽に下ろせるようにしていました。仕事の負担を考えて、その山の木を焼くのに一番効率の良い場所に炭窯を造っていました。ヨコノジはとても広かったので、炭を焼く終わりの方(炭焼きをしなくなるころ)では、木を切った場所からお窯までの距離が相当あったので、索道を使って下ろしていました。私(Bさん)は山で仕事をするために集材機やチェンソーの免許を取り、昭和45年(1970年)ころからチェンソーを使い始めました。チェンソーを使って木を切るのは、ノコギリで切ることと比べると、世話ない(大変ではない)ので楽でした。ノコギリで木を切っているころは、『下が大事なんじゃ。サイ(一本の木の量を表す単位)がよけ(たくさん)あるんじゃ。低(ひく)うに切れ、低うに切れ。土を除(の)けてでも切ってくれ。』と言っていました。ただ、横目は堅く、切るのに大変苦労しました。」

 エ 炭を焼<

 「炭の質は焼く木の種類によって違っていて、質の良い炭は高く売れました。カシやナラを炭にしたものは値が良く、雑木はそれより少し安くなり、松炭はさらに安い値になっていました。松炭は鍛冶屋さんがフイゴ(火力を強くするための送風装置)で火を起こすように、空気を送ると火がよく起こるのですが、空気を送る手を止めると消えてしまうのです。さらに値が安かったのがクリの木でした。クリは水気には強く、湿気を含まないという特徴がありますが、炭にしてもなかなか火が起こりません。私(Aさん)の夫は炭を焼くときに、炭窯に入れるクリの木を見ながら、『炭に焼いてもつまらん(しょうがない)。』と言って、炭窯の中で灰になりやすい前の端に置いて焼いていたのを憶えています。炭に焼いても捨て値にしかならないクリの木ですが、終戦後は帰郷してきた人たちが家を建てるときに使われていたので、『ダイギ(家の基礎など、建築材料)にしたら値がええけん。』と言っていました。
 窯から炭を出すときには、鼻をまっ黒にして作業をしていました。夫からは、口元や鼻を塞ぐ格好をして、『お前、手ぬぐいでこうせんけん。』と言われていましたが、今のようにマスクがなく、手ぬぐいで塞いでしまうと息がしづらいので、『ようせん。』と言って、していませんでした。炭窯で作業をしていると、埃(ほこり)を吸い込むし、顔に着いた埃を手で払おうにも手が真っ黒で、炭窯の近くは乾燥して水気がなく、手を洗うこともできなかったので、どうしようもありませんでした。
 炭は、その長さをそろえて俵に入れられた『カクズミ』が高い値で売れていました。それまでは『タタキコミ』といって、炭を叩(たた)いて割って、炭一つ一つの長さはそろっていませんが、炭が詰められた俵の重さだけをそろえたものでした。それがノコギリを引いて長さをそろえると高く評価されるようになりました。恐らく、長さをそろえる手間賃が加算されたのだと思います。」

 オ 炭を売る

 「伊之曽の奥へはバスが入ることができないので、炭焼きをする人たちは、バスが通る道筋に炭小屋を建てていました。深い山の中で焼いた炭は担(にな)ったり、馬を使ったりしてその炭小屋まで運び、商人が買い付けに来るまでそこに保管されていました。私(Aさん)は夫から『ちいと(少し)でも儲(もう)けを出すけん、担え。』と言われ、遠い山でしたが炭を担って帰って来たのを憶えています。ヨコノジヘの行き帰りの道には、ちょうど半分行った辺りの、勾配が緩くなっているセリ割(わり)の所に『メヌキ』と呼ばれる休憩所がありました。昔の炭は重たかったのですが、若い時は元気に担って帰って来ていました。今行こうとしたら、手ぶらで行ってもかなりしんどいと思います。昔の炭俵は1俵の重さが5貫目(約19kg)ありました。俵の重さを除いた正味の重さは4貫300(約16kg)でした。それでも男の人は3俵担うたりしていて、私の夫もよく3俵は担っていました。4俵となると、さすがに重すぎて運ぶことができないようでした。3俵で総重量が15貫(約57kg)もある炭俵を担って、山道を2時間歩いていたのです。人が炭俵を運ぶときには、天秤(てんびん)棒を使います。3俵の炭俵を運ぶときには、前後ろで2俵、1俵に分かれるので、2俵の方は身体に近い部分に荷を付けて、1俵の方は天秤棒の先の方に荷を付けてバランスを取っていました。何分、丸一日仕事をしてから運ぶのですから、相当きつかったと思います。
 運んできた炭俵は、壬生川(にゅうがわ)(現西条(さいじょう)市)の業者や落出(おちで)の業者がオート三輪に乗って買い付けに来ていました。落出の業者は本業が自転車店でしたが、ここで買い付けた炭を川上(かわかみ)で売っていたと聞いています。滑川は、元は周桑郡(現西条市)でしたので、あちらとの取引も多かったように思います。炭はその品質を検査する日が決まっていて、検査日には検査員が来ていました。炭の検査では、完全に炭になっておらず、炭を起こしたら炎が出やすい『ネモエ』の炭が入っていないかどうかを調べます。ネモエは七輪に入れて火を点(つ)けると煙が出てしまうような不良品でした。炭を焼くときに、ネモエを少なくしようと長い間炭窯で焼くと、灰になってしまい、質の良い炭が少なくなります。炭をたくさん取ろうと思って炭窯の火を早く消すと、ネモエが多くできていました。買い付けに来る人たちはこの検査日にやって来て、検査が終わったらすぐに炭を買って帰っていました。」

 力 生活の変化と炭焼き

 「ナラやカシなど、火持ちの良い木で私たち(Aさん)が焼いた炭は、ガスが普及し始めてからも、お料理屋さんが火鉢で使うので結構良い値段で売れていました。しかし、そのような炭を出すには炭焼きに難しい技術が必要とされましたし、ナラぎり(ばかり)、カシぎりにするには炭になる木材を選(よ)らな(選ばないと)いけないということもあり、そういうことはなかなかできないので、その後、各家庭にガスが行き渡ると、炭焼きをしていた人たちは炭を焼かなくなってきたのです。」

 キ 炭焼きと女性

 「炭焼きは、雨が降っても日が照っても用事(仕事)があります。雨が降ったら炭を入れる俵を作らなければなりませんでした。俵を作るには山から茅(かや)を採ってきて、縄を絢(な)ってと、全て手作業で作っていきます。山で切った茅を持って帰るときには、茅が長すぎて担うことができず、担(かつ)いで帰って来ていました。急な坂道など、条件が悪い山道では、天秤棒の後ろ側に付けられた茅が道につかえてしまい、担えないのです。俵を編む仕事は大体オナゴシ(女子衆)や年寄りがしていました。夜なべには口(くち)といって、俵の口の桟俵(さんだわら)を上下二つ作らないといけなかったし、昼間は炭場に行って炭作りをしないといけないので、休みがなかったと思います。私(Aさん)は近所の方に、『カラスが鳴かん日があっても、あんたが子を背負うて山へ行かん日はない。』と言われていたのを憶えています。仕事場は遠い場所でしたが、子どもがまだ小さく、授乳をしないといけなかったので、子どもを連れて仕事に行っていました。子どもを背負って山へ入ると、小生(こばえ)(木の若い小さなもの、苗木)の木がたくさんあって、雨の日には傘をさして歩くことができず、頭から雨合羽(あまがっぱ)を被(かぶ)って山道を歩いていました。山道の途中で出会った人に、背負った子を見られ、『(合羽の)奥の暗いところで丸い目しとるで。』と、よく言われました。何年も同じ道を通っていると、小生がたくさんあったのに、いつの間にか何もなくなっていて、きれいな道になっていました。周囲の木が大きくなって日が当たらなくなり、小生がすべて枯れていたのです。」

(2)山に生きる

 ア 林業と馬

 「山から木材を出すときには、テンコロという木を引っ張る道具を木に打ち込んで引っ張り下ろしていました(図表2-2-2参照)。私(Aさん)は夫から、『テンコロはしっかり打ち込め。』とよく言われていました。テンコロは木に打ち込む部分が鉄でできています。この打ち込み方が悪ければ、下ろす木が立ち木の根や石に引っかかったときに抜けてしまいます。自分が一生懸命に木を引っ張っているので、テンコロが抜けると、木が勢いよく落ちてきて危ないのです。テンコロの鉄の部分は鍛冶屋に作ってもらっていましたが、滑川に鍛冶屋はなく、則之内(すのうち)辺りにあった鍛冶屋や、湯谷口(ゆやぐち)(旧丹原(たんばら)町)の近くの梶(かじ)(旧丹原町)の鍛冶屋に鍬(くわ)などの鉄製品を直してもらうために持って行くことがありました。テンコロだけでなく、木材がたくさんある所では馬に木馬(きんま)(木材や炭を運ぶときに用いるソリの一種)を引かせることもあり、成(なる)(旧丹原町)では木を下ろすときに、斜面に竹を敷いて滑り下ろしていました。私(Dさん)の記憶では、当時、滑川には10頭以上の馬がいたと思います。馬は専門の馬使いがいて、サイに応じて値段を決めて、山から木を出してくれていました。サイは、切った木材の量を示す単位です。木材を秤(はかり)にかけることができないので、木の上の方の細くなっている部分の切り口の断面積と木材自体の長さで決められます。切り口がこれだけあって、長さが何ぼ(いくら)あるから、この木は何サイある、という計算になりました。私(Bさん)の父は馬使いでした。私が子どものころ、近くの山から木材の搬出をする父について行って、仕事の様子を見たことがあります。馬に直接木材を乗せるときには、馬の両側に木材を積んで、両方が平均していない(重量が釣り合っていない)場合は、馬は片荷では歩きにくいため、軽い方に石を乗せていました。馬に運ばせる木には、乾いている木と乾いていない木があり、同じ本数でも重さが違っていました。馬に木を一日運ばせると、夕方には馬の足が熱を帯びてくるので、川の中へ足を浸(つ)けて休憩させていたのを憶えています。」

 イ 三椏の思い出

 「農業では三椏(みつまた)などを作って小遣いにしていました。麦や米も作っていました。私(Aさん)の家の田は、シュウケ(水気が多い)だったので、水気を嫌う麦を作ることができませんでしたが、それでも水を逃がすための溝を掘って、麦を植えました。養蚕が流行したころには、ハスメの裏に桑を植えている所がありました。農協のあっせんで、畑を持つ人たちは、養蚕を始めることを決めて桑を植え、10年余り蚕を飼っていました。ところが中国産の繭の価格に太刀打ちできなくなり、桑の栽培をやめてしまいました。
 昭和30年(1955年)ころ、山では杉を切った跡に三椏を植えていました。上仲屋(かみなかや)から丹原町(現西条市)の方へ向かって町境を上がって行き、黒森(くろもり)よりは海上(かいしょ)寄りに位置するニュウノシでは、その三椏が大きくなったら担うたものです。三椏は何日もかけて皮を剥(は)ぎ、それを松瀬川(ませかわ)の人が買い付けに来ていました。滑川では大きなお釜で三椏を蒸して、皮剥ぎまでの作業を行っていました。よそでは三椏の皮を川へ浸けて、黒い皮を除けて白くなったものを売っていたそうですが、滑川には白くなるまで作業する人はあまりいませんでした。手間がかかるからかもしれませんが、みんな黒いままで売りました。三椏が成長する勢いが少し弱ってくると、間に杉を植えて、その後、三椏を採ることができる間は三椏を採り、杉がだんだん太って(大きくなって)きたら三椏ができなくなるので、杉林にしました。昭和30年代の中ごろに、三椏を蒸す作業が原因となって、郷(ごう)で7、8軒の家が焼けた大火事が起こっています。私(Aさん)が子どもの手を引いてコウナルヘ遊びに行っていたら、『郷で火事じゃけん、手伝うてくれ。』と言われ、子どもを家に連れて帰ってから消火活動を手伝いに行きました。火事の現場へ行って、燃えている所を叩いて消火していたら、後ろでボッという音がするので振り向くと、私のすぐ後ろで火が上がっていました。その日は風が強く吹いており、三椏を釜で蒸すために火を焚(た)いて、オキ(木の燃えカス)を釜ロから出していたところ、風に煽(あお)られて茅葺きの屋根に燃え移ったことが火事の原因でした。私たち女性も一生懸命に消火活動をしていましたが、男性から『危ないけん帰れ。』と言われたので一旦帰宅し、その後婦人会で炊き出しを行って復旧作業の手伝いをしました。
 私(Bさん)は、火事が起こった時、郷で車に荷を積んでいました。すると、『火事じゃあ。』という知らせが来て、その方向を見てみると、家から黒煙が上がっていました。消火しないといけないということで、大慌てで走り回ったので、その後一週間くらい足が痛かったのを憶えています。
 この火事が起こったころから、滑川では三椏をやめていくようになりました。杉は植えてから現金にするのに30年、40年かかりますが、三椏は植えて1年か2年したら切ることができ、すぐにお金になっていたので、私たち(Aさん)にとっては良い現金収入でした。」

 ウ 生活の中の川

 「川が氾濫することはほとんどありませんでしたが、昭和20年(1945年)に一度ありました。私(Dさん)は、コウナルの前の川に突き出た土地や、橋という橋がすべて流されてしまったのを憶えています。コウナルの家では、『水が入りそうになった。』と言っていました。当時は、今と山の景観が違っていて、木が余り植えられておらず、裸山だったので、水がたくさん出て、ダーッと鉄砲水になったのだと思います。私(Bさん)は、山の上で伐採した丸太を下ろしていた地元の人が、赤いふんどし一つで、『おーい。』と声を出したのを憶えています。恐らく、山の上からは、大量の水が押し寄せているのが見えたのではないかと思います。
 川は日常生活でも使われていました。昔は川沿いにそれぞれ家の洗い場があって、食器などを洗っていたのを憶えています。また、川では魚を突いていました。ドンコのような小型の魚で『バコ』というのがいました。バコは素早く泳がず狙いやすかったので、それを突いていました。」

 エ 日常の生活

 「滑川には雑貨店が3軒あったので、そこで大体の生活必需品をそろえることができました。魚は千原(ちはら)(旧丹原町)から行商の方が来ていて、イワシなどがたくさん出た(入荷した)ときには、自転車に積んで売りに来ていました。滑川の中で大体のものは間に合ったので、下(しも)(国道へ出て)へ買い物に行くことはほとんどありませんでした。『下へ買い物に行く。』といえば、昔から川上(かわかみ)へ行くことだったそうです。私(Aさん)も人から聞いた話ですが、国道がまだ整備されていないころには、桑籠(蚕を飼うときに桑を入れる大きな籠)を、一家の主人が持って川上まで買い物に行っていたそうです。お正月前には、下駄などの、家族に必要なものを桑籠に入れて、担って帰って来ていたそうです。『川上の佐伯(さいき)(スーパー)や石丸(呉服兼雑貨店)には何でもそろっている』とよく言われていました。」

 オ 人々の楽しみ

 「滑川では映画や芝居の興行もされていました。芝居は、お薬師さんのときに行われていました。お薬師さんは『十七夜』といって、旧暦の6月17日に行われます。この芝居では、芝居一座に来てもらうこともあったし、村の青年が素人芝居で行うこともありました。芝居の途中の休憩時間に食べる重詰めをこしらえて(作って)持って行き、盛大に楽しんだものです。また、お薬師さんには出店がありました。当日は出店の人たちが早くから集まって来て、店を出すのに良い場所を取っていました。映画は倉庫で上映されていました。無声映画が上映されて、弁士が画面を見ながらセリフをしゃべっていました。当時は、お祭りのときに晴着を着て、『お宮出しじゃ。』などと言って見に行ったものです。
 普段は、山でよく遊びました。仕掛けた餌を獲物が取ると、首を締めて捕らえる、縄で作った『コブテ』という罠(わな)で、鳥などを獲っていました。このコブテのことを『クビッチョ』とも呼んでいました。獲った鳥は自分たちでさばいて(解体して)食べていました。たまに獲れる野ウサギも自分たちでさばいて、汁にして食べていました。
 山を挟んで隣同士の、滑川の小学校と明河(旧丹原町)の小学校は、それぞれ子どもたちの行き来がありました。私(Aさん)は、九騎(くき)から山を越して明河の学校へよく行っていました。運動会では、こちらから明河へ行く、明河からこちらへ来るというようなこともありました。」

写真2-2-1 滑川の炭窯跡

写真2-2-1 滑川の炭窯跡

現在は使用されていない。東温市滑川。平成26年12月撮影

図表2-2-2 テンコロ

図表2-2-2 テンコロ

聞き取りをもとに作成。