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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 伊予の堀川学派

 『松山叢談』(第七下)によると
                                 
 和田通條小字茂助本藩人有学行 唱道于士太夫(中略)茂助学初奉洛閩 後生異見而其説暗与伊藤氏符矣 由此観之吾藩古学之興茂助為之開矣祖

 また、同書(第九上)に仁斎古学の始は、延宝の比伊藤兵助と云者京都に行、仁斎の直弟子に成て修行して帰り、又中村喜左衛門上京して修行す 両人追々門人を誘進す 其後、高木玄林 古学を修学し来て又門人多く 其末派広橋・早川・大村・平井の属に伝て尾崎・松田・丹波等に至る。とあって、古学派が早くから松山藩に浸透したことを示しているが、詳細不明である。また長野彬々(一七〇二~一七六七)が、古学修め、篤実方正、文辞粋然 古君子の風があったと伝えている。三津浜の医師人見正達(生没未詳。享保安永年間の人)は伊藤東所(東涯末子、一七四二~一八〇四)に師事して奥儀を究め、帰郷後医業に携りながら儒学研究を続け、藩侍医朱子学者井手玄達と「理気論」を闘わせて話題になったことが『松山叢談』(第九下)に記載されている。
 仁斎の学徳と父をしのぐといわれた東涯、蘭嵎、その跡をついた東所、みな優れた儒者であり、徳行の修得を中心においたから全国から入門者が相ついた。伊予からも多くの人々が直接、間接に堀川学にっながっているようである。ただ仁斎門下異色の人で『疑語孟字義』の著者並河天民門に松山医師山本元泉が師事したというが詳細不明である。

 1 丹 波 南 陵

 享保一六年(一七三一)生まれ。名は成善。後に成美。字は収蔵、初め順長、後に南陵。剔髪して京都に出、医学を学ぶとともに伊藤東所の施政堂に入り朱子学を習んだ。帰藩後、蓄髪して儒官となる。明教館教授。人格徳行学術ともに高く、藩学界の領袖と仰がれるに至る。安永五年(一七六六)命を受けて撰した「義農之墓」碑陰文は名文である。天明八年(一七八八)七月二五日没した。五八歳であった。
 曽憲慎夫(一七六八~一八三八)の悼詩を掲げよう。

     哭南陵先生      曽憲慎夫   南陵先生を哭す
  憶昔従游少小時  講筵幾度侍簾帷  憶いみる昔 従游せし少小の時を 講筵、幾度か簾帷に侍す
  三秋豈計金風夕  一旦空摧玉樹枝  三秋 豈計らんや金風の夕ベ   一旦 空しく摧く玉樹の枝
  落日寂寥楊氏宅  浮雲惨澹老農碑
  落日 寂寥たり 楊氏の宅  浮雲 惨澹たり 老農の碑
  衡門誰謂喪龍吉  草木変衰楚色悲
  衡門 誰か謂う 龍を喪うことを吉ぐと 草木 変衰して楚色悲し

 2 尾 崎 時 春

 享保元年(一七一六)生まれ。名は時春、平氏を称す。字は弾次、土善。別号、震沢、匏繋舎。上京して伊藤東所の施政堂に学び、宝暦元年(一七五一)帰藩、書簡役、明教館教授を務む。博学、詩文に長じ、「松山藩内詩教之盛為之唱首矣」(『欽暮録』)と称された。書道にも長じ、義農墓碑を書した。

  垂憲録云 定静公御代(作兵衛の死を距ること四十四年)作兵衛の義心を後世知る人もなからんには、本意ならずと深く感じ給ひ、左の如く丹波周蔵と云儒官に命じて銘を作らしめ給ひ、尾崎団次書之(『松山叢談』六)安永六年四月十五日伊予郡筒井村義農作兵衛碑立 考訂尾崎団次蒙之(『三田村秘事録』)

 尾崎時春、この時感激のあまり詩を賦した。

 是時丁酉夏四月命勒義農碑 因有此詩 是の時 丁酉夏四月義農碑に勒するを命ぜらる。よりて此の詩あり。
  奇哉老農志  感慨耐揮毫  奇なるかな 老農の志  感慨 揮毫するに耐えたり
  微命与餐尽  佳声兼名高  微命は 餐と与に尽きたるも 佳声 名を兼ねて高し
  一時忍餓饑  千載顕勲労  一時 餓饑を忍び 千載 勲労 顕らかなり
  多少縉紳客  有羞爾節操  多少の縉紳の客  爾が節操に羞ずるあらむ

別詩を挙げておこう。

   九月十三日夜 長氏別業賞月   九月十三日夜 長氏の別業に月を賞す  (訥斎)
秋深丹桂帯微霜  影落地心冷水光  秋深くして丹桂は微霜を帯び  影は地心に落ちて冷水光く
 亮不知今夜月  風流別自在扶桑  庚亮は知らず今夜の月  風流は別に自ら扶桑に在り
  賀尾崎訥斎七十初度        尾崎訥斎の七十の初度を賀す     (杉山熊台)
酔対蟠桃眠幾回  更逢華誕豔陽催  酔うて蟠桃に対し眠ること幾回ぞ 更に華  誕に逢いて 豔陽催す

南山雅唱瓊筵盛  北海清樽玉管開  南山の雅唱、瓊筵盛んに 北海の清樽 玉管開く
                      
諸彦問奇門下会  三鱣呈瑞帳前来  諸彦 奇を問う 門下の会 三鱣 瑞を呈わし  て帳前に来る
無論矍鑠称眉寿  猶楽翰林育衆才  無論 矍鑠として眉寿を称す 猶 翰林に衆才を育つるを楽しむ

  暮春淡斎集 寄懐訥斎翁臥病得光字  暮春、淡斎の集いに懐いを訥斎翁の臥病に寄せて光字を得たり
                       
会盟久違主  抱病負春光  会盟、久しく主に違い 病を抱いて春光に負く   (曽憲慎夫)
緑草仲舒苑  貂裘季子堂  緑草は仲舒の苑  貂裘は季子の堂
残花傍地落  帰雁帯雲翔  残花 地に傍うて落ち  帰雁 雲を帯びて翔く
二豎稍応去  伴遊飛羽觴
二豎 稍応じて去り  伴い遊びて羽觴を飛ばせり

  酌酒与故人            酒を酌みて故人に与しむ      (平時春-訥斎)

杯酒何辞秉燭遊  酔中談笑是丹邱
杯酒 何ぞ辞さん 燭を秉りて遊ぶを 酔中の談笑 是れ丹邱
功名富貴君休問  緑鬢幾時又白頭
功名富貴 君問うを休めよ 緑鬢 幾時ぞ 又白頭ならむ

 3 中 村 夢 洲

 宝暦八年(一七五八)生まれで、通称は権左衛門。名は愈積、太市、太作。鉄斎・痩丁とも号した。初め古義学派由井天山(一七四一~一八一一)に学び、その師伊藤仁斎の人となりを欽仰し、篤実方正、実践躬行して修行怠りなく、門弟に自ら範を示した。誠に仁斎学の精髄を体得した師儒であった。後、藩命を受けて朱子学に転じた。天保元年(一八三〇)八月三日没した。昌平黌出身の高橋復斎(一七八八~一八三四)らと親しかった。

   奉賀高橋君帰省    中村夢洲   高橋君の帰省を賀し奉る
南海明珠東海新  握中庶得自彬彬  南海の明珠 東海 新たなり 握中 庶得して自ら彬彬たらむ
閂郷且遠庭闈色  似賞君家席上珍
郷に閂して且くは庭闈の色に遠ざかる 君が家に席上珍を賞するに似たり

 4 安藤家の人々

 安藤陽州については、既に述べた通り、一九歳にして京都の伊藤蘭偶に師事し、研鑽すること一二年に及び、堀川学の真髄を得て帰藩し、藩主村候の期待によく応えて、宇和島に堀川学を導入し、藩文教確立の源となった。人格の完成を特に主張し、修己を目標とする堀川学派にふさわしく、陽州は、資性剛介、苟も正道に違わず、信ずること確く、門弟の不行跡な者は改悛せしめざればやまず、蘭嵎同門中からもその勉励の厳しさを称賛されていた。漢学のみでなく、国典にも通じ、『日本大典』一〇巻を著して、律令を明らかにする等、広領域への学問志向は、師蘭嵎の影響であろう。蘭嵎(一八九四~一七七八)は、仁斎六八歳の時の五男で京都堀河に生まれた。名は長堅、字は才蔵、別号を六有斎、抱膝斎といい、東涯の異母弟である。東涯が紹述先生と称されるに対し、蘭嵎は紹明先生と呼ばれた。仁斎の学問紹述をおのが任とする謙虚な東涯と、新しい境地を開拓しようとする蘭嵎の違いを最も端的に表現したものである。「当仁不譲於師矣 孝子不・(「言」部に右側が「叟」の字)其親也」(『大学是正』序)このように蘭嵎は仁斎に比し『大学』に新しい意味を見いたし、東涯の開拓し得なかった広範囲の学問に眼を向ける姿は陽州の本来の向学心を煽ってやまなかったものと思われる。陽州の幅広い学問は、藩主村侯の信認を得て、仁義を中核に人格の完成を目標とした儒学が興隆した。
 安藤毅軒は宝暦九年(一七五九)一月二六日、陽州の長男として生まれ、通称は新助、諱は知栄、字は子華と呼ばれ、父陽州に古学を学ぶこと十余年、学業大いに進んだが、京都に上り、崎門派若林強斎門の西依成斎につき崎門学を学ぶこと数年、帰藩後、儒員となり、崎門学を通じて藩風向上に貢献した。学問の精詳その比なく、学徳ともに優れて服さざるものなしと称揚せられた。古学は宇和島から衰退したが、士風大いに改まり、向学の気風が藩内士庶の間に澎湃として興った。文化八年(一八一一)二月一一日、江戸に没したが、都築鳳栖の書した毅軒墓碑銘が最も毅軒の人となりを表している。

 教学之道 師厳道尊 誘掖有方 是人徳門 弟子奉教 自死道存

 安藤観生は寛政元年(一七八九)正月二五日毅軒の子として生まれた。通称は新助、または勝吉、諱は知敬、藩校教授として文教振興に尽くしたが、嘉永七年(一八五四)一一月二一日没した。
 このころ既に宇和島・吉田藩内には、小松の犬儒近藤篤山に師事する者もあり、程朱学が隆盛に向かっていた。

 5 そ  の  他

 堀川学派は、松山藩内で延宝年間から文化年間が最も栄えた時代であった。丸山南海(~一八〇一)由井天山(一七四一~一八一一)その子伴陰(一七八六ー一八五四)その子冠山(一八〇八~一八六三)らが出ているが異学の禁令により漸次朱子学に転ずるに至る。
 今治藩士渡辺絢介は安芸の吉村秋陽に学び、秋陽の陽朱陰王の説を忠実に学習し継承した人である。秋陽は、伊藤東涯・同東里につき古義学を学び、後、佐藤一斎について朱陸朱王折衷、朱王同帰説を学習した人である。 宇和島・吉田藩の陽明学派は、延享より寛政初期までであった。徳行を重んじ、仁義を中核とする堀川学派は学祖仁斎の学徳と五子の精励により伊予においても優れた儒学者を出したが、異学の禁令後、直接間接の影響を受け、漸次衰退の一途をたどるのである。