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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 桜三里沿いに住む人々のくらし

(1)桜三里の復興に向けて

 ア 新しい桜三里づくり

 国道11号の改修後、旧川内町は、「新桜三里」の景観づくりを目指し、国道11号の徳吉(とくよし)・田桑間に、昭和38年(1963年)にボタンザクラ100本、ソメイヨシノ100本、翌39年(1964年)にソメイヨシノ193本、ポプラ11本等を植樹した(②)。現在、「桜三里」といえば、この時に植樹された、国道11号沿いの桜並木を指すのが一般的となっている。
 「この時(昭和38、39年)に、徳吉から田桑にかけて、国道11号沿いに植えられた桜並木は、今でも残っています。川内町の事業として、桜三里復興の願いを込めて記念植樹を行ったと思います。」
 昭和60年(1985年)には、建設省(現国土交通省)松山工事事務所開設40周年記念行事として、則之内の国道沿いに、東谷小学校の児童の手によって50本の桜の木の植樹が行われた(③)。現在は、春になると、河之内隧道の手前、新桜三里の入口を桜の花が迎えてくれている。

 イ 「ふるさと桜三里会」の活動

 江戸時代、旧桜三里に植えられた桜のほとんどは枯れてしまい、今では、中山川逆調整池付近に2本が残っているだけである。その2本は、「源太桜」と名付けられ、昭和56年(1981年)、旧川内町から天然記念物に指定された(④)。
 「平成8年(1996年)に、土谷の人たちが、旧街道にある源太桜などの名勝及び旧跡を活用して、過疎を食い止めようという目的で、『ふるさと桜三里会』を設立しました。
 『ふるさと桜三里会』では、建設省の許可を得て、国道筋(11号沿い)に桜の木を何本か植えたことがあり、その翌年から『源太桜祭り』(以下、「桜祭り」と記す。)を始めました。桜祭りを始めて20年くらいになりますが、毎年4月の第1日曜日に、土谷公民館(現土谷集会所)を会場として行っています。桜祭りでは、公民館で太鼓の演奏やカラオケなどのイベントを行うことのほか、参加者に旧街道の源太桜やそのほかの史跡を案内しています。桜祭り以外の日に源太桜などを見学に来る人の便宜を図るため、旧街道沿いに案内板を整備しています。また、推定樹齢300年ほどの源太桜を後世に残すため、愛媛県林業試験場(現愛媛県林業研究センター)で源太桜の2世を育ててもらいました。そのうちの1本が公民館の庭に植わっています(写真3-1-7参照)。このような『ふるさと桜三里会』の活動が認められ、平成21年(2009年)に財団法人日本さくらの会から表彰されました。
 私(Bさん)らも、桜祭りを始めて20年くらいになりますが、後継者がなかなかいません。この辺りも高齢者ばかりになり、50歳から65歳までの人が若い部類に入り、それより若い人はいないという状態です。桜祭りも、今年はやめようか、来年はやめようか、と言いながら、今まで続けてきています。源太桜は見事なものではありますが、お祭りの準備や後片付けなども大変なので、こうした活動を続けていくのは簡単ではありません。かといって、源太桜もある程度多くの人に知られて、桜祭り以外の日に見に来る桜の木なので、その木の祭りをやめるのはもったいないような気もしています。」

(2)桜三里沿いにくらす

 ア 盛んだった製炭業、林業

 「土谷には炭焼きをしている人がかなりいて、私(Bさん)の父親(大正2年〔1913年〕生まれ)も炭を焼いていました。炭窯(すみがま)があちこちにあり、炭を焼く煙がよく立ち昇っていたのを憶えています。中学生のころ、休日に父親の手伝いをしたり、弁当を持って行ったりしていました。この辺りでは、昭和40年代の前半くらいまで炭焼きをしていました。自分の山の木を伐(き)って炭を焼いたり、よその山の木を買(こ)うて(買って)、炭を焼いたりしていました。当時、この辺りの人はそのようなことで生活していたように思います。
 炭焼きのほかに、スギやマツの伐採といった仕事もしていました。トラックは村の狭い道は通れなかったので、国道筋(国道11号)まで、小型の四輪トラックに2mくらいの材木を5、6人で積み込んで運び出すわけです。当時、オート三輪を持っている人は割合多かったのですが、材木を積むのは小型の四輪トラックでした。農閑期には、よその山へ泊りがけで伐採に行く人たちもいました。製材所が購入した山の木を伐採する人手が足りないということで、土谷の人が5、6人のグループを組んで、製材所から派遣されて伐採に行っていました。あまり遠くまでは行っていなかったように思いますが、重信や松山辺りの山などには行っていました。この辺りの農家は耕地面積もそれほど広くなかったので、米作りのほかにそういう仕事もしていました。昭和40年代くらいまでは、木の伐採をしていた人も多かったと思いますが、今では材木の値段が安くなったこともあり、地元で木を伐採している人はほとんどいなくなりました。」

 イ 土谷の昔と今

 「私(Bさん)は、20歳くらいまでは土谷地区の祭りにも参加して、獅子舞の獅子を振ったり、太鼓を叩(たた)いたりしていました。そのころは若い人も多かったので、年上の人の獅子舞や太鼓の叩き方などを見習って覚えていましたが、今は人が減ってしまって、お祭りの神輿(みこし)もかき手がいないような状態になっています。かつて土谷の獅子舞は、お祭りを見た人から、『ここの獅子はきれい。』と言われたもので、小学生くらいの子が、『獅子おこし』などをしていました。私より年長の人に話を聞くと、土谷小学校には生徒が150人くらいいたそうです。昭和40年(1965年)ころから、若い人は下(しも)(松山市)へ出ていく時代になり、子どもの数も少なくなって、昭和42年(1967年)に土谷小学校は東谷小学校に統合されました。それ以後は、この辺りの子どもは、バスで東谷小学校へ通学することになりました。桜祭りの会場となっている公民館は、土谷小学校の廃校跡にあります。
 今は、土谷全体で51、52軒の家があり、人口は100人ないし100人を少し割るくらいですが、子どもがいる家は1軒だけで、中学生が2人いるだけです。 30代、40代のほとんどの人は、下へ出て生活しているので、もんて(帰って)来たりはしないでしょう。この辺りでも田んぼを耕作している人がいるのですが、『5年もすれば後継者がいなくなる。』と言っています。下へ出て家を構えていたら、よほどのことがないと地元へは帰れません。とにかく後継ぎというか、子どもがいないのが一番の問題です。」


<参考引用文献>
①川内町『続川内町誌』 1967
②川内町、前掲書
③川内町『川内町新誌』 1992
④愛媛県教育委員会『愛媛県歴史の道調査報告書第三集 讃岐街道』 1996

写真3-1-7 生長した源太桜2世

写真3-1-7 生長した源太桜2世

東温市河之内。平成26年12月撮影