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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 橋と人々のくらし

 東温(とうおん)市を構成する旧川内(かわうち)町、旧重信(しげのぶ)町を流れる重信川は、『南吉井(みなみよしい)村誌』の記録の中に「重信川アリテ風雨ノ時ハ隣村トノ交通途絶ス」とあるように、古くから円滑な交通の障害となっていた(①)。
 金毘羅(こんぴら)街道にある二つの難所のうちの一つとされた「横河原(よこがわら)渡し」は、明治の終わりころまで大水のときには川留めとなった。平常の川の流れでも、その水量によって渡り方が異なり、川渡し人足に背負われる、肩車される、四人で担ぐ乗せ台に乗るなどの方法がとられ、危険を伴うものであった。
 横河原橋は、大正8年(1919年)に、全長130m、高さ3mの木橋が架けられ、その後、交通量の増大、交通手段の重量化により、昭和5年(1930年)にはコンクリート橋に改修された。このコンクリート橋は、昭和29年(1954年)の豪雨により落橋するが、翌昭和30年(1955年)に復旧し、現在も旧川内町と旧重信町を結ぶ重要な役割を果たしている。
 一方、重信川の南岸に位置する旧重信町下林(しもはやし)地区は、「南ハ高峻ナル山岳ニ遮ラレ、北ハ重信川ニ隔テラレル為、往古ヨリ交通盛ナリシコトナシ]と『拝志(はいし)村郷土誌』に記されているように、重信川が南北を隔てる障害となっているため、重信川架橋を実現し、重信町を構成する北吉井(きたよしい)村、南吉井村、拝志村の旧三か村を道路で結ぶことが最大の課題とされていた(②)。
 昭和34年(1959年)、上(かみ)重信橋が通学橋として架設され、昭和40年(1965年)には拝志大橋が完成するなど、重信川を渡る人々の安全を確保し、川の南岸と北岸を結ぶ重要な交通路としての機能を有した橋が建設された。これらの橋は、完成後重信川南岸に住む人々の生活に大きな影響を与えたことは言うまでもない。
 本節では、横河原橋付近の景観や橋を利用した人々のくらしについて、Aさん(昭和11年生まれ)、Bさん(昭和15年生まれ)、Cさん(昭和16年生まれ)、Dさん(昭和18年生まれ)、Eさん(昭和24年生まれ)に、上重信橋と拝志大橋完成前後の重信川南岸に住む人々のくらしについて、Fさん(昭和7年生まれ)、Gさん(昭和23年生まれ)、Hさん(昭和24年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。