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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 原町の町並み

 砥部(とべ)町原町(はらまち)地区(旧原町村)は砥部町の北部に位置し、北側の麻生(あそう)地区と南側の宮内(みやうち)地区の境に形成された江戸時代以来の街村である。砥部川の河岸段丘上に立地し、その東側には一段高い段丘面に南ヶ丘(みなみがおか)団地が造成されている。 
 江戸時代の原町地区は、寛永11年(1634年)までは松山(まつやま)藩に属する未開拓の原野であったが、大洲(おおず)藩領と交換された後に大洲藩の在町として発達し、段丘上の原野に宮内村と麻生村にまたがって町割を作った。明治維新後の明治21年(1888年)に、麻生村を中心に川井(かわい)、七折(ななおれ)、大角蔵(おおかくら)、千足(せんぞく)、宮内の6か村が合併して原町村が成立し、昭和30年(1955年)に砥部町と合併するまで存続した。
 藩政期には原町在町の商家20余軒が立ち並び、松山城下への通路として、また、砥部地方の商業の中心地として繁栄した。明治時代中期から土佐街道が「四国新道」として整備され、郡中(ぐんちゅう)線の県道開通によって、その沿線を中心に商店が激増した。その後、交通機関の発達に伴い、一時は伊予鉄道森松線の終点に形成された新しい街村の森松(もりまつ)(松山市)に繁栄を奪われたが、昭和40年代に入り高尾田(たこおだ)や南ヶ丘などに大きい住宅団地が次々とできて、商業形態が大きく変わった。また、砥部バイパスが開通し、愛媛県総合運動公園などができたので、集落の機能も変化した。
 戦後から昭和30年代、40年代までの原町の町並みとくらしについて、Aさん(昭和5年生まれ)、Bさん(昭和16年生まれ)、Cさん(昭和17年生まれ)、Dさん(昭和20年生まれ)から話を聞いた。