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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)集会所活動の思い出

 「射場(いば)集会所はかなり利用しました(写真1-1-2、図表1-1-2①の㋐参照)。非常に多くの講座が、ほぼ毎週開催されていたことを憶えています。集会所には、大きな部屋があるわけではなく、小さい所でしたから、会をする程度でした。射場自体も住民の数が少なかったですから、大きなイベントをするということはありませんでした。建物の大きさは、今の自治会館に近い感じでした。」

(2)たるや

 ア たるや=桶の生産・販売店

 「たるやは、桶(おけ)を販売する店でした(図表1-1-2①の㋑参照)。昔の仕事ですから、そう大きなことはしませんが、ヒノキを材質とした桶を注文請けして作って、販売していました。プラスチックの大きな容器ができるまでは、作っていました。一時なくなりましたが、その後10年くらいは伊予(いよ)市の家が仕事を引き継ぎました。」
 「最後の方はほとんど注文生産で、注文がないと作業をやっていませんでした。それ以前は、桶を店頭に並べて販売することもしていました。風呂桶や、味噌樽(みそだる)、肥樽(糞(ふん)尿を入れる樽)など、あらゆるものを作っていました。竹の入れ替えもしていました。桶を竹で編んでいたので、竹が朽ちてくると、貼り合わせが崩れて桶がくしゃっと潰れてしまっていました。そのときには、もう一回締め直していました。」

 イ ヒノキ製の桶の効用

 ヒノキは木材の中でも強度が強く、耐久性があるので、古くから神社や仏閣などの建築材料として使用されてきた。また、薬効成分が多く含まれており、防虫・殺菌作用などがあることが知られている。このことについて、Cさんは次のように話してくれた。
 「たるやは、昔は繁盛していました。風呂桶や、ものを入れたりしもうたり(片付けたり)するものは大体作っていました。ヒノキで作っていたので、殺菌性がありました。醤油の醸造所がありますが、そこでは近くのたるやで作られたヒノキ製の大きな木の樽を使って醤油を醸造しています(図表1-1-2③の㋐、㋑参照)。今でもヒノキの樽が使われていると思います。ヒノキの殺菌作用が酵母を守ってくれますから、木の樽じゃないとダメなんです。私の家でも、お寿司で使うお櫃(ひつ)などは、全て醸造所近くにあったたるやに注文していました。」
 これに関連して、製陶業を営むAさんは、砥部焼の原料に含まれる成分について、次のように話してくれた。
 「私たちが陶器の原料として用いる『珪藻土(けいそうど)(植物性プランクトンの死骸(しがい)が堆積してできた土。)』には吸湿、脱臭効果があって、製品が腐食するのを防止しています。それがあることで、焼き物の場合は50年くらいもちます。」
  
(3)町営住宅

 「昭和30年代には、砥部町にマンションがありませんでした。私(Aさん)は、両親から独立して生活をするために、2年ほど町営住宅に入っていました(図表1-1-2①の㋒参照)。昔の町営住宅はトイレがくみ取り式でしたし、住宅の設備が現在のものとは全く違っていて、便利なものではありませんでした。私が入っていた時は、棟を二つに割っていたような状態で、家を隔てる土壁が薄かったので、隣の生活音が全て聞こえてきました。土壁周辺に布団などを置くことができれば、隣の家の音が聞こえてこなかったかもしれません。夜遅く帰宅したときなどは、隣に迷惑をかけないように小さな声で話すなどして、非常に気を遣っていました。」

(4)中予運送

 「中予運送は、トラック運送の会社で、炭や木材、雑穀類を運んでいました(図表1-1-2②の㋐参照)。会社にはトラックが5、6台あり、砥部の中予運送といえば、当時では大きな運送会社でした。木材や炭、資材など何でも請け負って運搬していました。社員の中に、トラックのエンジン音を聞くだけで、1号、2号、3号と、どのトラックが動いているのかを当てることができる人がいました。私(Cさん)が小学生のころのことですが、音を聞いただけで分かるので、びっくりしたことを憶えています。砥部焼などは、県外へも運んでいました。後にこの会社が事業をやめ、跡地は製材所になりました。」

(5)砥部タクシー

 ア 利用用途

 「会社には、薄緑色のシボレーが1台あり、使用していたのはこの1台だけで、結婚式など、冠婚葬祭用に使っていました(図表1-1-2②の㋑参照)。結婚式のときには、お嫁さんを乗せていたことを憶えています。松山市などへ遊びに行ったり、買い物に行ったりするときにはあまり使いませんでした。料金が高かったので、利用したのは病院から退院したり、結婚式に行ったりするときくらいでした。車(自家用車)がそのころはなかったので、それ以外の場合はバスを利用していました。」

 イ シボレー

 「昭和30年代は、自家用車が珍しかった時代ですから、外国製のシボレーという車は特に珍しかったと思います。シボレーは、確か5人乗りでした。しかし、あのころは5人乗りと言いながら6人乗ったり7人乗ったり、詰めて乗っていたことを憶えています。」

(6)2店舗隣り合わせのブリキ店

 「大南にはブリキ店がありましたが、いわゆる板金の仕事をするお店でした(図表1-1-2②の㋒参照)。じょうろなど生活用品を中心に作って売っていたほか、屋根を流れる雨水を受けて、地上や下水道に流すための樋(とい)も扱っていました。」

(7)米穀店

 ア 大南における最初のスーパーマーケット方式の店

 「大宮八幡宮の近くに、大南におけるスーパーらしきものの最初の店ができました(図表1-1-2②の㋓参照)。昭和35年(1960年)ころのことで、後に米穀店に変わりました。このころはまだAコープのようなスーパーマーケットがなかったので、非常に珍しかったことを憶えています。」
 このような方式の店の登場は、当時の高度経済成長による国民所得及び生活の向上を背景としている。これまで、砥部地方の商店の経営は小規模・小資本で、個人商店が主であった。しかし、新しい時代に即応した大資本による百貨店やスーパーマーケット、専門店が隣接する松山市に続々と登場し、砥部地域の購買力が次第に松山市へと流失し大きな打撃となったため、対応する必要があったのである。

 イ スーパー方式から米穀店へ

 「スーパー方式の店から米穀店に転換したきっかけは、高知から出店してきた『主婦の店』の存在でした(図表1-1-2②の㋔参照)。地元のスーパーでは食料品を中心に販売していましたが、品物が豊富で規模も大きかった『主婦の店』ができたときに、米穀店に切り替えられました。『主婦の店』は、当時大南の商店街に大きな影響を与えましたが、大南の商店が店を閉めるほどではありませんでした。田舎ですから、地域に密着した経営ができていたのでしょう。『主婦の店』は、昭和40年(1965年)ころにできて、3、4年でやめたと思います。」

(8)砥部町役場付近と交通

 「この辺りは砥部町の中心街で、農協や銀行、役場、学校などがあり、本当に賑(にぎ)やかだったので、『砥部銀座』と言われていて、生活に必要なものは全て揃(そろ)っていました(図表1-1-2②の㋕参照)。」
 大南の中心を南北に走る県道219号は、北は宮内から七折を経て伊予市まで続き、南は県道53号に接続して外山(とやま)から伊予市へ、さらに国道379号に接続して旧広田村へ続いている。また、松山市など周辺地域へ続く道路も延びており、多くの人々が大南などへ行く際に利用した。そのため、定期バスが運行されて各所に停留所が設けられ、それらを利用する人々で賑わいを見せていた。

 ア バス交通

 「大南にはバスの停留所が各所にあり、外山など周辺地域からバスに乗ってやって来た人々が集中して降りていました。役場や農協、銀行、お医者さんをはじめ、劇場まであり、いろんなものが揃っていたので、何かあったら、この中心街に買い物に来ていました。バス停は、冨二三亭(ふじみてい)の所、薬店の所、呉服店の所、砥部タクシーの所にありました(図表1-1-2②の●参照)。50、60mごとに停留所があったので、とても便利でした。当時は自家用車がなかったので、バス利用が本当に多かったことを憶えています。
 それでも、バスの出発時間と合わない場合、お年寄りの方でも、歩いて家まで帰っていた人が大分いました。外山から来ていた人は、『バスがしばらく来んのやったら歩いて帰ろ。』と言っていたことを憶えています。」
 愛媛県のバスの歴史は、明治41年(1908年)にさかのぼる。同年9月、温泉郡素鵞(そが)村大字立花(たちばな)(現松山市立花)から伊予郡原町村大字宮内(現伊予郡砥部町宮内)間の路線が認可されたことがその始まりである。当時は乗合自動車と呼ばれていた。大南へバス路線が延伸したのは、昭和9年(1934年)のことである。同年7月20日、松山市から高知県へと通じる省営自動車(省は鉄道省、自動車はバスのこと)の開通式が久万(くま)町(現久万高原(くまこうげん)町)で行われた。これは、高知県への直通運転が行われた最初でもあった。これ以降、原町・大南・上浮穴(かみうけな)を経て高知県へと通じる交通、運輸が非常に便利になり、物資の行き来が盛んになるとともに、付近の人たちの生活も便利になった。昭和30年代には、国鉄バスが役場前を出発して松山及び久万方面への定期バスを運行させるとともに、伊予鉄バスが砥部への路線バスを運行して松山から森松(もりまつ)(松山市)を経て、砥部町内の各所へバスを走らせていた。

 イ 荷馬車による運搬

 「昭和20、21年(1945、46年)ころだったと思いますが、木材を積んで、あちこちからうち(Cさん)の製材所に荷馬車が来ていたことを憶えています(図表1-1-2②の㋖参照)。昭和25、26年(1950、51年)ころまでは来ていたと思います。その後、木材などの運搬は、木炭車やガソリン車に替わりました。それからは荷馬車が主流になることはなく、必要な人だけが使用していました。昭和20年代前半は、バスの台数が少なかったので物資を運搬する荷馬車の数が多く、本当に多くの人が活用していたことが思い出されます。窯土(かまつち)(窯を築く材料に使う耐火粘土)を作る際にわらが必要だった(わらで土と土をつなぐ)ので、荷馬車にわらをたくさん積んで、製陶所まで運んでいました(図表1-1-2②の㋗参照)。昭和30年代になって、荷馬車は少しずつ姿を消していったと思います。」

 ウ 木炭車の記憶

 「木炭車は戦後しばらく使われていましたが、陶石を積むために山へ行くのに、鉄の棒を曲げただけの重たそうなハンドルを車の前に取り付け、何度も回してエンジンをかけ直さなければなりませんでした。私(Bさん)が中学1年生のころ、郡中(ぐんちゅう)町(現伊予市)へ競技大会に行くのに、木炭車に乗って行ったことがあります。木炭を燃やしながら走るため車の中が非常に暑く、『体焼くなよ。』と誰かが言っていたことを憶えています。昭和28年(1953年)ころまで木炭車が走っていたと思います。」

(9)学校周辺の記憶

 平成27年(2015年)現在、大南町民広場から南西方向にある高台に砥部小学校があるが、昭和30年代には、現在の坂村真民記念館辺りに砥部町保育園、砥部保育所、砥部小学校、松山南高等学校砥部分校(昭和37年〔1962年〕までは愛媛県立砥部高等学校)が隣接しており、多くの児童生徒がこの地で教育を受けてきた(図表1-1-2②の㋘、写真1-1-6参照)。昭和45年(1970年)には砥部小学校が、昭和61年(1986年)には松山南高等学校砥部分校がそれぞれ現在地に移転した後、小学校の跡地は砥部保育所及び砥部幼稚園として、砥部分校の跡地は大南町民広場として利用されるようになった。

 ア 砥部小学校内に設置された砥部中学校

 「私(Aさん)は砥部中学校の第1期生です。昭和22年(1947年)の創立当時、砥部中学校は、砥部小学校の講堂や空き部屋を利用することから始まりました。その後、昭和23年(1948年)に、砥部中学校は、現在砥部小学校がある場所に移転しましたが、その整備の際には、地域の人たちと協力して、一緒に敷地をならしたことを憶えています。敷地の東寄りに校舎がありました。  
 当時は終戦直後だったので、学校教育制度も試行錯誤の状態でした。私が中学2年生のころ、成績順にA、B、Cとクラスを決定していましたが、成績の良い生徒が集まるAクラスに入れず、Bクラスに行く人もいて、『この制度はおかしい。』とよく言っていました。また、クラス内の座席も成績順で決められていて、勉強ができる人が窓際で、できない人が真ん中辺りになり、これについても多くの生徒が不満を持っていました。勉強がよくできる窓際の生徒たちが、この制度に対抗する意味を込めて『答案を白紙で出そうや。』と言って、全部白紙で出したことがあります。その時、担任の先生が悲しんで落ち込んでしまったので、『こりゃちょっとやり方がまずかったのお。』と言って反省したことを憶えています。」
 砥部中学校は、昭和37年(1962年)10月、千足を校舎予定地に選び、昭和39年(1964年)7月1日に開校式並びに落成式を挙行して現在に至っている。

 イ 子どもたちとの交流

 「私(Aさん)は雲石窯(うんせきがま)を営んでいますが、私の窯にも子どもたちがよく遊びに来ていました。窯の周辺は暖かくて、イモを焼くのにちょうど良いので、子どもたちがイモを持って来て焼くということがよくありました。」

(10)たばこ店

 「冨二三亭(ふじみてい)という料亭の入り口に、たばこ店がありました(図表1-1-2②の㋙参照)。たばこの陳列ケースがあって、いつもおばあさんが座って販売していました。店先にバスの停留所があったので、バスの切符も販売していたと思います。つい最近までたばこの販売を続けていました。」

(11)砥部座

 砥部座は、昭和2年(1927年)に建築された劇場である(図表1-1-2③の㋒参照)。砥部町大南出身の名優井上正夫の父が支配人を務めていたこともある。また、井上正夫自身も、戦災者慰問のため昭和20年(1945年)11月に帰郷して、砥部座にて二日間の公演を行っている。活動写真(映画)や芝居、浪曲など、住民の娯楽場所として多くの人が集まり繁盛していたが、昭和30年代に廃業した。この砥部座の様子について話を聞いた。

 ア 建築

 「建物の造りは内子(うちこ)座と同じです。一坪(3.3m²)くらいの大きさの木枠(升席)があって、中に座布団が敷いてある所が客席でした。1階には300人、2階の両袖にも座席があって、そちらには100人は座れたので、全部で400人くらいのお客さんを収容できました。升席に座れずに、立ち見をしていた人もいました。観客席に入って左側に、芝居で役者が歩く花道がありました。この花道は、琴平(ことひら)(香川県)の芝居小屋(通称金丸座)のちょうど小型版のようなものでした。有名な女役者が来たときには、花道に公演祝いの花が立っていました。2階に川崎さんという絵描きがいて、役者の似顔絵を手際よく描いたり、役者の紹介などをしたりして、本当に賑やかでした。また、2階屋根の上の部分には太鼓の櫓(やぐら)がありました。朝晩、拍子が『カタカタ、カタカタ』と鳴っているのが聞こえてきましたが、この拍子は、『赤銭(あかぜに)もってこい、土木偶(つちでこ)見せる。』と言っているようで、みんなよくそのように口ずさんでいました。その拍子が聞こえてきたとき、私(Cさん)の祖父が『一緒に行こう。』とよく言ってくれたことが思い出されます。」

 イ 上演時の様子

 「昔、映画を観(み)に行ったとき、後ろを振り向くと人が一杯で、人々の頭が揺れているように見えました。大南の人々だけでなく、砥部の人々もみんな来て楽しんでいました。砥部座では、映画や芝居、人形浄瑠璃などが上演されていました。砥部町の文化の中心で、本当に派手でした。幟(のぼり)が立っていて、チンドン屋さんも来ていました。チンドン屋さんがその日の興行の演目を語りながら、横笛を吹き、太鼓を叩(たた)きながら、砥部の街道を歩いていたことを憶えています。」

 ウ 砥部座での商品販売

 「入り口を入ってすぐ右側の角に店があって、パンやラムネ、たばこなどが売られていました。売り子がいて、駅弁を売るときのように籠(かご)を首からかけて、『パンいかがですか。』と言いながら、席の方にも売りに来ていました。確か、近くの食料品店の方が販売をしていたと思います(図表1-1-2③の㋓参照)。」

 エ 名優井上正夫の公演

 「井上正夫は、戦後の慰問団として昭和20年(1945年)に来ました(昭和20年11月27日戦災慰問演芸会、写真1-1-8参照)。砥部で公演した後、久万へ行きました。確か、松山、砥部、久万の順番で公演を行ったと思います。井上正夫が来たときには、本当に多くの人が公演を観に来ていて大盛況でした。私(Cさん)は当時小学校4年生で、砥部小学校のグラウンドで公演を観たことを憶えています。グラウンドに足場を組んで舞台を作って、ゴザを敷いて客席にしていました。観客の数が多すぎて、砥部座だけでは入れなかったので、子どもたちには小学校のグラウンドで観せてくれたのです。そして、その夜は砥部座で同じ演目を上演したようです。」

 オ 素人芝居の劇場として

 「当時は映画も上映されましたが、田舎だったので、芝居といっても素人芝居が多かったと思います。この辺りの芝居の好きな『にわか役者』たちが集まって、大衆演芸のような形で芝居をしていました。『赤城(あかぎ)の子守唄』などを演目にしていましたが、素人芝居ながら本当に上手だったことを憶えています。各地区で芝居の好きな人が劇団を作って、砥部座で上演していました。私(Cさん)が小学校6年の終わりころには、小学校で人形芝居を披露したこともあったと思います。松山から来た歌劇一団や、芝居の上手な人たちが料金を取って芝居を観せることもありましたが、素人芝居は料金を取りませんでした。それが私たちにとっての本当の娯楽だったのです。」

 カ 人形浄瑠璃

 「田植えや稲刈りなどの農繁期の後には、人形浄瑠璃が上演されていました。観客は手作りの弁当を持って来て、食べながら観ていましたし、中にはお酒を飲みながら観る人もいました。衣料品店の方やこんにゃく店の方は三味線と謡(うた)いが本当に上手でしたし、特に精米所の方はさらにすごくて、横綱級のうまさでした(図表1-1-2②の㋚、㋛、図表1-1-2③の㋔参照)。また、砥部座前の通りを真っ直(す)ぐ北に進んだ所に仕立の店があり、店の前に舞台を作って、浄瑠璃を上演していました(図表1-1-2②の㋜参照)。その店の方の『かかさんの・・・』という節回しが流暢(りゅうちょう)で上手だったことを憶えています。両親と一緒によく観に行きましたが、私(Bさん)は人形浄瑠璃にあまり興味がなく、うれしくはありませんでした。しかし、餅やおはぎなど、いろんなものが入っている弁当が楽しみでした。舞台や衣装は、何度も繰り返して使用していたので、特に衣装は継ぎはぎだらけだったことを憶えています。」

 キ 映画の思い出

 「当時、映画は観てよい映画と観てはいけない映画とを学校が指定していました。しかし、観てはいけないと指定された映画でも、友人と一緒に観に行ったことがあります。夕方6時からの上映の場合には、切符切りがまだいない昼の3時ころに砥部座へ行きました。建物の中のトイレに忍び込んで、上映開始までそこに居続けました。3人くらいが一緒に臭(くさ)いトイレで我慢して待ち続け、上映が始まるときに会場にさっと走り込んで、映画を観ていました。そういうことが3回くらいあったと思います。あの当時、トイレはくみ取り式だったので、本当に臭(にお)いがきつかったことを憶えています。今思い出すと、本当に笑い話です。」
 「学生時代に、学校での自習を抜け出して映画を観に行ったという話があります。休み時間中にトイレから戻ったら、教室には誰もいませんでした。授業の開始時に先生が来て、『他(ほか)の人はどこへ行った。』と聞くので、実は映画を観に行ったことは知っていましたが、『さあ。』ととぼけるように答えました。結局後で分かって、映画を観に行った人たちは先生に随分と怒られていました。」

 ク 成人式の思い出

 「昭和31年(1956年)のことですが、私(Cさん)たちの成人式は砥部座で行われました。当時の町長さんが、『子どもは1人や2人じゃいかん、5人も6人も作りなさい。』という内容の挨拶をしたことを憶えています。成人式の集合写真は、昔の砥部分校(当時は愛媛県立砥部高等学校)の校舎の前で、椅子を並べて撮りました。」

 ケ 砥部座の廃業について

 「砥部座が廃業することになった最大の原因は、テレビの普及でお客さんが少なくなったことだと思います。私(Cさん)の記憶では、成人式が砥部座で行われたということが最後だと思います。」
 「そのころは、成人式を実施するような大きな公共施設があまりなかったので、砥部座で成人式が行われました。私(Bさん)は昭和33年(1958年)に同窓会の幹事をしましたが、そのときも場所がなくて、農協で行いました。砥部座は、昭和30年代にはかなり老朽化していたので、おそらく昭和32年(1957年)までには取り壊していたと思います。」
 現在、砥部座の跡地には、当時を偲(しの)ぶものは何も残されていない。中通りから多くの人々が通ったであろう細い道を東に少し進むと空き地がある(写真1-1-10参照)。そこに砥部座はあった。現在、その空き地のさらに東には、ビニールハウスが広がっている。

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み①

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み②

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み③

図表1-1-2 昭和30年代の大南の町並み③

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真1-1-2 現在の射場集会所

写真1-1-2 現在の射場集会所

砥部町。平成27年12月撮影

写真1-1-6 旧砥部分校通用門へ続く道

写真1-1-6 旧砥部分校通用門へ続く道

「松山南高校デザイン科通用門」と書かれた陶板が今も残る。砥部町。平成27年12月撮影

写真1-1-8 井上正夫像

写真1-1-8 井上正夫像

砥部町文化会館前にある。砥部町。平成27年12月撮影

写真1-1-10 砥部座跡

写真1-1-10 砥部座跡

左側建物の後ろに、ビニールハウスが広がる。砥部町。平成27年10月撮影