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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)戦中のくらし

 ア 開戦

 「戦争の思い出ということで、鮮明に記憶しているのは、『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋上においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』という、昭和16年(1941年)12月8日にラジオから流れてきた臨時ニュースです。その時、私(Cさん)は国民学校の1年生でした。子どものころの記憶ではありますが、当時は『イケイケドンドン』というような雰囲気が世の中を占めていました。」
 また、昭和16年に住友化学に入社したAさんは、開戦時の様子について、次のように話してくれた。
 「戦争が始まったときには、会社の中でもいろいろな話を聞きました。『早く終われば良いが。』とか、『長引くとどうだろうか。』などと、冷静に話をしていた方がいたことが印象として強く残っています。」

 イ 戦争体験

 戦争が激しくなり、国民生活に大きな影響を与えていた時の様子について、Cさんは次のように話してくれた。
 「戦争が激しくなった昭和19年(1944年)ころには、食糧不足で国民学校の運動場の半分がイモ畑になっていました。また、講堂は、県立新居浜工業学校(現愛媛県立新居浜工業高等学校)に置かれていた高射砲部隊の宿舎として使用されていました。」
 また、Bさんは御自身の経験を次のように話してくれた。
 「私(Bさん)は、父が官立の新居浜高等工業学校(現愛媛大学工学部)の寄宿舎建設のために、大工さんを10人余り連れて徳島(とくしま)から新居浜へ来たため、大江(おおえ)町に住むようになり、新居浜国民学校(現新居浜市立新居浜小学校)へ通っていました。開戦した当時は3年生で、4年生になると、戦死者のお墓へ毎月お参りに行っていたことを憶えています。昭和20年(1945年)3月、大江は漁師町で、家が密集していたので、焼夷(しょうい)弾を落とされたら危険であるということから、防火帯(道路)ができました。私の家は、その防火帯の整備による立ち退(の)きで転居し、一時、泉川(いずみがわ)の知り合いの家へ疎開していました。
 同じ年、私は新居浜中学(現愛媛県立新居浜東高等学校)へ入学しました。当時、先輩方は学徒動員で校外へ出ていました。1年生の私は、学校の防衛隊という組織に所属をしていて、航空燃料を作っていた住友化学の大江工場へ勤労奉仕に行くことがありました。また、6月は麦刈りの時期になるので、角野(すみの)や泉川、中萩(なかはぎ)の方の農家の手伝いに行くこともありました。学校には古い体育館が建っていて、その前に50人くらいは入ることができる大きな防空壕が掘られていました。8月15日、私たちが防空壕の中にいると、外に出るように呼び出しを受けて、校長先生以下全員で玉音放送を聞きました。放送を聞いた時には内容がよく分かりませんでしたが、戦争が終わったということだけは理解できたように思います。このころには、学校へ行っても食べるものがありませんでした。みんなで持ち寄った野菜などを使って、学校で雑炊を作り、食べたという記憶があります。」
 この話に出てくる防火帯は、戦車が通行できるように丈夫に造られたという。また、昭和20年7月の新居浜空襲の様子について、Aさんが次のように話してくれた。
 「私(Aさん)が住友化学の菊本(きくもと)工場で仕事をしているときに、アメリカ軍のB29爆撃機による空襲を受けました。通常の爆撃であれば1t爆弾が投下されていましたが、その時使用された爆弾は原子爆弾を模したもので、重量が4.5tあったそうです。原子爆弾を投下するためのテストだったようで、風速や投下する高度、爆撃機の速度などを計測していたと聞いています。爆撃の時、私が防空壕へ飛び込んだ瞬間に、そこから70、80m離れた地点で爆発がありました。当時、住友化学の工場は朝鮮半島の元山(ウォンサン)に移転する予定で、すでに設備の多くが移転されていたので、爆撃による設備面での損害はそれほど大きくなかったのですが、それでも死傷者が30名ほどいました。」
 Dさんは御自身の経験について、次のように話してくれた。
 「私は住友鉱山の近くの西原(にしばら)に住んでいました。その一帯は立ち退きが決まり、家を全て倒さないといけなくなったので、家の柱にロープを掛けて引き倒したことを憶えています。立ち退きになった後は、上部の船木(ふなき)へ疎開しました。疎開していたときに、今治(いまばり)が空襲を受けましたが爆撃によって上がった煙がよく見えていました。」

(2)子どものくらし

 ア 子どもの世界

 「私(Hさん)は、紙芝居がいろいろな所を回って来ていたことを憶えています。拍子木を叩(たた)く音が聞こえると、私たちはそこに集まり、水飴(あめ)を食べたり、型抜きで遊んだりしながら観(み)ていました。型抜きがうまくできると、わらび餅などをもらうことができました。また、道路の電信柱を基準に陣地を決めて、陣取りをして遊んだり、缶蹴りをしたりして遊んでいました。当時は子どもだけで、しかもそれぞれが弟や妹を連れて一緒に遊んでいました。子どもが多かったので、地域ごとに子どもが集まって遊んでいました。私は西町(にしまち)にいて、花園の方までは遊びに行ったことがありません。自分の家の近くだけで、10人ほどの人数が集まって遊んでいました。子どもの世界にも縦の社会があって、小学校6年生がリーダーとなって地域の子どもたちをまとめて遊んでいました。」

 イ かくれんぼ

 「大丸は昭和37年(1962年)に改装をして、3階建てでオープンしていますが、改装前は木造の建物でした。私(Dさん)が子どものころには、かくれんぼをするのにちょうどよい、ということで、店内でかくれんぼをしていました。店には交差点側の入口と東側の入り口があり、1階では日用品や洋品、菓子類、そして時計も売られていたことを憶えています。かくれんぼは、その売り場で行っていて、ショーウインドウやショーケースがたくさんあるので、その陰に隠れていました。また、建物が前後に二つ並んで建っている構造で、後ろの建物には木製の階段があり、それを使って2階へ上がると美術展などの展示会が行われていました。店には多くの女性従業員がいましたが、子どもの目線で見ると、お姉さんという印象をもっていました。店の北側には長さ10m、幅4mくらいの防火用水がありました。夏になると、子どもたちがそこへ泳ぎに行く、というようなこともありました。」

 ウ 夏の遊び

 「泉寿亭(せんじゅてい)の敷地内には池が二つありました。泉寿亭は住友の迎賓館で、会社に来られた要人を接待する場所として使われていました。その二つの池には鯉がたくさん飼われていて、子どものころには、そこへ釣り竿(ざお)を持って行って、勝手に入って釣りをしていました。当時、泉寿亭の塀は丸太で造られていて、子どもが通り抜け、敷地内に入ることができる隙間がたくさんありました。釣り竿を持ったまま隙間を通り抜け、持って来たバケツは隙間を通すことができないので塀の上から投げ入れていました。しかし、その池では何人か亡くなるという事故が起きていて、無断で入ることが固く禁じられていたのですが、子どもの遊びの一つとして数えられます。もちろん、管理人さんに見つかってしまった場合は、きつく怒られていました。先日、太鼓祭りであの辺りを歩いたのですが、泉寿亭跡に建った別子銅山記念図書館の辺りに差し掛かると、当時のことが鮮明に思い出されて、とても懐かしい思いをしました。
 また、新居浜内港の桟橋では釣りをしたり泳いだりしていました。内港の沖合には、石炭や鋼材を運んで来た船がたくさん停泊していて、その船へは艀(はしけ)を使って人やモノを運んでいました。艀には後部に伝馬船が繋(つな)がれていたので、それに乗ってみたいと考え、泳いで艀を追いかけて伝馬船に乗り込み、沖の方へ出たところで海に飛び込んで泳ぎ、伝馬船が艀に引かれて帰るときに、また乗り込んで岸まで帰るというようなことをしていました。とても楽しい思いをしましたが、ただ、伝馬船に乗って沖合まで行って、帰りにその船に乗ることができなければ、泳いで岸まで帰らなければなりませんでした。こうなると、岸からの距離が大分ありましたから、とても大変な思いをした、という思い出があります。
 内港で遊んでいたころには、アメリカの軍人さんと出会うことが多くありました。軍人さんは艀を桟橋に着けて上陸していました。そのとき、上陸してきた軍人さんにガムやキャンディ、チョコレートなどのお菓子をもらったことが思い出されます。」
 内港近くに軍艦が停泊していた時の様子について、Gさんは次のように話してくれた。
 「住友鉱山の船着き場の方に、一度軍艦が来たことがあります。小学校5年か6年の時で、恐らくアメリカ海軍の軍艦だったと思います。その時に、見学でその軍艦に乗せてもらえるということで連れて行ってもらい、乗り込んでみると、大きな体の水兵さんがたくさんいて、子ども心に圧倒されてしまったことをよく憶えています。」
 戦後、魚釣りに行った思い出について、Hさんは次のように話してくれた。
 「新田(しんでん)の所には爆弾池と呼ばれていた池があり、小学校6年生のころにはそこへよく魚釣りに行っていました。爆弾池は、畑の真ん中に1t爆弾が落ち、それによってできた窪地に水が溜(た)まってできた池だと聞いたことがあります。」

 エ お祭りとキンモクセイ

 「私(Dさん)が子どものころには、大人の太鼓台のかき棒の先に、子どもたちが太鼓台を引くためのロープを付けてくれていました。子どもがロープで太鼓台を引くことで、子ども自身がお祭りに参加したというような気分になっていたのだと思います。そのロープを引くことがとても楽しみだったことをよく憶えています。休憩の時には、太鼓台の上へ乗せてくれることがあり、これも大きな楽しみの一つでした。このような、子どものころからの関わりで、お祭りが好きになっていったのではないかと今でも思うことがあります。
 時期的にキンモクセイの匂いとお祭りが結び付きます。キンモクセイの匂いが漂い始めると、お祭りの時期が来た、ということを感じることができますし、太鼓の音のリズムと心臓の鼓動が同じであるように感じられるのです。」
  
(3)働く人々の記憶

 ア 銀行で働く

 「私たち(Fさん、Gさん)が銀行に勤めていたころは、現金の出入りがオンラインではなく、元帳で管理されていました。計算は四つ玉のそろばんを用いて、元帳を一枚一枚めくりながら行っていました。銀行の業務は午後3時に終わりますが、その後、定時に帰ることができるというようなことはあまりありませんでした。窓口が閉まった後に、その日の現金の出入りの集計をするのですが、1円でも計算が合わなければ夜の10時になろうが11時になろうが残って、そろばんを何度も弾(はじ)いて計算し直し、1円の行方を探すことが必要でした。1円でも誤差が生じたら、大量にある元帳を一枚一枚めくって、何度も計算していたのです。勤務も今とは違って土曜日が半日勤務、日曜日が休みという形態でした。銀行は給料の支払いなどでお金が動く月末が忙しいのですが、年末の業務はさらに忙しく、夜遅くまで仕事をしてから帰宅していました。ただ、仕事の内容を理解することは当然として、そろばんなどの必要な技術を身に付けなければならないと思い、一生懸命に仕事をしていたので、忙しいという思いとともに、充実した日々を送ることができているという思いをもっていたことをよく憶えています。」

 イ 住友で働く

 「私(Bさん)は昭和30年(1955年)に住友化学に入社し、平成4年(1992年)まで勤めました。通勤には自転車を利用していました。私のように自転車で通勤する人が多かったのですが、原動機付きの自転車や単車に乗って通勤している人もいました。会社は交替勤務制で勤務時間別に1勤、2勤、3勤とあり、土曜日はもちろん、日曜日の勤務もありました。昼間の勤務は午前8時から午後4時までで、午後3時45分になると、会社の中にある風呂に入って4時になったらすぐに帰ることができるようにしていました。一日仕事をすると、かなり体が汚れていたので、風呂に入らなければ帰ることができず、仕事終わりに風呂へ入って、仕事の汚れを落としてパリッとして、襟には社章を付けて帰宅していました。時代の流れで、昭和通りの姿も変わっていきました。自動車が普及してくると、昭和50年代には交通規制のようなことが行われ始めました。最初、昭和通りには歩道がありませんでしたが、交通量の増加に合わせて歩道が設置され、その歩道には歩行者の安全のために柵が設置されました。それまでの昭和通りは、私のように自転車で通行する人が多かったのですが、自動車やオートバイの普及で通りの様子が大きく変わっていったのです。」

(4)生活の中の記憶

 ア テレビ

 「テレビが流行し始めたのは、昭和34年(1959年)に皇太子と美智子さんの結婚式の中継があった時だったと思います。その後、昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開催され、さらに普及していったのではないかと思います。新居浜で最初に街頭テレビが設置されたのは、昭和通りの電器店で、背の高いパイプにアンテナを取り付けて、店でテレビを映していたので、それを行き交う人たちが珍しそうに観ていました。その電器店には大勢の人が集まってテレビを観ていたことを憶えています。私(Dさん)が観た街頭テレビで印象深いのは、プロレスで活躍していた力道山と木村政彦の試合が昭和通りの別子電波という店のテレビに映され、ものすごい人だかりができていたことです。当時のテレビは白黒映像で、しかも画面が小さく、映し出されている映像にもノイズの横線が入り、とても見えにくかったのですが、それでも大勢の人が喜んで観ていたことを憶えています。」

 イ 電話

 「私(Hさん)の家は店をしていたので、ダイヤル式の黒電話がありましたが、電話が一般の家庭に普及していなかったころには、近所の人がよく借りに来ていたことを憶えています。また、店に電話がかかってきて、『すみませんが、誰々を呼んでくれませんか。』というようなこともよくありました。電話を借りに来た人に、電話代をもらうというようなことはありませんでした。近所の人からお金を取る、という感覚がなかったということです。電話を借りた人の方が、お店の電話を貸してもらったら、お返しという意味を込めて、そこの店で品物を買う、というようなことをしていたと思います。電話を貸すということは、店のサービスのような感覚でした。ですから、『ちょっと電話貸してくれるでえ。』と言って電話を借りに来た近所の方が使いやすいように、電話機を店先に置いていました。電話の貸し借りだけではありませんが、このような付き合いを通して、近所同士のつながりというようなものがあった、ということを思い起こすことができます。」

 ウ 行商の町

 「この辺りは様々なモノが行商で売られていたので、行商の町であったとも言えます。豆腐店は朝、笛を吹いて豆腐やお揚げ、温かいコロッケを自転車に積んで売りに来ていました。豆腐を買いに行くときには、ボールを持って買いに行っていました。また、中須賀や大江の鮮魚店の人たちがリヤカーや大八車を引いて魚を売りに来ていましたし、毎日ではありませんでしたが、大根など、季節ごとにその時期の野菜をリヤカーに積んで売り歩く人や、天秤(てんびん)(天秤棒)を担いで椿油を売っている人もいました。近くには住友病院や個人病院があり、大抵の家庭には掛かりつけの医者がありましたが、置き薬を売る薬売りも来ていました。子どもに風船などをくれていたので、薬売りの人が家を訪ねて来るとうれしかったことをよく憶えています。」

 エ 県外へ行く

 「県外へ行くときには、国鉄(日本国有鉄道、現JR)をよく利用しました。新居浜駅から高松(たかまつ)まで列車で行って、宇高連絡船に乗って本州へ渡っていました。蒸気機関車が走っていたときには、トンネル内では窓を閉めておかないと、蒸気機関車から出る煙が客車に入ってきて、顔が真っ黒になるようなこともありました。高松駅では、乗船場へ続く長い桟橋を走って連絡船に乗った記憶があります。連絡船の中で販売されていたうどんをデッキで食べることが楽しみでした。高松から宇高連絡船に乗ると『外へ出た。』、宇野(うの)(岡山県)から乗ると『帰って来た。』というような気分になっていました。」
 Dさんは高校時代の修学旅行の思い出について、次のように話してくれた。
 「私(Dさん)は昭和32年(1957年)に高校の修学旅行へ行きました。当時は列車で東京(とうきょう)まで行きました。新居浜駅から列車に乗って、連絡船に乗り換えて、本州では宇野から東京までずっと列車での旅でした。列車は貸切で、蒸気機関車が客車を引っ張っていました。列車は夜通し走って東京へ向かっていたので、夜には座席で横になって寝ることができない人もおり、『今度はお前が床で寝え。』と言われて、客車の床に新聞紙を敷いて寝るようなことがありました。」
 Hさんは中学校時代のバスでの修学旅行の思い出について、次のように話してくれた。
 「私(Hさん)が学生のころは、バスを使っての修学旅行でした。中学校の修学旅行の時には、当初、宇高連絡船を使って本州へ渡る予定でしたが、海が時化(しけ)て船が高松の港を出た途端に波をかぶり始めました。バスに直接波がかぶると、バスに乗ったままの状態だった私たちは一気に不安になり、女子生徒はザワザワと騒ぎ始めました。あまりの波の高さからでしょうが、連絡船は宇野へ向かうのをやめて高松港へ引き返し、私たちを乗せたバスも下船して他の便で本州へ渡りました。本州へ渡る際に時間のロスがかなりあったので、初日に泊まる旅館への到着が大幅に遅れ、夜中の12時を過ぎていたように思います。当時は生徒数が多く、修学旅行班が二つか三つに分けられていて、班ごとに大阪(おおさか)や京都(きょうと)に泊まるようになっていました。私は京都に泊まる班の方だったので、旅館に到着する時間が余計に遅くなってしまったのです。普通は乗船したらバスから降りて客室へ行きますが、『修学旅行だからバスから降りないように。』と言われていて、バスに乗ったまま時化た海を渡っていたので、船の揺れがひどかったことをよく憶えています。そのときに、バスが波をかぶったので、やはりみんな怖くなって船に引き返してもらい、ルートを変更したのです。」


<参考文献>
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・新居浜市『新居浜市史』 1980
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』 1990
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『新居浜市の風土と人々のくらし』 2005
・宮西校区まちづくり推進委員会、新居浜市立口屋跡記念公民館『写真でみる わたしたちの口屋』