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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 塩田の記憶

 多喜浜塩田の開発は古く、元禄16年(1703年)の深尾権太輔(ふかおごんだゆう)に始まり、開発事業を受け継いだ天野喜四郎(あまのきしろう)らにより、古浜(こはま)・東浜(ひがしはま)・久貢浜(くぐはま)・北浜(きたはま)・三喜浜(みきはま)の五浜が築造され、総面積240町歩(約240ha)に及ぶ大塩田が160年余りの歳月を経て慶応元年(1865年)に完成した。
 完成した塩田は、明治維新の後も地域の基幹産業としての役割を担い、多喜浜地区の開発や地域住民の生活を支えてきたが、昭和18年(1943年)には戦争の影響による製塩のための資材や労働力不足で、塩の生産が激減するという困難な時期に直面したこともあった。戦後になると、昭和4年(1929年)の第二次塩業整備令により廃田となっていた三喜浜塩田が昭和29年(1954年)に流下式塩田として復活し、翌昭和30年(1955年)には西浜(久貢浜)塩田及び東浜塩田(三番・四番・五番)が流下式に切り替えられ、従来の入浜式塩田からより製塩効率の良い塩田へと転換が図られた。しかし、製塩技術の近代化による化学製塩の増加と安価な外国産塩の輸入という、時代の流れに対抗することが難しくなってきた昭和34年(1959年)に第三次塩業整備令が出されると、多喜浜の五つの塩田は全て廃止され、250年余りの歴史に幕を下ろすこととなった。
 廃田後の昭和39年(1964年)、新居浜の沿岸地区が東予新産業都市の指定を受けたことにより、塩田跡地は新居浜東部臨海工業団地となり、工都新居浜を支える工業地域として変貌を遂げた。
 戦中、戦後から昭和30年代、40年代の多喜浜の塩田とともにあったくらしや廃田後の人々の様子について、地域の人々から話を聞いた。

聞き取り調査協力者
 Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和9年生まれ)、Cさん(昭和9年生まれ)、Dさん(昭和9年生まれ)、Eさん(昭和9年生まれ)、Fさん(昭和9年生まれ)、Gさん(昭和10年生まれ)、Hさん(昭和10年生まれ)、Iさん(昭和11年生まれ)、Jさん(昭和12年生まれ)、Kさん(昭和12年生まれ)、Lさん(昭和14年生まれ)、Mさん(昭和16年生まれ)、Nさん(昭和17年生まれ)、Oさん(昭和19年生まれ)、Pさん(昭和19年生まれ)、Qさん(昭和19年生まれ)、Rさん(昭和19年生まれ)、Sさん(昭和20年生まれ)、Tさん(昭和21年生まれ)、Uさん(昭和22年生まれ)、Vさん(昭和23年生まれ)

(1)塩田で働く

 ア 父親の仕事を受け継ぐ

 「私(Fさん)は昭和9年(1934年)に多喜浜で生まれました。大叔父が塩田の頭領(とうりょう)(責任者)をしていて、私の父親も塩田の一戸前(塩田の経営単位)の責任者である『大工(だいく)』として仕事をしていました。昭和25年(1950年)、私が学校を卒業した4月に父親が亡くなり、その時に、『お前が親父の跡を継げ。』と言われ、塩田での仕事を始めました。私が仕事を始めたころには、塩田の設備がそれ以前に比べて大分近代化されていました。設備が近代化される以前は、塩田の仕事がえらい(しんどい)からといって、塩田の大工さんの子どもたちでさえ新居浜の住友へ勤めに行くことが多く、塩田の仕事に就く人はあまりいませんでした。私は大叔父と祖父から、『仕事を5年経験したら一戸前の責任者の大工にしてやる。』と言われて、入浜式の塩田での仕事を5年間やりました。
 私が塩田での仕事をしていた昭和27、28年(1952、53年)ころから、入浜式の塩田が流下式に転換されていきました。私が仕事をしていた東浜の五番浜も流下式塩田へと転換されて、今までのように人手が必要なくなり、五番浜で仕事をしていた浜子(はまこ)の方は退職することとなりましたが、私は引き続き新しくなった五番浜で働くこととなりました。
 塩田の大工さんは、現場での一番の責任者で一年雇用でした。中学校を卒業したばかりの若い従業員を配荷(はない)といいます。当時は若い配荷でも一人前の給料を稼ぐことができていました。配荷の上に副頭(さし)、頭(かしら)、大工とあり、頭が大工を補佐し、副頭が頭や大工を補佐するという職責になっていました。女性の従業員は浜寄(はまよせ)や寄子(よせこ)と呼ばれていました。
 塩田の仕事は天気に左右されてしまいます。天気が良いときに効率良く仕事の準備や作業を進めるために、雨が降っても仕事に出て、塩田に溜(た)まった雨水を塩田の外に出す作業を行わなければなりませんでした。特に大工は、夜に雨が降ると地場に雨水が溜まってしまうので、潮が干潮となる時間には必ず樋門を開けて溜まった雨水を排水しなければなりませんでした。また、天気が良くなり、満潮になれば今度は浜溝へ海水を入れる作業をしなければなりませんでした。とにかく仕事はお天気仕事で、ボンデン(持浜旗)が上がったら、隣浜の人たちと競争のように仕事をしていました。ボンデンが上がらないうちに作業を始めるようなことがあると、周りから、『あれ、何しよんぞ。』と文句を言われるので、昼御飯を食べて、ボンデンが上がるとすぐに作業ができるように、みんな待ち構えていました。砂が最も乾いたときに作業をしないといけないので、短時間で作業を終えることが必要でした。土を上手に振ったとしても、下の方まで塩は着きません。冬は表面から10mmくらい、夏は15mmから20mmくらいが塩を含みます。それを浜引きで何度も混ぜるたびに潮をかけて土に塩を付着させていました。夏には地場の土が塩分を含んで乾燥するので、砂利のように固くなっていて、その上を裸足で作業をしなければならなかったので、足が痛くてたまりませんでした。陸(おか)の方から塩田での作業の様子を見ていた人は、『あれ、何を慌てて仕事をしているのだろう。』というくらい、急いで作業を行っていたことを憶えています。」
 また、頭という立場で塩田での仕事に携わっていたEさんは、次のように話してくれた。
 「塩田で作業をする人にとって、ボンデンの合図を守るということは一番大切なことでした。ボンデンには赤旗と赤白旗の2種類があって、赤旗が上がり、塩田の責任者が『明日は作業ができない。今日のうちに作業をやっておかないと地場がだめになる。』と判断すると、翌日の持浜の地場の作業も行うようにしていました。
 また、父親が塩田で大工をしていた関係で、3歳くらいまでは両親が仕事をしている間は祖母に預けられて陸で日中を過ごしていましたが、それ以降は塩田の中を上半身裸、裸足という格好で走り回っていました。塩田で仕事をするようになると、私の父親が塩田の大工だったということもあり、頭という役職に就いて仕事をしていました。家族総出での仕事だったということもあって、父親の後継者のような立場で、役職が頭ということになっていたのです。塩田での仕事に従事して、『辛い。』と思った作業は今でもよく憶えています。冬には早朝の暗がりの肌寒い中、仕事の準備を行うために塩田に出て行きます。当時は作業用の長靴がなく、もし、長靴を履いていたとしても足が凍ってしまいそうなくらい寒い中を裸足で準備をするのです。これは本当に辛い作業でした。朝の仕事は、各家庭によって開始する時間は異なりますが、大体暗がりの寒い時間帯から始めるのが普通でした。早朝でも暖かい夏場には朝の4時過ぎから作業を始めていました。私が中学生の時には、朝、学校へ登校するまでの時間で塩田での仕事を行い、家へ帰ってから朝ごはんを慌てて食べて登校しなければなりませんでした。」

 イ 一日の作業

 Bさんは塩田での一日の作業について、次のように話してくれた。
 「雨が降ると、地場が慣れてしまう(撒(ま)いた砂が地場になじむ)ので、それを浜引きで起こす浜起こしをしなければなりませんでした。この作業が塩田では一番大切な作業と言えます。浜起こしの作業は、塩田一軒につき大体8名から10名での作業で、全員で浜引きを引っ張って浜起こしをしていました。私(Bさん)は同級生よりも2年遅く塩田での作業に従事するようになり、配荷という一番下の役から仕事を始めました。仕事を始めた当初は、見渡すと霞(かすみ)がかかっているように見える広い塩田を、丁寧に土をおがす(掘り起こす)ように浜引きを引いていたので、浜起こしはとても辛い仕事だと感じていたことを憶えています。浜引きの引っ張り方にも決まりがあって、まず塩田を横、縦と引っ張り、次は大斜往(おなばい)、小斜往(こなばい)というような順序がありました(図表2-1-3参照)。朝早く始めることができれば、10時ころには作業が終わっていたと思います。6月から7月、初夏の梅雨明けごろは蒸し暑く、作業が本当に辛かったことを今でも憶えています。朝の4時ころから行う沼井(ぬい)掘りの作業は4名で行いますが、沼井から掘り出した土を地場に振らないといけないので、各沼井から掘り出す土の量を合わせておく必要がありました。実際に鍬(くわ)を持って振鍬の仕事をやると分かることですが、片方の沼井から出した土が多く、もう片方の沼井から出した土が足りなくなるということを防ぐ必要があったのです。このような点で要領良く仕事をする必要がありましたが、作業の早い人はダッダダッダと沼井を掘って均等に土を出していました。沼井掘りの仕事は開始が朝早いため、最初のうちは仕事に慣れず、開始ギリギリに塩田へ行くと、先輩方がすでに仕事を始めている、というようなことがありました。朝の沼井掘りの仕事が終わると午前中の仕事は終わりで、一旦家へ帰って昼の12時ころまで休憩を取っていました。12時になったら今度は持浜といって、また浜引きの作業を行っていました。その作業は大体1時間くらいで終えることができていたので、午後3時に入鍬が始まるまで休憩をして、それから地場に広げている土を鍬で沼井の中に入れる入鍬の作業を行っていました。この入鍬の作業は夕方の4時ころには終えていました。入鍬の作業が終わって、その後浜引きの作業をする人たちは、沼井の中に入れた土の中に潮水を入れて、土に付着した塩分を海水で流す作業を行っていました。一日の仕事の全てが終わるのが夕方6時ころだったと思います。」

 ウ 塩田と女性

 塩田で働く女性について、Bさんは次のように話してくれた。
 「女性でも力の強い人は男の役を担っていました。家族全員で男性の労働力不足をカバーしていたと言えます。塩田で働く人の多くは、家で農業を行っていました。田畑での作業をしながら塩田での仕事に従事していたのです。昔はお麦を作っていましたが、その麦わらを沼井の撒砂に潮水を流し込むときに使うアテコに使っていましたし、稲のわらを細く編んでヒノコという道具にも使っていたので、それらの道具作りを行っていると休む暇がなかったのではないかと思います。」
 塩田と農業の二つの仕事をもつ人々について、Eさんは次のように話してくれた。
 「塩田の仕事をしながら、その合間に田んぼや畑の仕事をする、という感じでした。塩田の仕事は早朝から午前8時くらいまで行って、それから昼の12時くらいまで田んぼや畑の仕事をする、という状況でした。塩田と農業をやっている人たちは本当に休む暇もなく一生懸命に働いていたことをよく憶えています。」
 Jさんは、塩田の仕事に従事する母親や姉の姿から学びとったことを、次のように話してくれた。
 「私(Jさん)の父親は戦死したので、母親が私たち4人の子どもを育てるために浜寄として働いていましたが、その仕事である浜引きは大変な仕事でした。昼の2時ころ、一番蒸し暑い時間帯に炎天下で作業をしなければならないので、私は母親の負担を少しでも軽くしようと、分担部分の手伝いをしていました。小学校6年生の時から中学校3年生の時まで、昼からはほとんど、晴天のときには学校の授業を休んで塩田作業の手伝いに行きました。姉は稲わらを使って、叺(かます)という塩を入れる袋を機織り作業で編んでいたことを憶えています。家族が生活をしていくために、子どもが力を合わせて、姉は叺作り、私は塩田作業の手伝いというような生活を送っていたのです。この生活は非常に辛かったというしか表現の仕方が見つかりません。ただ、この辛さを経験しているので、後の人生において競争には負けないという強い気持ちと忍耐力を身に付けることができたのだと思っています。私にとって塩田での経験はかけがえのない財産なのです。後に賃金等の待遇が良い住友に入社して勤務しましたが、入社後は転勤が多く、磯浦(いそうら)工場から富山(とやま)へ転勤というように数多くの職場を経験しました。しかし、どの職場へ行っても仕事のしんどさや辛さに耐えられたのは、多喜浜での経験が私の基盤になっているからだと今でも思っています。」

(2)塩田と子ども

 ア かしょい

 FさんとEさんは「かしょい」について、次のように説明してくれた。
 「多喜浜には『おかしょい』という言葉があります。これは戦時中、働き盛りの男性が出征してしまったので、家のお年寄りや子どもまでもが塩田作業に従事して塩田を守らないといけない、ということから使われている言葉です。母親や姉といった女性も塩田での作業に従事していました。家族全員が力を合わせて仕事をするのです。」
 多喜浜塩田の「かしょい」は、戦時中のことだけではなく、戦後も多喜浜にくらす人々の生活の中に溶け込み、その思い出は、当時を「地域の子ども」として過ごした人々の心の中に深く刻まれている。聞き取り対象者の多くが、この「かしょい」の経験を語ってくれたということが、そのことをよく表していると言えるのではないだろうか。

 イ 「かしょい」の記憶

 聞き取り対象者の多くが、御自身が経験した「かしょい」について次のように話してくれた。
 「私(Cさん)の名字は多喜浜に一軒しかありません。これは私の父親が三喜浜塩田がある程度完成した大正10年(1921年)ころに坂出(さかいで)(香川県)の塩田から移って来たためです。昭和4年(1929年)、三喜浜塩田が廃田になり、坂出から来ていた人たちはみんな帰ってしまいましたが、私の父親はこの多喜浜に残ったのです。戦後、父親は住友鉱山が塩を必要としている、ということから三喜浜を再開発し、その塩田の大工として働いていました。私は中学生から塩田の手伝いを始めました。中学生の間、夏休みというのはほとんどなく、朝早くから塩田へ行って手伝いをしていました。高校へ進学する年には父親から、『高校へ行きもっても、塩田の手伝いはするんぞ。』と言われていたので、高校生になってからも手伝いは続けていました。ですから、塩田での作業は全て経験しています。中でも潮振りなど、本当に難しい作業がありました。しかし、父親からは、『お前がせえ。お前もせないかんのじゃけん、今から習うとけ。』と言われ、一生懸命に作業を手伝ったことを憶えています。」
 「私(Rさん)の父が北浜(沖浜)の五番浜で大工をしていた関係で、私は浜で生まれて塩田がなくなるまでそこで育ちました。小学校の高学年くらいから塩田の手伝いを始めて、中学生になると、天気の良い日は朝に沼井掘りを行って、それから学校へ行き、昼からは学校から帰って来て塩田の手伝いをしていました。途中、父親が体調を崩してしまい、私の兄もみんな塩田の仕事を手伝っていました。当時、午後からの時間を学校で過ごせなかったことが少し残念にも思えますが、塩田の手伝いをしたことは良い思い出として残っています。」
 「私(Mさん)が生まれたのは戦争が始まった昭和16年(1941年)です。私の父が塩田の大工をしていたこともあり、家族一丸となって忙しい夏場には手伝いをしていました。私は仕事をする父にまとわりつきながら塩田で過ごしたという程度なのですが、小学校6年生くらいまで手伝いをしました。5、6年生くらいになると、体が大きくなり力もついてくるので、子ども用の鍬を作ってもらっていました。それを使って、大人と同じような作業をしていたので、多少なりとも塩田作業の戦力になっていたと思います。夏休みには手伝いの後、父親から、『いいかしょいをした。』ということで、10円か20円程度の小遣いをもらっていました。当時、自転車の後ろにアイスクリンやアイスキャンディーを積んで売って回る人がいたのですが、それをもらったお小遣いの中から一つ5円程度で買って食べていました。子ども心にキャンディーを買えるだけのお小遣いをもらえることがうれしかったことを憶えています。学校がある日には、帰宅すると家族はみんな塩田での仕事へ行って、家には誰もいませんでした。私は食卓に置いてあったおにぎりと沢庵(たくあん)を食べてから塩田まで歩いて行って手伝いをしていました。」

 ウ かしょいと女の子

 家族総出で塩田作業に従事することが必要であったため、女の子も「かしょい」を行っていた。女性の方々は当時の記憶を次のように話してくれた。
 「私(Lさん)の家には私を含めて子どもが6人いました。父は住友化学に勤めていましたが、私が小学校2年生の時に、『会社の給料だけでは家族を養うことができない、塩田で働くようにすると海が近いので食べるものにも不自由しない、子どもがのびのびと育つかもしれない。』と考え、会社を辞めて塩田で働くようになったので、生活が大きく変わりました。父が塩田で勤め始めると、私も仕事の手伝いをしていたので、道具を持つ手にはいつもマメができていました。手伝いをしているときには、お昼御飯の時間になると食事のために家まで帰っていました。家で食事をした後は、午後からの仕事を手伝うために塩田まで走って行っていたことを憶えています。手伝いばかりしていて、十分に勉強ができなかったというのが今の正直な思いです。ただ、雨が降った場合は手伝いがなかったので、その時間を大切にして一生懸命に勉強をしていました。とにかく、父母の手伝いは本当によくやったと今でも思っています。」
 「私(Sさん)の父親が塩田の大工をしていたので、小学校低学年くらいから『かしょい』と言われている手伝いをしていました。土を寄せて沼井の中に入れる作業では、土がすごく重たくて大変だったことを憶えています。手伝いをするときには、早く塩田へ行かなければ子どもが作業をするための小さな鍬がなくなるので、それを取るために急いで塩田へ行っていました。子ども用の鍬は子どもが扱いやすいように柄の部分を少し切って、短くしてくれていました。夏場の手伝いでは、土が焼けている地場へ裸足で入って作業をするので足の裏がとても痛いのです。しかし、それでも痛みを我慢して子どもたちが競争で沼井の中へ土を入れていました。」
 「私(Aさん)の父親が塩田の大工をしていたので、幼いころから沼井掘りや沼井踏みなどの手伝いを一生懸命にしていました。私は昭和26年(1951年)に結婚しました。結婚後も、家での家事を終えてから昼間のうちに塩を入れるための叺を編む仕事をしていました。1日に5、6枚は編み、天気が良い日にはわらで編んだものを2枚縫い合わせて袋状にする作業をしていました。」
 「私(Kさん)は幼いころから塩田を歩き回っていました。父親が仕事をしていた塩炊きの釜屋では、鹹(かん)水が溜まると塩を作る釜に石炭を入れて火を点(つ)けていたのを憶えていて、私は母に言われてその釜屋へ弁当を届けに行ったことがあります。夏休み中の暑い日には、塩田で入鍬作業が行われている最中に、氷水をバケツに入れて持って行く役をしていました。『お水をどうぞ。』と言って、作業をしている人たちに飲んでもらったことをよく憶えています。塩田には水道が通っていなかったので、近くの井戸で水を汲(く)ませてもらって、天秤(てんびん)棒で担って運んで来た水を、午後3時半くらいに一人ずつ回って飲んでもらっていました。私は昭和31年(1956年)に高校を卒業しますが、それまで夏休みの時期には塩田の手伝いをしていました。父親が振鍬作業で沼井から掘り出した土を地場へきれいに振り広げるときには、『中学生になったら、遠い所(父親が振鍬で一振りで振り広げられる範囲)へ土を放っていてくれたら仕事が楽だ。』と言われ、振鍬作業のかしょいもしていました。また、女性は中学生くらいになると浜引きの作業を行いますが、このときも父から、『横に引くのが世話ないけん(簡単だから)、ずっと詰めて引かんかい。』などと、仕事を教えてもらっていました。私たちが作業をすることで、塩田で作業をしている人たちからは、『それでも助かる。』と言ってもらっていました。とにかく、塩田での作業はよく手伝いましたが、本当によくやった、という強い思いがあります。私の友だちには小学校高学年くらいから、『浜行かないかん。』とか『子守せないかん。』と言って、家に帰らなければならない子どもが多くいました。私の家では学校の授業を休んでまで手伝いをする必要がなかったのですが、よく手伝いをしたという記憶は鮮明に残っています。」

図表2-1-3 大斜往・小斜往

図表2-1-3 大斜往・小斜往

『多喜浜塩田遺産を活用した地域づくりの歩み』224ページの図から作成。