データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)
二 吉田神道の発展
一宮の社家支配
中世より近世初頭にかけて諸国の一宮が、それぞれの国内諸社の神職を統轄した地域がみられた。例えば、備前・備中・備後の三備一宮であった吉備津彦神社では、国中の大小の神社は悉く一宮の仮神であるとまで言いきって、その宗教的権威を誇示していた。しかし、これも慶長年間(一五九六~一六一五)のころより神祇大副の吉田家の勢力が国内に伸長するにつれて配下の神職と確執を生じることとなり、ついには延宝四年(一六七六)に同家の許状を受けて、新たに設けられた神職組織の社人大頭に任命されるに至っている。
同様に、伊予国一宮の大山祇神社でも、国内の一部の神社の社家に対して神職許状を与えていた形跡が認められる。大山祇神社文書については未確認であるが、大洲藩内の社家略系図を記した寛政一二年(一八〇〇)の『社家系図代数改』によると、領内川中組の社家に大山祇神社より許状を受けたと記すもの六軒がある。浮穴郡中山村(伊予郡中山町)の藤縄三島社(佐伯家二軒)、喜多郡では川中村(内子町)三島社(佐伯家二軒)、五百木村の宇都宮社(佐伯家)、論田村の船戸社(佐伯家)の神職たちで、距離的には近接する同姓の社家である。一代限りの家もあれば、二代・三代あるいは数代に亘って「大三島許状」を受けたところもあった。
川中村三島社の佐伯神主家は、近郷二五か村の神社の幣頭をつとめた家筋であるが、同家では四代目の権大夫宗安が天文六年(一五三七)一一月に神主号の許状を受げてより、九代但馬大夫宗次と一〇代能登大夫宗長の父子が慶安五年(一六五二)八月四日付で授与されたのを最後とするまで、七代に亘って授かっている。しかし、一一代の筑前掾宗清の代になった寛文一〇年(一六七〇)七月、吉田家許状を受けるに至って大山祇神社との関係は途絶した。その他の社家についても近世初期、遅くとも寛文・延宝期(一六六一~八〇)以前のつながりであったらしく、以後はいずれも吉田家配下となっていくのである。
このような一宮による社家支配の事例は、他に明確なものが存しないものの、岡山藩と時を同じくして今治・松山両藩が相次いで当社大祝家を社家頭に任じたことなどは、中世的秩序の名残りかと考えられる。今治藩主・松平定時は、延宝四年三月に「可相勤條々」として大祝安朗に宛てた五か条を示したが、その中に「松山領今治領小宮の祢宜共古例の如く自今以後猥りに官位に任ぜざる様堅く申付くべきの事」と見えている。これは、大祝家を両藩の社家頭と定めたことからの一条とみられる。さらに今治領については、同六年に島方の諸社家二七人が連名で代官の上野弥兵衛に宛てて、以後の官位授与の添状や諸社の争いごとについては大祝の下知に背かぬことを約しているのである。また『大祝安躬手記』のなかにも「大祝安朗江松山今治両御領中社家頭仰付られ候事」と記されているという。
松山藩でも、湯月八幡宮(伊佐爾波神社)の社中出入に当たって、延宝五年一二月に大祝安朗が藩裁定を社家中へ申し渡すなど同藩社家頭として機能しているのであった。
これらはいずれも、中世以来の一宮が幕藩体制の一環として組み込まれながらも、逆にその一端を担うことによって旧来の秩序を多少なりとも維持しようとしたことの表れであろうと解される。しかし、これとても吉田家による社家支配が進展するにつれて大祝家にかわる社家頭(松山の阿沼美神社神主家)が定められると、大山祇神社の諸社家は、これと鋭く対立するのであった。
吉田神道の普及と拡大
幕藩体制の確立に伴ない、仏教諸宗が檀家制度や寺院本末制度によってその一端に組み込まれたころ、神祇官の卜部として長く奉仕してきた吉田家がしだいに地位を高めて長官たる白川伯家をも凌ぐ勢力を獲得し、神道宗家として機能するようになる。寛文五年(一六六五)には、幕府による「諸社祢宜神主法度」が出され、神職の遵守すべき五か条が示される。これによって、神職は神祇道を専らに学ぶべきことなどともに、その着用する装束についても、吉田家の許状を受けていない無位の者が白張を着けるほかは同家の許状どおりと定めるなど、吉田家に対して全国神職の総取り締まり的な地位を認めたのであった。
それは、翌六年に神祇大副であった同家が神祇管領家として公認されるに及んでさらに徹底され、諸国の神職は相次いで吉田家の許状を受けるようになってくる。このような社家制度は、仏教の寺院本末制度に擬したものとみられるが、大部分の社家が吉田家配下となるには、なお少しの時間を必要としたようである。
江戸時代中期より幕末に至るまで、諸国の神職は代替わり継目に当たって上京し、吉田家よりその神祇道を学び、神勤用の装束着用やその他の承認を得るのが原則であったが、この許可状の一つが「神道裁許状」である。檀紙に神社名および職称・服飾を記し、最後を「神道裁許之状如件」と結ぶのが一般的で、神祇管領長上卜部某の名をもってこれを授けている。あるいは、神道相伝に関して中臣祓・禊祓・六根清浄祓・三種祓などの祓詞その他を雁皮紙に刷ったものを与えている。さらに諸社家が、吉田家を「御本所様」と仰ぎ、同家を経由して神職が官位を受ける執奏の制度も定着していったのである。
さて、伊予国においては、明暦二年(一六五六)七月に新居郡大保木村(西条市大保木)の春宮明神々主の十亀氏が許状を得だのが初見とみられる。次いで同郡金子村(新居浜市一宮町)の一宮神社神主家・矢野氏が、万治二年(一六五九)六月に許状を受けている。同じころ、大山祇神社にも入門例があったらしく、菅宮之大夫(明暦年間)や大祝安長(万治年間)が吉田家の執奏に与っているという。ともあれ、その後の寛文・延宝期以降になると、松山地方を中心に東・中予の神職たちが、順次に吉田家配下となっていったのである。
なお、喜多郡以南の南予地方では、専任神職層の成立や分立の時期とも関連して、やや遅れた傾向が窺える。また、地域内における時期的な差異をみることもできる。例えば、大洲藩の喜多郡および浮穴郡の一部(川上組・橘組・小田組・川中組)における吉田家裁許状の初取得年代を比較したのが、表10である。全体的には一〇〇年以上の年代差があるが、おおむね元禄年間および享保年間ころに集中する傾向が認められる。
しかし、神職の位階や受領名については、伊予国内でも地域性や時代性がみられ、一様ではなかった。江戸時代半ばまでは、吉田家が位階を所持しない神職にも受領名(国名を冠した称)を与えた時期もあり、俗に吉田官と称されたが、以後はこれが規制されるようになる。伊予国では、幕末に近い天保年間より従五位下の位記を受げる神職が増加し、特に松山藩に顕著であった。ところが、南予地方の諸藩や大社を除いた東予地方、経済力の乏しい山村部ではほとんど例がみられないなどの、地域的な差異も存在した。同時に、吉田家の門に入ってその庇護を得ながら唯一神道を標傍し、かつ執奏によって位階を授かることは、地域社会にあって神社の社務を兼ねる別当寺院に対峙する神職が、その差配から脱却する大きな要因ともなったのである。
一宮と吉田家
もっとも、中世以来、伊予国一宮として独自の存在を築いてきた大山祇神社の場合には、少なからずその趣を異にし、吉田家配下となることを執拗に忌避した。すでに記したように、万治年間には大祝安長が、その前後の明暦・寛文年間には菅長正および長次が執奏を受けた例もあるが、これらを例外とすれば、当社は「独立の社」としての立場を貫いてきたといえる。それは、諸国の一宮がしだいに権力を喪失して吉田家配下に組み込まれていくなかで、やや異質性をもった存在であった。
これについて吉田家側でも、寛政二年(一七九〇)には、松山藩京都留守居役の金子仙五郎を通して、当社の社家を配下としたい旨を申し入れた。それをうけた奉行所よりの問いに答えて、「三島宮の儀は神代巳来御鎮座の御社にて、則ち朝廷より日本惣鎮守の社号を賜り、古代は天子将軍を始め厚く御崇敬これ有る格別の御社柄」の故をもって松山藩主よりも格別の扱いを受けているのであるから、吉田家配下ではないと強調し、申し入れを拒否しているのである。そして、神社としても大祝悴の式部をおよそ一〇〇日ほども上京させて対応策を講じ、留守居役より吉田家へ返答を行ったのであった。
また、吉田家の側でも、こうした状況を背景としながら、文化四年(一八〇七)にはかつて速水房常(方市斎)が編んだ『神祇管領吉田家諸国社家執奏記』を敢えて開版し、執奏記の記載事項を広く周知させようと試みているのである。当然のことながら、大山祇神社も「伊予国三島社」として記されており、他には「伊曽乃神社 道後湯月八幡 大洲八幡 松山味酒社 金子一宮 角野内之宮 松前玉生八幡」の諸社を同家執奏の代表的事例として掲げている。
この執奏家問題は、のち文化六年五月になり、吉田家の神祇道示諭方役人が下向するに当たって再燃し、大三島々内の村方諸社に少なからぬ影響を与えることになった。すなわち、台村の川崎伊勢大夫は、吉田家配下の社家として島内諸社の神職だちと社組を形成し、神楽組合を結ぶとともに当社の神楽役を司っていたのであるが、社付の社人がすべて吉田家より離れることとなったために、伊勢大夫も大祝より社組を離れるように命じられた。しかし、これでは村方氏神の祭礼が困難となるので、村役人たちは、従来どおりの吉田家配下を認証してほしい旨を郡奉行所へ願い出るのである。が、結果的に伊勢大夫は神楽組合を離れることとなり、「三島本宮御社付之下社家」として宮浦・台の両村小社の祢宜職を務めることとなったようである。
また、神社上官の一つである越智神大夫の場合には、井口村氏神の八幡宮鍵預職を兼務していたのであるが、逆にそれでは当社の主張に矛盾を生じることになることから、これを辞するようにと社中から説得に当たっている。このときも神大夫がこれを了承するなど、大祝以下が社中をあげて一宮の独自性を貫こうとしたのであった。
伊予の伯家神道
神祇伯の白川家に相伝された神事やそれに伴って展開した神道思想を、吉田神道に対して伯家神道と称している。白川家の神祇官長上としての成立は平安期とされるが、それが伯家神道として位置づけられるのは、近世中期であるという。すでに記したように、神祇官卜部の吉田家が台頭するなかで、白川家も宝暦年間のころより付属神社の数を増大させ、畿内や三河・武蔵国などでの伸長が顕著であった。
しかし、吉田家の巻き返しもあって、相対的な吉田家の優位は変わらなかった。
さて、伊予国では、古くは正長元年(一四二八)に大山祇神社の国神主・菅原弥九郎大夫が入門してより、『白川家門人帳』によれば表11(のような入門事例が見られる(『白川家門人帳』を『神祇伯家記録抄』により補完した。)が、その数はけっして多いとはいえない。文化一三年(一八一六)当時の神社門人数は、三七社の三河国を筆頭に、近江二八、摂津二七・山城二六・下総二三・武蔵二二・上野二〇などとなっており、伊予国は八社の一八位であった。また、全体を通してみると、中世の事例を除外して天明二年以降、明治二年までで二八の入門を数えている。そして、矢野玄道・常磐井精戈など幕末期の入門者が比較的多くみられるのであった。
ただ、一つ注意しなければならないことは、天明年間のころに比較的早く入門した社家の分布が、かつて江戸初期まで一宮・大山祇神社より神職許状を得ていた社家と重複する点である。おそらくは、旧来の一宮との関係をもって、吉田家配下から白川家配下へと移行したものと解される。