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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 中心商店街の町並み

 元禄15年(1702年)、新居浜浦に別子銅山の玄関口の機能を有する口屋(くちや)が設けられた。以後、口屋には別子銅山で採掘され、船で大坂(おおさか)へ運ばれる粗銅や、鉱山労働者やその家族に届けられる食糧や雑貨などの生活物資、工具が集積した。牛馬車を用いてこれらの物資を別子銅山へと運ぶ輸送用の道路としての機能をもつ登道は、口屋と立川中宿(たつかわなかじゅく)を結び、その後商店街として発展していった。
 口屋の開設に伴い、人やモノの行き来が盛んになり、次第に発展していったのが本町通りである。明治22年(1889年)に口屋が187年間に及ぶ役目を終え、その跡に小学校や町役場、市役所、図書館などの行政や教育の拠点となる施設が設置されてきた歴史や、通り沿いに多くの店が軒を並べていたことなどを見ると、本町通りが新居浜における中心街としての機能を有していたと言える。
 昭和2年(1927年)、住友別子鉱山の最高責任者となった鷲尾勘解治(わしおかげじ)は、約240年間採掘を続けた別子銅山の鉱量調査を行い、その結果から別子銅山閉山後の新居浜後栄の策を作成した。新居浜町は、この後栄策を受けて昭和5年(1930年)に道路計画を策定し昭和6年(1931年)7月、6間(約11m)幅の昭和通りが開通した。開通後、商店などが徐々に本町通りから昭和通りへと移っていったことで昭和30年代には町並みが整い、昭和通り商店街として発展した。
 戦後から昭和30年代、40年代にかけての中心商店街付近の町並みと人々のくらしについて、地域に関わる方々から話を聞いた。

聞き取り調査協力者
 Aさん(大正9年生まれ)、Bさん(昭和7年生まれ)、Cさん(昭和9年生まれ)、Dさん(昭和14年生まれ)、Eさん(昭和14年生まれ)、Fさん(昭和17年生まれ)、Gさん(昭和19年生まれ)、Hさん(昭和19年生まれ)、Iさん(昭和24年生まれ)