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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 大島のくらし

(1)大島の水産業

 ア さかんだったイワシ漁

 「昔はどの家庭も子どもが多く、上の子と下の子では年も離れており、長男は親のように下の子を育てるのが当たり前でした。私(Cさん)は9人兄弟の三男でしたが、長男が戦死したために、私が長男の役割を担うとともに、兄の子どもの面倒も見なければならなくなりました。それで終戦後に新居浜中学校(現愛媛県立新居浜東高等学校)を卒業すると大島(おおしま)へ戻り、農業や漁業に従事しました。
 大島ではほとんどの家が半農半漁でした。終戦後は、まだ個人で船を所有して漁をする人はそれほどおらず、多くの人がイワシ網の巾着船に乗り込んで漁に従事していました。漁では、2隻の巾着船に積んだ巻き網でイワシの群れを囲んで、網が海底に届いた所で網の裾を絞ります。網も今のように化学繊維ではないので長く使えば腐ることがありました。大島では一年を通じて、その時期ごとに応じた漁があり、イワシの漁期は春から夏の間と、11月ころから1、2月くらいまでの間でした。漁場は大島周辺だけでしたが、相当な量の水揚げがありました。
 巾着船が機械化されたのは昭和26年(1951年)で、従来は手で行っていた巻き網の裾を絞る作業を動力で行うようになり、従来に比べ疲労度がかなり軽減されました。今のように網を揚げるためのローラーなどはなく、網を揚げるのは人力だったので、2隻の親船(巾着船)に15人から16人ずつ乗っていなければならず、多くの人手が必要でした。戦後、大島には戦地から復員してきた人や、都会へ出ていて空襲で被害を受けて帰って来た人がたくさんおり、そういう人たちが巾着船に乗り込みイワシ漁に従事していました。網元からは、『網を揚げて下ろすという作業が多ければ多いほど、水揚げが増えるのだ。』と気合いを入れられて、多いときで一日に5、6回以上は網の揚げ下ろしをしました。
 終戦ころ、大島には網元が2統あり、1統の網元では、沖で漁をする網子が40人くらい、合計すると70人から80人以上の網子が働いていました。その当時、イワシは値が良かったので、島のほとんどの人がイワシ漁に従事していました。陸(おか)では多くの女性がイワシ加工業に従事しており、イワシを蒸したり、ムシロを広げて天日干しをしたりするという作業をしていました。天日干しは、湿度の高い梅雨時分を除いてやっていたと思います。夏に獲(と)れるイワシは3cmくらいの小さなものでしたが、冬のイワシは10cmくらいに成長しており、乾燥に4、5日以上かかっていました。その間に何度もイワシを外に出したり屋内に入れたりを繰り返すので、かなりの人手が必要でした。当時は、全て手作業の上に、沖から帰って来る船にも氷がないという環境だったので、製品の質は現在では売れないようなものでしたが、物不足の時代ということもあって飛ぶように売れ、大島は経済的に相当潤っていました。船員の給料は、必要経費と油代を引いて、半分を親方が取って、残り半分を頭数で割っていましたが、それでも結構良い金額になっていました。当時は公務員の給料の方が安かったため、役場に勤める人があまりおらず、島のほとんどの人は漁に出ていました。毎日、まだ日が昇っていない真っ暗なうちに漁に出て、天気が悪くなったときを除き、夕方に港へ戻って来ました。その当時はディーゼルエンジンの船で漁をしていましたが、燃料となる重油は、ドラム缶から出そうとしてもボットン、ボットンとしか液が出ない、今のC重油クラスに相当する品質の悪いものしかありませんでした。そのため、船を操縦する人は網を引く人よりも朝1時間くらい先に家を出て、重油を火で温めて融(と)かしてからエンジンをかけなければなりませんでした。
 今は魚群探知機を使って魚を探しますが、当時は魚見(うおみ)と呼ばれる人が1統につき一人おり、漁をする船員たちとは別の船に乗って肉眼で魚群を探しました。カモメは魚がいる所に群れているので、魚見の人は、カモメが海の中へ飛び込んで魚を獲るのを見付けると、船の上で2本のザイ(竹の先に少し毛ひげを付けた軍配のようなもの)を振って合図を送りました。ですから、魚見は視力が良くなければ務まりませんでしたが、読みが外れて魚が全く網に入らないこともありました。
 網元から受け取る給料は役割に応じて異なっており、船を操縦する人は1人半前、他の網を引く人は1人前から1.2人前、魚見は2人前の手当をもらっていました。」

 イ イワシの水揚げと加工

 「網船は沖で網を囲って網に入ったイワシを獲りますが、港と沖を行ったり帰ったりせず、運搬船が港と網船の間を行き来して、獲れたイワシを岸まで運んでいました。運搬船には二人乗っており、イワシの入ったざる籠を肩で担いで陸まで揚げていました。当時は今のように岸壁がなく、遠浅の海岸なので潮が引いているときは陸まで長い距離を担いで歩かなければなりませんでした。私(Cさん)は、当時はそれが当たり前のことだったので、大変だとは思いませんでした。
 親方は網と加工場の両方を持っていましたが、加工場にはまだ機械などは全くなく、全て手作業でした。女性たちは、陸へ揚げられたイワシを釜で茹(ゆ)で、ムシロの上に広げて天日で乾燥させ、夕方になると、全て集めて屋内に置いていました。明くる日になると、またイワシを干したりひっくり返したりしながら乾燥させ、それを5、6日繰り返して完全に乾燥させた後、袋詰めをして、仲買人に売っていました。加工と製品の袋詰めといった作業を一貫して行っていた当時の作業所は、今は残っていません。
 大島では漁業協同組合のような組織は戦前にもありました。私が子どものころは販売所という名称で魚を売るだけでした。戦前は漁業会という名称で、自主的に組織を作って、魚の販売とか資材の共同購入をしていた時代があったと思います。大島漁業協同組合という名称になったのは、昭和30年(1955年)に協同組合法ができてからです。大島の漁業協同組合の中に、魚を扱う荷捌(さば)き所(魚市場)があり、島外からも魚の買い付けに来ていました。渡海船でやって来て、魚を積んで帰り、自転車で商いをしていました。大島の人は、時代劇で見られるように籠を天秤(てんびん)棒で担いで魚の行商をしていました。大島には漁師がかなりいましたが、ほとんどは小さな櫓櫂(ろかい)船での漁だったので、大した水揚げ量ではありませんでしたが、それで生計を立てていました。
 イワシは競りにかけられることはなく、買い付けに来た仲買人に売られていました。荷捌き所で競りにかけられる魚は、経営規模の小さな漁師が獲ってきた魚だけで、種類や量もそれほど多くはありませんでした。
 昭和40年代には大島の人口は減っていきましたが、これは30年代半ばにいわゆる高度成長期を迎え、漁師として船に乗るよりも会社員や公務員になった方が安定した給料がもらえるということで、島を出てサラリーマンになる人が増えたからだと思います(図表2-2-2参照)。大島では徐々に漁業者が減り、仲買人に島へ来てもらうのは効率的ではないので、平成に入ってから黒島(くろしま)側へ荷捌き所を移しました。」          

 ウ イワシ漁からノリ養殖へ

 「大島でのイワシ漁は昭和30年代に入ると振るわなくなり、40年代に入ってイワシが獲れなくなると、徐々にノリ養殖に切り替わっていきました。私(Cさん)たちが大島で最初にノリ養殖を始めたのは荷内(にない)海岸沖でしたが、その後、ノリ養殖を希望する人が増えて漁場が足りなくなったため、島の東側の海でノリの養殖を行うようになりました。西条(さいじょう)や黒島、垣生(はぶ)では、海岸の干潟に竹の支柱を立ててノリ養殖を行っており、特に西条では早くからノリ養殖を行っていました。大島の周囲にはそうした干潟がないため、浮流し方式で養殖を始めました。浮き流し方式というのは筏(いかだ)を組んで錨(いかり)を下ろし、その中へ網を流すという方法で、ノリが常に海上へ浮いているような状態でした。大島がこの方式を採用したのは県内でも早い方でしたが、大島漁協の組合長と玉津(たまつ)漁協(西条市)の組合長が海軍の同年兵で、普段から相互に情報交換を行っていたことも影響していたのだと思います。浮流し方式でのノリ養殖を始めるにあたっては県水産試験場東予分場の指導を受け、大島では、北側を除く島の周囲全てで養殖が行われるようになりました。」 
 「ノリ養殖は浮流し方式の方が効率が良かったと思います。遠浅の海岸では、潮があるときは作業がしにくいため、ある程度潮が引いた後に、ノリ船(田船のような、エンジンの付いていない木造の船)を使ってノリを採りに行かなければなりません。それに対して、浮流しでは海面にノリを浮かせているので、時間を問わずいつでも養殖場へ船を着けて、ノリを収穫して、そのまま積んで帰ることができました。現在ではノリ養殖のほとんどは浮流しで行われています。一漁業者当たりの経営規模では、大島の方が他の地域よりも大きかったと思いますから、収入も多かったのではないでしょうか。」
 私(Cさん)がノリ養殖を始めた当時(昭和40年〔1965年〕ころ)、ノリは『黒い札束』と言われていました。当時は、茶箱一つに4,800枚のノリが入っていましたが、それ一つが米10俵と同じ値段でした。米1俵といえば4斗(約72ℓ)の米が入っていましたから、ノリは大変高価なものでした。大島のノリは乾(ほ)しノリで、出荷すると検査場で等級を付けられました。最初は優と松、竹、梅の4等級でしたが、現在では何十もの等級に分かれています。同じノリ1枚でも等級が違うと単価が全く違っており、黒塗りの品質の良いノリは高い値が付きました。大島では漁業者の方がいろいろと努力を重ねたこともあって、大島産のノリの等級は優が比較的多かったように思います。
 私がノリ養殖を始めたころは、ノリをすくのも1枚ずつ手作業で行っていましたが、当時の漁協の組合長が、国の沿岸構造改善事業を活用してノリすき機と乾燥機を整備してくれたおかげで、随分と作業が早くなりました。昭和60年代に入ると、ノリ加工は全自動になり、ノリを機械に入れるとすぐにすいて脱水し、乾燥したノリが出てくるようになりました(写真2-2-9、図表2-2-5の㋐参照)。大島にノリ共同加工場ができた当初は、これらの機械は最新のものだったのですが、やがて、その機械が時代遅れになると、個人でノリ加工を行う人が出てきました。
 また、西条では竹の支柱を立てて干出(かんしゅつ)(種を付けたノリ網を一定の時間海の上に出して乾燥させること)しており、その間にノリの水分が抜けていきます。干出して水分が抜けると、丈夫でケイソウも付かないきれいなノリが採れるのですが、大島で採れたノリはいつも海に浸かっているため、ノリ自体が弱い上に雑菌や小さなゴミなどが付いていました。やがて、ノリを酸性の液で洗うと良いということになって、pH2.5くらいの強酸で洗うと、ノリは脱水症状になって、ケイソウや雑菌も全て死んでしまいました。その後、ノリ加工の全自動化が進むと、ゴミの除去まで機械が行うようになり、今市場に出回っているノリにはゴミ一つ付いていません。そうした機械の価格は大変高く、会社組織でないと購入できません。西条辺りでもノリ加工の全自動化が進み、ノリを全自動の機械に入れると、選別機を通って10枚ずつ束にして、それを100枚にして結束して出てきます。そうした機械を購入するための設備投資には何億円もかかりますから、個人ではとても無理です。あまりに機械化が進み過ぎて、大島はその流れに乗り切れませんでした。また、大島周辺の海では水質が良くなって栄養塩がなくなったのと海水温が上がって窒素分が不足した影響で、ノリが黒くなる前に色落ちするようになりました。
 大島でのノリ養殖は、海水温の上昇と栄養塩の不足、機械化の流れに追い付けないこともあり、10年くらい前にやめてしまいました。大島漁業協同組合で一定規模の生産量がないと大島産のノリとして出荷できなくなるという理由もあったと思います。また、ノリの養殖が減っていった原因として、韓国からの輸入ノリの影響もありました。安価な輸入ノリが入ってくると企業は輸入ノリを購入し始め、それに対抗するためにはより品質の良い高級なものを作らなければならず、そのためには設備投資をしなければならない、という悪循環が続いてノリ養殖をやめることになったのです。同じころに、大島の近隣でもノリ養殖漁場が姿を消していきました。かつて県内のノリ養殖は本当に盛んで、西条で行われていた入札には、今の四国中央(しこくちゅうおう)市や中島(なかじま)(現松山市)の方からも業者が集まっていましたが、今では県全体のノリの生産が減ったために、入札は県内ではなく岡山県で行われています。」

 エ 近代的なイワシ漁

 「大島では、古くから行われてきた形態でのイワシ漁は、時代とともに行われなくなりましたが、昭和50年代の後半から新しい形態の近代的なイワシ網漁が始まり、イリコの加工場の施設が建設されて、平成26年(2014年)まで共同経営で行われていました。
 かつてのイワシ漁は、巾着網でぐるりと囲んで魚を獲っていたもので、網も今のような化学繊維のものではなかったので長く使うと腐っていきました。今では船引きに変わり、袋状の網を引っ張ります。また、魚群探知機を導入するなど機械化されて、人手もそれほど必要とせず、少人数でできるので採算が合うこともあり、結構良い収入になっていました。産卵のために瀬戸内海へ来るイワシを獲って煮干しをして、イリコやちりめんとして出荷しました。やがて、イワシ漁は、自然環境の変化の影響もあるのか、年によって豊漁と不漁の差が極端になり始めました。漁師さんも本来の自分の漁業経営をしながら、その時期にイワシ漁に出ており、イワシの水揚げ量が少ないと収入が少なく、徐々に一人抜け、二人抜けして、出漁に必要な人員が確保できなくなりました。そうしたこともあって、平成26年(2014年)を最後にイワシ網漁は行われなくなりました。」

 オ 伝統的な枡網漁

 「枡網漁というのは、長い孟宗竹(もうそうちく)の杭を広い範囲に打ち、その周辺を網で囲って入口と魚が入り込む袋を作り、その中へ入り込んだ魚を獲るものです。枡網を移動するには大変な労力が必要なので、自由に移動することはできません。あまり沖合の所に網を張るとなると作業が大変なので、比較的陸から近い所に設置していました。
 県から許可をもらった人でなければ網を張る権利がなく、設置できる枡網の数も限られていました。大島では5軒の漁業者が10帖(じょう)の枡網を立てていました。枡網の場所の権利は組合が持っており、組合の中で誰が枡網漁を経営するか決めていました。10帖の枡網には魚が獲れる場所と獲れない場所があり、漁を行う枡網の場所は5軒で毎年替えていましたが、その中でも古江(ふるえ)に立てられた2帖の枡網が大島では一番良い網代(あじろ)でした。大島の周囲だけでなく、向かいの荷内(にない)にも七つか八つの枡網がありました。荷内の漁業権は、昔からの実績でずっと大島の漁業者が持っていました。枡網漁は収入が最も安定しており、経営していたのは大島の有力者ばかりでした。竹を打って、網を囲うというやり方は昔から変わっていません。変わったのは、網が化学繊維になって腐らなくなったことくらいです。
 毎朝船で枡網のある場所へ行って、袋に入っている魚を獲って帰り、獲れた魚は市場で販売していました。枡網にはカマスやカレイ、スズキ、チヌ、タイなど、小魚から大きな魚までその季節の魚が何でも入っていました。高級魚だったスズキやチヌ、タイは、現在は漁獲量が増えたため、並かそれ以下の魚に価値が下がってしまいました。タイといえば春に獲れる魚とされ、昔は年が明けてタイを獲ると、『初鯛』といって漁業協同組合から御祝儀として1升瓶の酒1本をくれたものですが、今では年中獲れるようになったことと、養殖もののタイが増えたこともあり、タイの価格が下がってしまいました。ボラなどは売れなくなったため獲らなくなりました。地球の温暖化が影響しているのか分かりませんが、魚の生態系が変わってしまっています。魚が陸の方へ寄って来なくなったことによる漁獲量の減少や漁業者の高齢化のため、平成25年(2013年)ころから枡網は全てやめてしまいました。逆に、これまで陸に近い海でいくらでも獲れていた魚が沖合の底引き網で獲れるようになりました。
 また、国の沿岸漁業振興助成事業により、昭和61年(1986年)からクルマエビの養殖を行うようになり、平成4、5年(1992、93年)ころからタイやヒラメの養殖も始めましたが、今はいずれも行っていません。」

(2)大島の農業

 ア 古くから行われていた白イモ栽培

 「大島は段畑ばかりで、元々お米はほとんど作っていませんでした。昭和20年代の後半まで、古江という海岸に近い所で自噴水を使って約3反(約30a)の田でお米を作っている農家がありましたが、その1か所を除けば全て畑でした。大島では古くからサツマイモが栽培されており、私(Dさん)が子どものころは、毎朝、どこの家庭でもイモを蒸(ふか)して食べていました。
 大島の特産品である白イモの品種名は七福芋(イモ)と言いますが、どのお年寄りに尋ねても、シロイモは昔から作っていたと話します(写真2-2-5参照)。白イモが色白の人のように白いからなのか、大島では、アメリカイモとも呼んでいました。白イモはおいしいのですが収量が少なく、食糧増産が求められた戦時中には、それほど味は良くないが収量の多い『高系4号』という品種のサツマイモの栽培が奨励されていました。戦時中、高系4号は『護国イモ』と呼ばれており、当時、学校の運動場に植えていたサツマイモもおそらく護国イモだと思います。大島の農家の人は、自分の家での主食として白イモも継続して作っていて、それが時代を経て特産品として生まれ変わったもので、元々あったものが復活したということです。白イモは普通のサツマイモと比べて甘くておいしいので、島外の農地で白イモを栽培しようとする人もいるのですが、なかなかおいしいイモが収穫できないようです。島外の水田は水分が多く、土も肥えているため、イモの蔓(つる)はよく伸びますが、割れたりした品質の悪いイモしかできないので、白イモ栽培には肥えた土地は適していないのでしょう。昔は、同じ畑で麦とイモを栽培していましたが、今のように化学肥料がないので、麦は1反(約10a)当たり2石(約360ℓ)から2石5斗(約450ℓ)くらいしか収穫できませんでした。麦の収穫後に白イモを栽培すると、土地自体はやせていたはずなのに、いくらでも収穫できました。当時は、『麦は年貢(地主への小作料)を取られるけど、イモは年貢を取られんけん、ええ。』と喜んでいました。」

 イ 麦・タバコの栽培

 「戦後は食糧難で、丸麦をしゃいで(つぶして)お米と混ぜて食べていましたが、お米と半々であったり麦の方が多い御飯を食べていました。終戦後、農地改革で地主がいなくなりましたが、それまでは地主に収穫物の半分近くを小作料として取られていました。大島には大島屋という屋号の大地主がおり、島外の土居(どい)町(現四国中央市)に約10haの田を持っており、そのお米で大島で酒を製造し、島外で販売していました(写真2-2-11、図表2-2-5の㋑参照)。
 私(Dさん)の中学生時分は、家の農作業に駆り出され、学校の授業が終わるとすぐに畑へ行って手伝いをしていました。日曜日は一日中農作業をして、特に夏場は日が長いので大変でした。畑には、麦を収穫した後にタバコを植え付けたりしていました。麦の収穫後、地面に置いて干していた麦わらを集めるとき、その下にムカデがたくさんいて、刺されたこともありましたが、あれは本当に嫌でした。収穫後、畑にはすぐ次の作物を植え付けていて、中には1年で三作(三毛作)をしている所もありました。」

 ウ ミカン栽培の導入

 「大島の農業において主たる作物は、サツマイモや白イモで、裏作は麦でしたが、徐々に換金作物の栽培が始まり、葉タバコの栽培が導入されました。昭和20年代後半から30年代にかけて、ミカンが非常にお金になるということで、国を挙げて奨励し、全国的に温州ミカンが作られるようになりました。当時、農業改良普及員という県の職員がいて、各市町村に最低1名駐在して指導していました。そのころ、すでに大島は新居浜市と合併していましたが、大島を担当していた普及員の勧めで、ミカン栽培をやろうということになり、県の果樹試験場の職員にも現地に来てもらって、土壌や栽培条件を調査した結果、ミカンの栽培に非常に適しているということで、昭和30年(1955年)にミカンを導入することになりました。
 まず、大島で圃(ほ)場を借りて、共同で苗木を育てることから始めましたが、最低2年くらいは育てなければなりませんでした。その後、農業改良普及員によって、ミカン栽培を希望する農家が集められて講習会が開かれ、植え方や植える要領などいろいろな指導を受けました。ミカンは永年作物なので、ただ土に植えさえすればよいのではなく、しっかり手を掛けて木を育てなければなりませんでした。土壌の悪い所では、ミカンの苗1本当たり1m四方、深さ1mの1m³くらいスコップで掘って、そこに木の枝や草などの植物の堆肥になるようなものをまず埋めるように指導されました。植物は腐ると地面が下がってしまうので、草と土を交互にサンドウィッチ状に埋めて高く盛っておいて、そこにミカンの苗を植えるという要領でした。
 農道ができるまでは、収穫したミカンを天秤棒で担いで運ばなければならず大変でしたが、その後、徐々に整備されていきました。農道整備に着手したのが昭和30年代で、昭和33年(1958年)ころには山の上の方まで農道が整備されていました。土地改良区が県の担当部署と協議しながら、長期的、計画的に農道整備を進め、最終的には島の外回り約10kmの農道整備になりました。昭和30年代には随分整備が進みましたが、まだ全線は開通していませんでした。10kmを整備するのに10年くらいかかりました。維持管理が大変なので、現在は市道にしてもらっています。もともと道のない海岸や山の急勾配の斜面に道路を付けるのですから、大変な工事でした。農道整備は土地改良区が事業主体となり、調査測量や設計計画については新居浜市の協力を得ながら、県を通じて国から補助金をもらって進めていきました。長期間の借入で整備を進めていたので、最近ようやく借入資金の返済が終わったくらいだと思います。
 大島でミカンが最も広く栽培されていた昭和50年(1975年)ころは、全耕地面積の約64%に当たる45haが果樹園で、日当たりの悪い所や、段畑など栽培や運搬に労力のかかる所を除いて栽培に適した場所のほとんどでミカンを作っていたと思います。当時の大島の全123戸のうち、ミカンの栽培農家が120戸だったので、ほとんどの家でミカンを作っていたことになります。年間の生産量が約600tで、生産額が4千万円から5千万円くらいだったでしょうから、まずまずの収入だったと思います。当時、大島の農家は二つの青果組合に加入しており、それぞれに共同で出荷していました。ミカンが全国的に生産過剰になり、昭和56年(1981年)に、国がミカンの生産調整を発動したのをきっかけに、大島でも3年間かけてほとんどのミカンの木を伐採したので、今ではミカンを栽培している農家はほとんどありません。昭和30年代に植えたミカンも植えてから50年以上の老木になってしまい枯れていきましたが、今では新しい苗木を育てようにも大島には若い農家がいません。」

 エ 豚の飼育

 「ミカン栽培が昭和30年代に広がると、それまで収入源となっていたタバコの栽培をやめて、さらに麦やイモも作らなくなりました。ミカンを植えてからお金になるまで、最低5年から6年という期間が必要なので、その間のつなぎということで、大島では豚が盛んに飼育されていました。一部ブドウ栽培も行われましたが、それ以上に豚の飼育を奨励していました。どの農家もクズイモや変形したイモといった、商品価値の低いイモを豚の餌として、豚を2匹か3匹飼って、それを育てて出荷して収入を得ていました。ミカン栽培が軌道に乗り始めると、豚の飼育は行われなくなりましたが、豚を住宅地で飼っていて、臭(にお)いなどの問題が取り沙汰されるようになったこともその一因だと思います。」

(3)大島の町並み

 ア 島に多くあった雑貨店

 「戦時中にも雑貨店はありましたが、そのお店があったのは昭和20年代までだったと思います。終戦後すぐに、あめやデパートというお店ができました(図表2-2-5の㋒参照)。奥さんが商売上手で、その後、新居浜で中華料理店を出したり、結婚式場まで出したりしました。私(Dさん)は学生時分に、あめやさんで運動靴を買ったことを憶えています。当時は兄弟が大勢いたので、靴はなかなか買ってもらえない貴重品で、普段は下駄や草履を履いていて、どこかへ出かけて行くというときしか靴を履かせてもらえなかったように思います。
 終戦後、島に復員してきた人が多くいて、昭和30年代から40年代にかけてが大島の人口のピークで、1,800人から2,000人くらいが住んでいたかもしれません(図表2-2-2参照)。それだけ多くの人が生活するために必要なものを販売するお店ができたと思いますが、30年代よりも40年代に入ってぐっと店が増えた気がします。高度経済成長が進むと、島外へ移り住んでサラリーマンになる人が増えてきて、島の人口が減少していくと同時に、店も少しずつ減っていきました。
 大西商店は元は米穀店で、米のほかに酒、タバコ、塩といった専売品を売っており、主食は全部ここで買っていました(図表2-2-4の㋓参照)。村上商店でも酒や塩、タバコを売っていて、大西商店と村上商店は古くからお店をしていました(図表2-2-4の㋔参照)。木屋商店は雑貨販売とお米の精米販売をしており、平成10年(1998年)ころまでお店をしていました(図表2-2-5の㋕参照)。今は島でお店は1軒だけになっています。」

 イ 衣料品の販売

 「以前には衣料品の販売をしている方が二人いて、一人は比較的遅くまでやっていて、主に婦人服を販売していましたが、お店に商品の陳列もするなど、結構手広く商いをしていました(図表2-2-5の㋖参照)。その方が販売をやめるのと入れ替わる形で、昭和40年代に衣料品の販売を始めた方がいましたが、その方はほとんどが行商で、お店に衣料品の陳列はしていませんでした(図表2-2-5の㋗参照)。
 戦前から、どういうつてがあったのか分かりませんが、宇摩(うま)郡の関川(せきがわ)(現四国中央市)から呉服の行商さんが来ていました。昔の自転車は、後ろの荷台に荷物を積むために後輪は前輪よりも一回り大きなタイヤにしていて、荷台も大きくしていました。荷物が多いときは、店主と店員の二人で自転車に荷物を積んで行商に来ていました。当時、娘さんがいる家では、成人式の際には振袖を、嫁入りの際には着物一組を買っており、高価な着物類はその行商さんから買っていたので、結構商売になっていたようです。私(Dさん)には13歳離れた姉がおり、昭和20年代の後半ころ、母親と姉が着物を見ていたことを憶えています。昭和30年代には、行商はそれほど来なくなりました。」

 ウ 菓子店の思い出

 「戦時中、電気工事店をしていたおじいさんが、アンモニアか何かで甘味料の入った水を凍らせたものに木の棒をさして、アイスキャンデーの製造をしていました。種類は少なかったのですが、箱のケースで一度にたくさん製造していました。私(Dさん)の家はお店のおじいさんと知り合いだった関係で、買いに行くと何本かまけてくれましたが、終戦ころにはやめていました。
 また、『あわや』というお菓子を専門に売っていたお店がありました(図表2-2-5の㋘参照)。それほど大きな店ではありませんでしたが、おばあさんが一人で店番をしていて、飴(あめ)や饅頭(まんじゅう)、しょうがいと(生姜(しょうが)で作ったお菓子)など、いろんなお菓子を売っていました。その当時、飴玉1個が2円くらいで、10円あればお菓子が結構買えました。私も10円くらいのお小遣いを持って、よくあわやへ行ったことを憶えています。あわやは跡を継ぐ人がいなかったので、昭和30年(1955年)ころにはやめてしまいました。
 上野商店は道路を挟んで南北に続いていて、北側が精米を行う場所と倉庫になっていました(図表2-2-5の㋙参照)。食べ物などは売っていませんでしたが、金物を売ったり、水道工事やプロパンガスの取り付けと販売を行ったりしていました。農業協同組合(現JA)もそうした工事を行っていましたが、個人では上野商店が島全体をカバーしていて、『何でも屋さん』とでもいうべきお店でした。
 鍛冶屋が農協の西側にあり、平鍬(ひらぐわ)などの農機具や刃物の修理をして、結構繁盛しており、底引き漁で使うマンガラ(戦車こぎの爪)や農協の前の半鐘台も作っていました(図表2-2-5の㋚参照)。」

 エ 島の診療所と駐在所

 「元々島に病院はなく、病気になるとお医者さんを多喜浜(たきはま)から船で連れて来ていました。終戦後、おそらく村(大島村)が呼んだと思うのですが、島民と何らかの関係があったお医者さんが、大島小学校の近くに住んで開業しました。そのお医者さんが昭和29年(1954年)ころに島を去った後には診療所ができて、医師会から派遣された先生が、島外からほぼ毎日診療所へ来ていました(図表2-2-5の㋛、写真2-2-13参照)。医師は診療が終わると帰り、看護師さんだけが島に常駐していました。その後、島の人口減少に伴って診療日は徐々に少なくなり、今は火曜日と金曜日の午後の週2回です。看護師さんも常駐ではなく、先生が診療に来るときに一緒に来るだけです。
 昭和40年代前半ころまでは築之町(つきのちょう)に駐在所がありましたが、その後、西之町(にしのちょう)の保育園の近くに移転し、40年代後半から50年代初めころに廃止されました(図表2-2-5の㋜、㋝参照)。警察が、人口や犯罪率などから、大島に駐在所は必要ないと判断したのでしょう。大島では犯罪や交通事故もなく、今でも私(Dさん)は家を留守にするときでも安心して家を出ることができます。今どき、これほど安心してくらせる所はなかなかないと思います。」

(4)大島のくらし

 ア 重労働だった井戸の水汲み

 「昭和20年(1945年)、私(Cさん)は、新居浜中学に通学していましたが、学徒動員で住友化学に行っていました。そのころ、大島で赤痢が流行し大勢の人が亡くなりました。隔離病舎も足りなくなってしまい、親から、『親戚の家へ泊まって、大島へ戻るな。』と言われたほどです。当時、大島ではまだ水道はなく、井戸水を使っていましたが、このことと赤痢の流行は関係があるのかもしれません。井戸はその周辺の家が共同で利用しており、自家用の井戸を持っている家はまずありませんでした(写真2-2-14参照)。終戦のころ、大島村では水源を確保するため、上之町(かみのちょう)、中之町(なかのちょう)、築之町、西之町のそれぞれで井戸を掘りました。私はそのころ消防団に入っていましたが、当時は消火栓がなかったので、井戸でどれくらいの水が出るか、島にあった井戸を全部試したところ、小型ポンプで水を汲(く)み上げても水がなくならないのは吉祥寺の裏にあった井戸だけで、他の井戸はポンプで水を汲み上げるとすぐになくなってしまいました(図表2-2-5の㋞参照)。」
 「私(Dさん)が子どものころ、井戸から水を汲んで風呂を焚(た)くのが仕事でした。煮炊きする竃(かまど)の隅の方に大きな水受け鉢があって、そこへ水を貯めており、何度も井戸へ水を汲みに行かなければならなかったので大変でした。当時は島の人口も多かったため、夕方になると井戸水がなくなっていました。また、井戸水に含まれる塩分のせいで白いタオルをずっと使っていると茶色くなっていましたし、お風呂に入っても石けんが泡立ちませんでした。今でも井戸はありますが、そのほとんどは蓋をしていて、普段はそれほど使うことがないので、潮水が混ざるようなことはありません。
 昭和38年(1963年)に大島に水道が開通してからは、生活が大きく変わりました。蛇口をひねると水が出るようになり、井戸で水汲みをするという重労働から解放されたこともあって、大島にとっては本当に大きな出来事でした。ノリの養殖が始まった昭和40年代には、ノリの洗浄に大量の水が必要となり、ノリ養殖をしていた各戸では、夜通し水道の蛇口から水を出しっ放しにして、水槽に水を貯めていました。そのために、水道の蛇口をひねっても水が出なくなったことがあり、その対策の一つとして、貯水タンクが2、3基増設されました。」

 イ 子どもの仕事と遊び

 「大島の林はほとんどがクヌギで、クヌギは火力が強く、燃料用にはとにかくすばらしい材質でした。私(Dさん)が中学生時分まで、家庭の燃料は薪(まき)でしたが、一年分の薪は冬場に確保していて、冬場になると、所有している山林から薪を運ぶのが日課のようなものでした。小学校5、6年生から中学生のころになると、親が兄弟の年齢に見合うような仕事を割り振りました。私の家は、男5人と女4人から成る9人兄弟でした。上の二人が女で、私は上から5番目でした。同じ兄弟でも上の子と下の子では年がかなり離れており、長女や二女は、母代わりのように、弟や妹の面倒を見ていました。」
 「私(Cさん)が小学生のころは、学校から帰ると山へ入ってタシッポを採ったりして、食べることばかり考えていました。遊ぶ道具もなかったので、カシの木を切って作ったコマで、叩(たた)きゴマをして遊んだり、ドングリを拾って砂に埋めて、自分のドングリで叩きつけたら、砂が除(の)いてドングリが見えたら自分のものになるという遊びをしたりしていました。大島の山林のほとんどはクヌギ林で、びっくりするくらい大きなドングリがありました。昔は子ども組があって、中学3年生はクイニゲ(相談役)、中学2年生は大将、小学6年生は新人、小学5年生は水汲みと呼ばれていました。大島の伝統行事であるとうど祭り(とうどおくり)では、大将の指揮の下、とうどを作るための準備をしたことも楽しい思い出です。私がとうど祭りで大将になったころは、戦局も敗色が濃厚となっており、食べる物は足りないし、学校でも修学旅行は行われないなど、一番悪い時期でした。」
 「私(Dさん)が小学生のころは、男の子は、木で刀を作ってチャンバラごっこをよくしていました。それと今でいうボランティア活動のようなことをしていました。私の同級生に、戦争で父親が亡くなって、修学旅行に行くことが経済的に難しくなった友達がいました。担任の先生の勧めもあって、冬休みになると、毎日、男子と女子が一緒に林へ行って、小枝や落ち葉、松ぼっくりを拾い集めて、蔓(かずら)などで縛って各家庭に売って回り、代金を友達の修学旅行の費用として貯めていました。これも子どもにとっては一つの遊びであるし、今でも思い出として残っています。」

 ウ 楽しみにしていた演芸会

 「学校では秋に演芸会があって、学年ごとに劇をすることになっていましたが、島中の大人が観(み)に来るので、子どもたちは稽古に力が入りました。私(Dさん)が小学校5、6年生のころ、源義経の劇をやりました。担任の先生が熱心な方で、弁慶、義経、関所の富樫などの登場人物の配役を決めて、帽子か新聞紙で上手にちょんまげを作ってくれたり、かつての庄屋さんの家から袴(はかま)を借りてきて衣裳にしたり、夜も小学校に児童を集めて稽古をしたりました。私たちの学年が演じた源義経の劇は学校の代表として、神郷(こうざと)小学校で行われた新居浜市内の学校対抗発表会に出ることになりました。大島小学校は規模の小さな学校で体育館や講堂はありませんでしたが、神郷小学校には立派な講堂があり、そこの大きな舞台の上で劇を演じたことを憶えています。演芸会は学校行事の一つではありましたが、私たち子どもにとってはとても楽しい思い出です。
 演芸会では、青年団は中之町の青年倶楽部の近くの狭い空き地に櫓(やぐら)を組んで小屋掛けをして、何日間か出し物をしていました。浪曲などいろんな出し物を上手にしていて、小学生のころから秋の演芸会を楽しみにしていました。学校の演芸会はかなり長く続いていて、それがやがて文化祭、音楽発表会などに変わっていったように思います。」


<参考文献>
・新居浜市『新居浜市史』 1980
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』 1990
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県水産試験場『愛媛県水産試験場百年史』 2000
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『新居浜市の風土と人々のくらし』 2005
・新居浜市『新居浜市政だより』

図表2-2-2 大島の人口推移

図表2-2-2 大島の人口推移

『新居浜市統計書』及び『新居浜市史』から作成。

写真2-2-9 かつてのノリ共同加工場

写真2-2-9 かつてのノリ共同加工場

新居浜市。平成27年10月撮影

写真2-2-10 大島産の白イモ

写真2-2-10 大島産の白イモ

新居浜市。平成27年12月撮影

写真2-2-11 大島屋の旧邸宅

写真2-2-11 大島屋の旧邸宅

新居浜市。平成27年10月撮影

図表2-2-5 昭和40年代の大島の町並み

図表2-2-5 昭和40年代の大島の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真2-2-13 現在の大島診療所

写真2-2-13 現在の大島診療所

新居浜市。平成27年10月撮影

写真2-2-14 かつての共同井戸

写真2-2-14 かつての共同井戸

新居浜市。平成27年10月撮影