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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 重化学工業化―造船

 今治の造船業

 愛媛県は、海岸線が長く、沿岸漁業が盛んだったから、木造漁船の製造は早くから発達して、その技術も優秀であった。しかし、終戦を迎えるまで、鋼船の造船所は県下にただ一か所、波止浜船渠があるのみで、戦時中住友の傘下にはいり、2D型戦標船の建造に当たったことは既に述べたとおりである。また、戦争末期に設立され木鉄船や上陸用舟艇を建造した伊予木鉄造船株式会社は、昭和二三年一二月に閉鎖機関産業設備営団から造船所の機械・設備一式の払い下げを受け、木鉄船建造の技術を生かして、鋼船の造船所(波止浜造船の前身)となった。だから、昭和二〇年代では、県下の鋼船造船所はわずかに二、どちらも波止浜町(現今治市)にあった。今治は、瀬戸内海の中央に位置し、四国の西北の突端にあるため、近畿・中国・九州・四国沿岸島嶼と四方への海上交通の要衝であり、愛媛県の造船業は今治周辺に集中して立地している。
 図工4-7によって愛媛県の造船業発展の大勢をみると、昭和三五年ぐらいからの発展のテンポは目をみはるものがある。特に、昭和四〇年代にはいって、地場の三大造船所の大型化が急展開して後の成長が著しい。三大造船所とは、来島船渠・波止浜造船・今治造船を指し、いずれも波止浜湾内に立地している。
 だが、世界の造船業を制覇し、巨大造船所が立ち並ぶ造船王国日本で、地場資本の造船所がベストテンに互すまでに発展するについては、長い雌伏の期間を必要としたのであり、昭和三〇年代の競争を乗り越えた企業体力が飛躍の足場となったのである。

 来島船渠の海上トラック

 波止浜船渠株式会社は、昭和二〇年八月、終戦とともに住友の傘下から離脱した。昭和二一年八月、企業再建整備法により特別経理会社となり、第二会社設立の準備にはいった。昭和二四年五月、同社は解散、第二会社の来島船渠株式会社(資本金一、八〇〇万円)を設立して工場を引き継ぐことになった。しかし、ドッジ恐慌のまっただ中で、設立早々経営が悪化し、同じ年の一一月一五日には工場閉鎖に追い込まれた。
 昭和二七年秋、波止浜町長今井五郎は、町の活況を取り戻すため、松山市の興業主坪内寿夫を招いて来島船渠の再建を懇請した。彼は、弓削商船学校の出身で造船業に深い関心をもっていたので、昭和二八年四月、来島船渠の社長に就任し、造船所の再建に乗り出した。同社の負債総額は五、〇〇○万円をかかえ、廃物寸前の倒産会社であった。
 来島船渠波止浜工場の建造量は、昭和三二年、四、二三七㌧、昭和三五年、一〇、七九九㌧、昭和四一年、二六、三二八㌧とピークを更新し続けた。この間に昭和三六年八月には、大西町の新工場建設に着手し、昭和三八年一〇月には、一、二〇〇㌧船台が戦力として加わっている。
 日本経済の高度成長によって輸送需要が著しく伸びたことが同社のめざましい発展に利したことは否めない。だが、来島船渠の建造船は小型鋼船であり、その顧客の多くは資力に乏しい「一杯船主」であった。あるいは、「一杯船主」にまで市場を積極的に広げていったというべきかもしれない。同社の採った市場開拓策は、一は月賦販売であり、二は工程の合理化による低価格の供給であった。
 船価の引き下げに寄与した最大のものは、標準船による量産方式であった。同社は、来島型標準船(四九九㌧)の規格を統一し、流れ作業で一度に多数の同一型船を建造してコストダウンを図った。総トン数四九九㌧の標準船は、八〇〇T型標準船と呼ばれて、八〇〇㌧の貨物を積載することができ、六五〇馬力のエンジンを備え、最高速度一二ノットで航行した。さらに、船主の需要に応じて四五〇T型(二九九㌧)や六〇〇T型(四三〇㌧)など、もっと小型の種類も揃え、それぞれ標準船として建造した。小型鋼船とはいえ、四九九㌧の標準船で全長四八㍍、幅八・五㍍の見上げるような貨物船であり、それが四、〇〇〇万円(月賦だとこれよりかなり割高になるが)とは破格の値段であった。この標準船の原型は戦時標準船であるが、同社では、小型船用の可変ピッチプロペラを開発し、ブリッジから主機が操縦できる「海上トラック」をめざした。これで固定ピッチプロペラの従来船のように、前後進の都度主機を停止逆転する必要がなくなり、ブリッジのハンドルを回すだけで簡単に船の発進・停止・前進・後進を切り替えることができ、また、運航条件に応じて、自在にエンジン出力を制御することができ燃料の節約にもなった。
 来島船渠の鋼船の販売方法として画期的だったのは、零細な個人業主に船を売るために、業界で初めて月賦販売を導入したことである。これには、同社または坪内社長の資金力に加えて、金融機関としての伊豫銀行のバックアップがなければ到底不可能であり、思い切った販売方法であった。鋼船の代金について頭金五%、金融機関五〇%、来島船渠四五%、返済期間六年という好条件で、零細業主の機帆船の買替需要を発掘していった。昭和三八年には、伊豫銀行の来島船渠向け延べ払い融資枠は五〇億円に達した。また、海運需要の増大によって中古船の価格が高騰したから、新調の船を数年使用して後に、買値より高く転売することができ、減価償却分と合わせて、ランクの上の船(一、〇〇〇~二、○○○㌧級が内航適格船といわれた)への買い替えをスムーズに進めさせることになった。

 今治造船の再建

 今治造船は、戦時の企業合同で作られた会社であったが、戦後しばらくは仕事がなく、従業員の多くが離散してしまった。現場総監督だった桧垣正一もその一人で、今治造船を辞めて、大浜に独立して桧垣造船所をつくり、機帆船の建造を手がけた。桧垣正一の次男文昌は、昭和二一年から昭和二五年の間、伊予木鉄造船に入社、鋼船の設計・建造の技術を吸収し、これが後に、今治造船の鋼船への移行に大いに役立った。桧垣文昌が戻って後の桧垣造船所では、電気溶接やガス溶接の設備を導入して、鋼船へ転換する準備が進められた。
 一方、桧垣一族が去った後の今治造船では、鋼船への移行期に技術者が離散して見とおしが立たなくなり、昭和二九年には休業に追いこまれてしまった。
 今治造船の造船所の敷地は、波止浜港の絶好の地にあり、波風に痛めつけられる桧垣造船所の大浜の地とは雲泥の差があった。鋼船建造のプランを温めていた桧垣正一は、桧垣造船所を吸収合併する形で今治造船の再建をはかった。その際、資金協力を愛媛汽船に求め、経営陣を一新した。昭和三〇年四月、資本金一〇〇万円で再出発した今治造船の社長には愛媛汽船社長の赤尾柳吉が、専務取締役には桧垣正一が就任した。
 木造船の船台を改造して電気設備を入れ、鋼船の建造を開始したが、当初は、昭和三〇年一隻二九三㌧、昭和三一年三隻一、〇一八㌧、昭和三二年四隻一、三八二㌧というペースであった。レールを敷いた船台があるだけでクレーンもない状況だったから、重い鉄板を一〇人から一五人がかりでコロを使って人力で動かしたという。鉄板を曲げるのもハンマーで叩いて曲げ、パイプも砂を詰めて加熱して人力で曲げるという原始的方法であった。
 昭和三四年九月、今治造船としては、初の四九九㌧型標準船が竣工し、同社の力量が認められて内航鋼船の注文が来るようになった。昭和三四年以降、同社の建造量は年を追って上昇している(表工4-15)。昭和三四年は、赤尾柳吉が今治造船から退き、桧垣正一が社長に就任した年でもあった。そして、この年から同社は木造船の建造修理をやめて、鋼船への特化を確立した。とはいっても、当初の同社の設備が来島船渠・波止浜造船に比べて見劣りがしたのは事実で、そのハンデを背負いながら設計・工程の工夫によって建造の実績を伸ばしたのであった。
 昭和三七年四月、三、五〇〇㌧船渠を新設し、昭和四〇年には第一号船台を一、九〇〇㌧から三、五〇〇㌧ヘ拡張し、昭和四一年には第二号船台を一、二〇〇㌧から三、五〇〇㌧ヘと建造能力をアップした。
 今治造船も、建造の重点を小型内航船から大型近海船へ移す一方、地元の船主との交流・密着を深め、来島船渠に対抗して支払代金の延べ払い方式をとり入れた。今治造船が保証して中小企業金融公庫や銀行から借り入れる便宜もはかった。このようにして鋼船の延べ払い方式は今治周辺の造船所で相次いで普及した。月賦発祥の地、今治は鋼船の月賦販売でも先駆者であった。同社は、昭和四〇年以降、船舶整備公団の融資による建造にも船主を積極的に勧誘して、昭和四六年までの間に同社が手がけた公団船は、貨物船・油槽船など合わせて三一隻に及ぶ。

 鋼船の大型化と造船所の拡張

 海運業において、キャリヤが大型であればあるほど有利であることは自明である。内航海運で小型鋼船が機帆船を駆逐してしまったのも、小型鋼船の経済性が圧倒的に勝っていたからである。ところが、愛媛県の小型鋼船は、終戦直後には三〇隻そこそこしかなかったのに、昭和三八年春には四〇〇隻を超えてしまった。過剰船腹と過当競争とで内航業者は、採算割れに悩まされるようになった。
 昭和三八年ごろには、鋼船の標準も八〇〇㌧級から一、六〇〇㌧級へ移り、昭和四〇年ごろからは二、九九九㌧級へと移って、急速に貨物船の大型化が進んだ。
 積み荷は、四九九㌧級で約八〇〇㌧、八〇〇㌧級で約一、五〇〇㌧、一、六〇〇㌧級で約三、〇〇〇㌧と積載能力が向上する。船員数は、八〇〇㌧級で一三人、一、六〇〇㌧級で一八人と比較的少なくてすみ、経済性は上昇する。大型化の大きな利点は、近海区域に就航の資格が認められて運送距離を伸ばすとともに、積み荷も貿易品へと幅を広げることができるという点である。船舶安全法に定められた近海区域とは、東経九四度~一七五度、北緯六三度~南緯一一度の水域を指し、韓国・中国・台湾・フィリピン・タイ・インドネシア・シンガポールの東南アジア全域が含まれている。
 内航業者の競争の激化は、造船所間の受注競争をもきびしくし、造船所側の合理化を押し進めた。今治造船では、昭和四一年からISシリーズと称する同型船を作り、中でもIS―6型(二、九九九㌧)は、昭和四七年ごろまでに八〇隻を建造してベスト・セラーになった。基本設計に半年を費やし、同じ総トン数の他の船よりも一割方多く荷が積めるように船倉のスペースが大きくとられていた。三、〇〇〇㌧以上の船は甲種船長でなければ運航できないが、IS―6型は二、九九九㌧であるため乙種船長免状でよく、かつ、乙種免状としては最大量の積荷が動かせるというので船主の人気を集めた。今治造船の側でも、資材・機器の大量購入によるコストダウン、作業習熟による能率向上によって、作業のスピードアップ、工期の短縮など、合理化の効果を挙げることができた。IS―6シリーズは、スタート当初は竣工まで五〇日を要していたのが、次第に短縮され、最も短かったケースでは工期二〇日という超スピード記録を作っている。
 積み荷のロットの拡大とともに、荷扱い・運送の効率化をはかるために中型船の専用船化が進んだ。今治市内の各造船所とも独自の艤装技術を競って、昭和三〇年代の終わりごろから受注船の種類がたくさんになった。コークス専用船・鉱石専用船・石灰石専用船・鋼材専用船・木材運搬船・チップ専用船・自動車運搬船・コンテナ運搬船・タンカー・LPGタンカー・アスファルトタンカー・ケミカルタンカー・食油タンカー・冷凍貨物船等々。
 しかし、波止浜地区で一万㌧級以上の大型船を建造するには、湾の大きさや水深の点から限度があり、大型造船所の仲間入りを果たすためには、今治市外に転出するより仕方がなかった。来島どっく(昭和四一年から新表示)は、昭和四三年六月、川崎重工業の技術協力のもとに大西工場に二万四、〇〇〇㌧の一号修繕ドックと二万四、〇〇〇㌧の二号建造ドックとを完成し、総合事務所を波止浜から大西町へ移した。昭和四七年には、七万五、〇〇〇㌧の三号建造ドックを完成して、五万㌧級の大型船が楽に建造できるようになった。今治造船は、香川県丸亀市の工場誘致を受けて、昭和四六年に丸亀工場の稼動を開始し、昭和四八年には、五万五、〇〇〇㌧建造ドックと七万㌧修繕ドックとを設備するに至った。波止浜造船も多度津町に進出して大型化をはかったが、出遅れて建設の時期が昭和四九年以降の石油ショックの時期と重なってしまい、不幸な運命をたどることになった。

図工4-7 愛媛県造船業の発展

図工4-7 愛媛県造船業の発展


表工4-15 今治市鋼船建造高

表工4-15 今治市鋼船建造高