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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第三節 今治藩の心学

 丹 下 光 亮

 文政四年(一八二一)五月五日、今治藩士、以心流剣術指南役一〇石三人扶持丹下光明の二男に生まれた。幼名は巳之助、成人して環と改称した。兄、早世のため嗣子となり、六歳、剣を学び、八歳、藩学克明館に入った。
 この年、父死亡、家職は姉聟光長(一八〇一~一八七一)が嗣いだ。このころ釣に出て日射病に罹り、九歳で左足 跛となったため剣を廃して学問に専念、天保一三年(一八四二)二二歳にして心学に志した。
 今治藩では、文化一四年(一八一七)七代藩主松平定剛が江戸藩邸に大島有隣を月二~三回招いて道話を聞き自らも修行するほどであったが、国元領内にはまだ浸透するに至ってなかった。
 天保一五年(一八四四)四月、九代藩主定保(勝道)が松山より田中一如を招き道話させ、翌二年三月、再度一如を招聘した。この時、光亮は、藩命により大島巡講中の一如のもとへ至り、三月二九日入門、一如に従って四月一○日まで巡回し、一如の道話を聴き、修行に励んだ。その著『順邑記并旅宿簿』によって修行の跡をみよう。

 弘化乙二巳年三月上旬予州松山藩中、田中一如先生へ御招待御頼ニテ御領中順村之半、御用所より先生へ入門致様御目付より沙汰同月廿九日、先生へ入門、直チニ嶋方へ廻村(『順邑記并 旅宿簿』)
 弘化巳年六月廿二日朝五ツ時出船、同廿三日 三嶋庄屋へ入込、九時迄興願寺ニテ道話、同廿四日 御陣屋ニテ道話。同廿五日 九ツ時迄奥願寺ニテ道話。同廿六日 下柏村庄屋へ入込、善法寺ニテ道話。同夜道話、同廿七日村松庄屋へ入込、同夕地蔵庵ニテ道話。同廿八日朝五ツ時、妻鳥村庄屋へ入込、九時定蓮寺ニテ道話。同夜同寺ニテ道話。同廿九日 半田村庄屋へ入込、八時大光寺ニテ道話。七月朔日 下山村へ入込 九ッ時常福寺ニテ道話。同二日、三嶋庄屋へ帰宅。
 同三日出帆、同四日昼九時帰宅。(同右)

 丹下光亮の三舎印鑑受領は翌三年であるが、受領前年に各地で単独道話席を持っている。心学に志して既に三年を経過しており、斯界の宿老一如の紹介もあって、「断書」はもちろん、修行者の手引をし得る「善導印鑑」は得ていたものと思われる。
 弘化二年九月二日より同年一二月一五日まで百余日六行舎にて修行。
 弘化三年二月四日より、同年五月二日、一二○日余再度六行舎にて修行。同年九月一四日 京都明倫舎に入り、寄宿修行。一〇月大阪明誠舎に入り、広島歓心舎都講奥田頼杖と同宿研鑽を重ね、明誠舎定例道話会に前講を務める。一二月二日まで滞在修行。
 このころ明倫舎より「三舎印鑑」受領、併せて「新民舎」の舎号印可。弘化四年三月一九日より、同年四月一〇日まで六行舎近藤平格に学ぶ。

 同年七月一九日 嶋方巡講拝命、名村、福田、仁江、宮窪、木浦、北浦、弓削各村を巡回道話。褒賞白銀一枚下賜さる。
 嘉永元年(一八四八)四月四日、地廻り拝命。越智郡巡講、四月一〇日夜帰宅。
 同年八月一七日、一如の墓参を兼ね六行舎訪問。桜井、古田、須ノ内各村にて道話。九月七日帰宅。
 同二年二月一六日より嶋方巡講。名村、福田、北浦、木浦、佐島、弓削、魚島各村にて道話。二三日帰宅。
 同日、藩主定保御前にて『孟子』(「告子章句」上に)、連枝松平帯刀宅にて『論語』(「顔淵第十二冒頭文」)講義。
 同年九月一日より町家深見利兵衛、布屋又兵衛、砂田喜久輔方へ出張道話並びに素読指導。
 嘉永三年二月八日、松山に出、一一日より一七日まで続道話。東野(松山市)、則之内村(川内町)道話。二七日帰宅。
 同年五月一〇日より六月一七日まで壬生川方面へ道話巡講。
 嘉永五年(一八五二)二月二一日 近藤平格を迎えて盛大な道話会開催。
 同五壬子二月廿一日松山六行舎近藤平格師入来、惣市中頼ニテ同廿三日より町会所ニテ昼夜道話付、南岳院ト両人ニテ前講相勤、廿七日夜まで続道話(『順邑録并旅宿簿』)
 同年二月一〇日より三月二七日まで桑村郡古田(丹原町)、河原津・中村・上市(東予市)各村々巡講道話。
 嘉永六年(一八五三)三月一四日、四月三日、同四日、五月四日、藩主御前、御奥にて道話。漢学講義。

 このころから、さきに印可された「新民舎」構築の機が熟し、藩の援助と町民有志の出資により講舎新築さる。

 同年丑五月八日 舎にて御用人中より由来 毎々道話御聴聞御白銀百疋被下置候事。新書院より之願依道話聴聞御聞届御座候新屋敷へ折々罷出候様被仰聞候事。(同右)

 嘉永六年六月四日より二日間、安房鋸山々麓日本寺禅宗、江戸参前舎都講松山寂庵(生没未詳)を迎え、盛大な道話会を催し、光亮は、前講を務めた。寂庵は、禅を基本として儒、仏、神三教を融和統一し、老荘を加味した独自の心学思想を持ち、本心開悟の後も修行工夫すべき一七〇〇項目の追求すべき策問ありとしてその対策を示し、『地獄極楽同境和讃』(嘉永二年)『石門陰陽和合和讃』(嘉永三年)『なくて七癖』(嘉永三年)を著した著名な心学者であった。特に国恩を説き、奉公の精神を強調して全国遊説の途中であった。
 光亮は、今治、松山間を頻繁に往復して六行舎と連絡を保ち、京都、江戸心学と提携しつつ、修行に励み、また、藩主御前に心学を講じ、各所に赴いて道話したので今治心学は急速に進展した。
 安政二年(一八五五)九月一〇日、大島名村庄屋池田僖左衛門の招請により、藩許を得て新民舎をここに移し生涯居住の地と定めて心学を講じ、漢学の素読、書道も併せ教授した。
 このころ、六行舎に派遣していた門弟広瀬忠兵衛、夏目右京が三舎印鑑を受領して帰り、光亮の代講を務めて今治心学は盛況をきわめ、新民舎に来り学ぶ者、農民、神職、僧侶、女性さまざまで三五〇余名に達した。
 光亮は、安政三年には菊間より妻を迎え、新民舎経営に全力を傾注した。近藤平格没後は、伊予心学最高の指導者となり、請われて松山藩にも巡講するなど名声があがり、入門者が相次いだ。しかし、明治維新後講舎廃止。
 明治三年(一八七〇)九月一一日 今治刑法局北新町徒刑者教諭方に任命され、毎月二、三回出張道話した。
 明治四年七月廃藩により徒刑場廃止。道話中止さる。
 新民舎は、道話道場であると共に、光亮は寺子屋方式を採用、読み、書き、算盤を指導したので、明治九年。光亮が中風で倒れるまで入門者が相次ぎ、地域文教の中心となった(『安政二年九月一日より門弟名前帳』)。昭和五三年には、住民によって頌徳碑が建てられた。
 光亮の道話題材及び善導状況は、その著『順邑記并旅宿簿』、『教諭録譬諭之分』、『道話集』によって詳細に窺うことができる。題材は、主として四書、老荘、『春秋』、『礼記』、『書経』、『列子』、『三綱行実』、『説苑』、『烈女伝』、『貞観政要』仏教書、日本及中国歴史、石田梅岩、手島堵庵、富岡以直、柴田鳩翁らの語録、中沢道二道歌、高札等から選んだ。説話、伝聞なども多く話題にしている。
 光亮心学の要諦は、「本来空ナル我ノ本体ハ何力」(『道話集』「知心本義」)を追求することで、「本心ヲ知ランド思ハバ、是迄ノ古キ心得違ヲ改ムベシ」(『道話集』)と強調した。手島堵庵の「身どもは、まず思案なき所を一度知らしゃれイと説きます」(『坐談隋筆』)を進めて先入観をすて心を空しくして「思案なし」、「我なし」の境地を得よと説く。自ら梅岩の『莫妄想』を平格から借用筆写(『道話集』)し、堵庵心学に触発されながらも必ずしも朱子学一辺倒でなかった富岡以直(一七一七~一七八二)の説を多く引用しているのは注目に価する。光亮の善導は、「孔子水ヲ示シ玉フモ道ノ体ノ見安キハ川ノ流ニシクハ無シ」「『莫妄想』)にならい、「扇ヲ示シテ」本心に直入する方法をとった。(『道話集』(「知心口授」)

                     善導心得之事
一、扇ヲ見せ  扇とは何が見る。何が知る。
一、音     何が聞く。何が知る。
一、香     善悪ニツ何が嗅。何が知る。
一、舌     甘シ、辛シと何が知る。
一、身ヲツメリ 痛イとは何が知る。
一、意     万事善悪と何が知る。
一、扇ヲ引カセ  何ものが引くぞ。
一、此所へ    何者が来り候や。
一、見聞覚知行往坐臥 我がなすにあらず。我なき発悟は何によりて得られ候や、如何。
一、身と心と一ツか、ニツか、一ツならば一ツ、ニツならばニツ証拠を出して見せられよ(『道話集』)

 このように問いかけて漸次「物心一如」、「赤子のごとく私心なく、汚れなき境地」を体得するよう教えてゆく。「澄さむと思へば濁るにごり江に任せておけば澄める心を」と「我なし」の境地から「憎むとも憎みかへすな憎まれて憎み憎まれ果しなければ」と憎悪の争いを捨て、「父母に呼ばれて仮の客に来て心のこさず帰る古郷」と現世を美しく生き抜くために「正直は一生の宝」、「堪忍は一生の相続」、「慈悲は一生の祈とう」と説き続けた。