データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)
三 伊予の国学
以上述べた国学の系列の中にははいらないが、なお伊予の国学を述べるに当たって没することの出来ない人物がある。松山味酒神社の祠官大山為起(一六五一~一七一三)である。
大山為起
京都伏見の稲荷大社の旧社家秦・荷田の両姓からは多くの優れた学者を出したが、中でも「稲荷の二賢」と称えられる二人の学者がある。一人は荷田姓羽倉氏に生まれた荷田春満と、いま一人は秦姓松本氏に生まれ、後に大山家の養子となった大山為起である。大山為起は国学の先駆者荷田春満よりは一八歳の年長で、慶安四年生まれである。通称松本左兵衛、家職の神楽預を嗣ぎ、稲荷神道の大成に努め、延宝八年三〇歳のとき山崎闇斎の門に入り、垂加流神道を学んだ。貞享四年(一六八七)一二月、三七歳のとき、松山藩主松平定直の招きに応じて松山に来て、味酒社の祠官となり神書・古典を講説すること二四年、門人千余人に達したという。宝永七年(一七一〇)六〇歳のとき、『日本書紀』全巻の注釈書を完成し、これを『味酒講記』(五五巻)と名づけて藩主に献じ、翌正徳元年(一七一一)帰洛に際し、自らの魂魄を封じ込んだ葦水霊社混沌宮を味酒社の境内に建てた。帰洛後は問屋町五条下ル音羽橋に葦水軒という塾を開いて古典を講じ、正徳三年(一七一三)三月、六三歳で死去し鳥辺山に葬られた。
平田学派の人々
篤胤の学風は一世を風扉し、志を立てて平田塾の門をたたく若者が後を絶たなかった。新谷藩士碧川篤実、通称内蔵介もその一人で、文政五年(一八二二)江戸に出て入門し、学才と人物を見込まれて同七年一月にその娘婿となった。平田銕胤(一七九九~一八八〇)で、鉄胤とも書く。
平田学の発展を助け、篤胤の死後は平田学派を率いて明治維新の際に大いに活躍した。門人四千人を数えるが、専ら篤胤の学風の維持に努めた。性謙譲で、入門者はすべて篤胤没後の門人として扱い、学者として自ら一家を成そうとはしなかった。明治天皇御学問所最初の待講となり、ついで大学大博士などを歴任した。
伊予の地に根を下して子弟を教育し、深く平田学に傾倒して幕末に大きな役割を果たした人物としては、大洲出身の矢野玄道と、その友人常磐井厳戈を挙げなくてはならない。
矢野玄道
矢野玄道(一八二三~八七)は文政六年に喜多郡阿蔵村有松(大洲市阿蔵)で生まれた。幼名茂太郎父の矢野道正は学徳すぐれ、平田篤胤の門に入って国学を学んだ人だったから、玄道は少年のころから家訓に従い古道を究めて業績を後世に残すようにと国学を志した。二一歳のときの日録に、「和漢の書を読み、諸子百家の書、たいてい通閲せぬはなし」と記されたほどの読書ぶりであった。
松山に出て日下伯巌に学び、二二歳のとき京に上って東山の順正書院に入った。塾頭は宇和島藩出身の上甲振洋であったので、彼はここで塾生に論語・孟子を教えるかたわら、知名の学者を訪ねて教えを請い、蔵書を借覧して勉学に励んだ。二四歳のとき、江戸に出て平田塾に入門した。
当時、篤胤は既に亡く、養子の銕胤が塾長であった。銕胤が同郷新谷藩の出身であった関係から、いろいろ研究の便宜が与えられ、篤胤の著書を自由に借覧して学び、篤胤の学に傾倒するに至った。父の病気のため郷里に帰り、その看病をする傍ら、意気投合した愛国者常磐井厳戈との交友を楽しんだ。
三年ののち、また上京して五条の本覚寺で十数人の書生を教え、また鳩居堂を根城にして伊勢神宮をはじめ畿内の神社、また国学者を訪ねて古書を借覧して学問を深める一方、頼三樹三郎らの志士と往来して勤王の念を篤くしている。そのころ、郷里の父に宛てた書信に、
今は実に堂上も武家も阿房だらけにて、でくのぼうの如きと常にあざけり申し候、万民を救いて天恩に報いるは誠忠の第一にて、皇国学の本体たる事に候間、はばかりなく申し上げ候、
という内容が記されている。こうして尊王意識を高揚させ慶応元年(一八六五)に新選組に捕えられたりした。
そのころ彼は熱心に皇学校の建設を薩長二藩に献言している。これは往年、荷田春満が計画して成らなかったものであった。これが慶応三年(一八六七)に実現し、彼はその学頭に任ぜられた。然し、彼は終生名利を追わず、常に弊衣をまとい清貧に安んじ旅宿に明げ暮れて、生涯妻帯しなかった。『矢野玄道門人録』によると、門人は全国におよび、誓詞のある者千数百にのぼっている。
晩年はもっぱら古書の採訪と著述に費やされたが、彼の著書は七〇〇巻にもおよんでいる。なかでも『皇典翼』『神典翼』はもっとも心血を注いたものである。学問に関すること以外の世俗的な来客の長ばなしをきらい、居間の入口に「しらべ中、長ばなしいや」と貼り紙がしてあったという。
常磐井厳戈
常磐井厳戈(一八一九~六三)は文政二年に大洲藩士斎藤正直の三男として、大洲中村に生まれた。幼名留次郎。一六歳のとき、阿蔵村(大洲市阿蔵)の八幡宮の神主常磐井家の養子となった。彼は父祖以来の橘家神道・国学・儒学を継承し発展させ、さらに仏典や蘭学にも通ずるという広汎で深遠な学問を身につけていた。ことに平田篤胤の学問に深く傾倒し、親友玄道の紹介で平田塾に嘉永五年(一八五二)三三歳のとき入門した(門人帳には嘉永四年とある)。こうして平田学は彼の学問思想の中核となった。
彼は常磐井家の家塾を「古学堂」と名づけ、古神道の精神を明らかにすることを基本とし、尊王愛国の精神と、慷慨の情熱で多くの人々に感化を与えた。彼は強烈な神国論者であり、尊王論者であったが、決して攘夷論者ではなく、新しい時代に即応する自由な学問的立場を執っていた。これが多くの門人に強い感化を与えたといえよう。彼自身、開国進取の識見を時っていた。
彼の古学堂からは有為な人物を輩出しているが、異色の人としては、三瀬諸淵(周三)や武田成章らがある。三瀬は少年のころ古学堂で学び、やがてシーボルトに蘭学を学んで、明治初年に洋医学校の設立に功績を残しており、武田成章は洋式築城の創始者となり函館五稜郭の設計者として知られている。大洲藩士の門弟中からは、古学堂で得たものを根底にして大洲藩の明倫堂学派の中核となって、幕末大洲藩の動向を決定づけた山本尚徳・中村俊治・武田敬孝などがいた。