データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)
四 幕府の宗教統制と寺檀制度
天下の統一を目ざす信長にとって障害になったのは、武力集団化した本願寺・比叡山・高野山と日蓮宗であった。そのため信長はこれらを解体しようとして果たせなかった。それを引継いだ秀吉は根来・雑賀などの解体を進め、高野山を処分するとともに刀狩りを行い、一方では本願寺、日蓮宗諸寺、比叡山・高野山を再興し、平和的教団に再編して協力させようとした。これらは主として大寺や宗団に対する政策であったが、一般の寺院に大きい影響を与えたのは検地であった。これまで守護が手を入れることができなかった寺領に対しても行い、莫大な寺領を没収した。
江戸幕府の宗教政策
家康は崇伝を重く用い、その献策により、慶長六年(一六〇一)から元和二年(一六一六)にかけて、高
野山以下主要寺院の寺院法度を制定して統制、寛文五年(一八六五)には全宗派と寺院を全面的に統制する法度をつくり、住職の資格や寺領を規制するとともに寺檀制度の大綱を定め、貞享四年(一六八七)の法度では、寺檀制度とあわせて切支丹禁制と宗門改めを規正、さらに享保七年(一七二二)諸宗条目を制定して、各宗共通のものと各宗派のものを作り細かく再統制した。
一方、元和八年はじめて新寺の建立を禁止し、あわせて寺号・院号をみだりに称することをとどめたが、守られなかったためか、寛永七年に再禁止、さらに翌年には江戸でこれを強行した。しかし、それでもなお守られなかったらしく、明暦二年(一六五九)の禁止令を経て、元禄五年(一六九二)には、これまでに建立された新寺院一四六か寺を古跡として認め、今後新しく寺院を建立することを禁じ、さらに庵室を寺にすることを禁止した。前にも記したように、伊予でも、江戸時代初期、大洲と松山藩領で新しく黄檗宗になった寺院がすべて旧寺院の再興という名目であるように、事実上の新寺建立が、廃絶後の旧寺院再建という名目で行われたものがかなりあったのであろう。こうして、ほぼ寛文期ごろまでに、大勢としての寺院整理の中で、旧寺院の再興や再興を名目とする事実上の新寺院の建立が終わり、寺院の基礎が固まるとともに、寺檀制度が確立する。
つぎに、江戸時代初期の宗教政策として寺院の本末制の確立があげられる。寺院の本末関係は平安時代以後みられることであるが、中世になると法系と伽藍系を結びつける本末関係が比較的顕著になり、中世後期には地方を単位とした本末関係、たとえば谷上山宝珠寺(伊豫市、真言宗)と伊予郡内の末寺というような関係がみられるようになったが、この事実上の本末関係を整えたのが江戸時代の本末制度である。この結果、すべての寺院がいずれかの本寺に所属し、住持の任免などの権限を本寺に持たせ、ひいては中央集権的体制に繰り込んだ。しかも、この本末制度は宗派によっては複雑であるが、基本的には、本山・本寺・中本寺・直末寺・孫末寺という本末組織である。それは、寛永八年、幕府が諸宗へ末寺帳の提出を求めたことに始まり、その翌年と翌々年までにほぼ提出されたが、さらに徹底を期して元禄五年各宗本寺へ末寺帳の提出を命じた。
ついで、本末制度に関連して定められたのが、寺については寺格、僧については僧階である。寺格については宗派ごとに異なり、一般にはさきにあげた本末の階級のものである。僧階は、古代以来の原則は受戒以後の年数をもって「法臘」何年といったものであるが、宗派ごとに複雑な要素が加わり、次第に細分化され、法衣の色や形による区別まで行われるようになった。
幕府は宗教行政を行う元締めとして、寛永一二年初めて寺社奉行を置き、各藩にもこれにならわせた。また、命令を受領してこれを寺院に伝える触頭が各宗派ごとに置かれ、江戸にある各宗の有力寺院がこれにあたったが、その名称は触頭に限らず宗派によって僧録・録所などと称した。なお、地方の場合は、宗派ごとに触頭を置く場合と、宗派を問わず領内の全寺院を管掌するものとがあった。ちなみに、この制度は、すでに戦国大名の領内で実施していたのを踏襲したものである。
さきに記したように、秀吉による検地以来寺領の没収と統制は次第に強化されたが、寛永一三年以来、たびたび主要寺院に寺領安堵の朱印状を発し、慶安元年以後これを諸国の寺院に及ぼした。
宗門改めと寺請制
信長は旧仏教勢力に対抗するためキリスト教保護政策をとった。すなわち、永禄一一年(一五六八)京都に南蛮寺(もと永禄寺)を建て、翌一二年ルイス・フロイスに京都在住と布教を許したのがそのはじまりで、それ以前からの西国のキリシタン大名の布教による成果とあわせて、天正一〇年(一五八二)には国内のキリスト教徒は一五万人に達したといわれる。秀吉は一転して禁止政策をとり、天正一三年京都の南蛮寺を破却してキリスト教を禁じ、同一五年にはバテレン追放令を発し、宣教師を国外に追放した。それは神仏を認めないキリスト教を禁圧し、神道と仏教による封建倫理を確立するためであった。
慶長五年の関ケ原の戦いの勝利によって権力を握った家康は、翌六年京都所司代板倉勝重に命じてキリスト教を弾圧したが、フランシスコ会など三教団の積極的な布教もあって、かえって長崎を中心に信徒を増し、慶長一〇年宣教師らの本国への報告によると、日本における信徒は七〇~七五万人であったという。その後もますます盛んになる形勢に、秀忠は崇伝の献策を入れ、同一七年には直轄領においてキリスト教を禁止、京都の会堂を破壊するなどの禁圧を始め、翌一八年にはキリシタン禁教令を全国に発し、これより本格的な弾圧が始まり、翌一九年から諸国でも実施された。その後引続き各地でキリシタンの処刑や追放が繰り返されたが、寛永一二年にはキリスト教厳禁令を再び発し、寺社奉行を置いて徹底を期することになった。島原の乱が起こったのはその翌々年であり、その直後からいわゆるかくれキリシタンの探索と摘発は厳重を極めた。そして、宗門改役の管轄のもとに宗門人別帳の提出を求めることになったのは寛永一七年のことである。
宗門改の初めは寺請制であった。慶長一七年京都で始まり、翌年全国に及んだ禁教令により、キリシタンでないこと、キリシタンより改宗した者であることを寺院が証明するものであるが、土地によってそれに代わった庄屋が証明する俗請もあり、証文を手形または切手とよんだ。これが全国的に行われるのは寛文年間(一六六一~一六七二)のことであるという。
一般に直轄領とキリシタンの多い地方でまず実施し、各藩における実施はそれに遅れてまちまちであり、寛文年間に入ると、宗門改がすすむにつれて寺請制度が一般化したわけである。すなわち、寛文四年には各藩に宗門改専任の役人を置き、代官の下にも専任の手代を置かせ、同一一年には宗門改めの方法を明示、各戸ごとの人別年齢と宗旨を記載して戸主が捺印、僧侶がこれを証明、さらに一村ごとに男女別統計をのせ、前年度に比して男女別の生死、結婚による増減、奉公人の出入りなどの増減を明らかにさせた。これがいわゆる「宗旨人別帳」または「宗門改帳」で、根本はキリスト教対策であった。さらに、同一三年には報告の義務を隔年としたが、八年後の延宝九年には再び毎年提出に改められ、下って享保八年(一七二三)には、毎年の提出のほか、六年ごとに子の年と午の年に作成するよう改められた。いわゆる大改めであり、その実施は各藩によって必ずしも一定していなかったようである。なお、天明期(一七八一~一七八九)になると、さきの寛文以来の一戸単位の記載内容から、五人組単位の記述に変わり、明治まで及んだ。
なお、幕府はキリスト教とともに日蓮宗不受不施派ならびにその一派としての悲田派を弾圧、宗門改めをこの弾圧に利用したが、この不受不施派についてはさきに記したとおりである。
伊予における宗門改
伊予におけるキリシタンの状況については必ずしも明らかではない。天文一八年(一五四九)に来日したイエズス会のザビエルは、翌年は山口の大内氏、翌々年には豊後の大友氏の帰信を受け、領内に布教、さらに、天正元年には宣教師カブラルにより山口に、同三年大友宗麟の帰信によりガブラルによる豊後の布教は大いに進められた。その当時の伊予はこうした大内・大友二氏の影響を大きく受けていたから、その影響で布教が行われたとみられる。また、天正一三年の秀吉の四国攻めで伊予を征圧した小早川隆景の治世は短期間であったけれど、翌一四年、その保護のもとにルイス・フロイスは伊予に布教、道後に教会堂ができた(日下部正盛「伊予における宗門改めについて」『伊予史談』二一〇・二一一号)。
さきに記したように、宗門改めは毎年行うのが原則であるが、寛文一三年から報告の義務が隔年ごとになり、延宝九年からは元に復し、また、享保八年からは、子と午の歳に、すなわち六年ごとに大改めを行うことになった。こうした幕府の命令を受けて、各藩でいつから始めたかは明らかでないが、一般には、大洲藩の場合に「寛文の頃より以来年々の帳面」が寺社奉行のもとにある(安永六午文書)とあるのと同様であろうが、宇和島藩では元禄九年(一六九六)以来という(不鳴条)からかなり遅れている。また、大改めについては、披見できた松山藩の記録では、幕府の命令どおり子と午の歳に行っていない。安永六年(一七七七)は酉歳であったが、翌年戌歳が大改めにあたるところ、一年繰り上げて行ったということであり、寛政九年(一七九七)には、翌年の午歳が大改めであるのを一年繰り上げたとあり(松山藩法令集)、おおむね六年ごとに実施し、ある時期には午歳にも実施したが、必ずしも幕府の指令どおりではないし、大洲藩では、「七八ヶ年二一度ツ、」大改めをしたとあるが(寛政七年乙卯御触)、天保三年(一八三二)から万延元年(一八六〇)まで四回の大改めは六年ごとであるなど一定していない。
また、大改めが平年の宗門改めと異なる点は何かについて、大改めには格別の通知をするが、小改め年には特に触れないこと(明和三年、松山藩法令集)とあるが、大洲藩では必ずしもそうでなかったらしく、小改め年の指令書控えも残っている。両者の相違は、大改めの場合、大改め奉行が領内をくまなく回るため、改め場のこと、受け入れのための人足、宿泊所、賄いのことなどが見えることで、結果として提出し検閲を受ける文書については、小改めの場合と基本的に変わりはない。ただ形式上は冒頭に「神文」と称する誓詞がっき、庄屋・組頭の血判が確認された点くらいであろうか。神文というのは、たとえば大浦村における享和二年(一八〇二)の「宗門御改起請文」というのがそれで(中島町誌史料集)、はじめに、当村中の宗門について委細吟味したところ、切支丹ならびに転宗者、不受不施派ならびに悲田宗の者は一人もいなかったことを記したあと、一時の逗留者については手形を確認、宗旨の疑わしい者はたとえ親類縁者でも逗留させてはならない、もし隠し置く場合は曲事として庄屋・組頭・五人組は処罰を受けることなどをきっと仰せっけたことを述べ、最後に、家数・人数については一人も隠すことなく銘々の宗旨を記しており、相違はありませんと述べたあとに、梵天帝釈四大王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、ことに伊豆・箱根の両所権現、三島大明神・八幡大菩薩・天満天神その他の神罰・冥罰にお誓いしますという起請文で結んでいる。
この起請文はまた神文ともいわれ、全国共通のもので、そのあとに宗門帳と宗門手形のことが指示されている。その例として、披見できたものの中でいちばん詳細なのは天保一四年(一八四三)の大洲藩関係の「宗門大改仕成帳」(愛媛県立図書館蔵「西原文庫」)である。これによると、神文のこと、宗門改め奉行の領内巡回に関することを述べたあと、宗門帳と宗門手形による確認のことを実に詳細に記している。これらのことは、大改めにあたって詳細に指示したのであって、その内容は毎年の宗門帳や、平素の宗門手形による確認事項と同様である。
大洲藩においては、毎年正月晦日を提出期限とし、松山藩では、これまで四月一五日を期限としたのを、安永九年(一七八巳には三月中旬までと改めており、各藩まちまちであった。提出された改め帳は藩の宗門役所で保管、村では控え帳を村役人が保管し、それをもとに毎年の出入り、増減によって更新していった。後期の改め帳は五人組ごと、一宗一帳にまとめられた。また、この改め帳には、前年度人数に対する増減を記した「宗門御改増減村中召仕帳」(安政四年、伊豫市上吾川の例)が添えられた。本門・家子門・社家門別の軒数と人数の総計をあげ、増人としては、出生・縁組・奉公などによる増加を、減人としては、死亡・縁組・出稼奉公などによる減少を示し、名前を記した。
こうした統計のもとになるのは、出生と死亡は別にして年間その都度に発行した宗門手形である。手形は大別して送り手形と請取り手形に分けられ、共に養子・縁組み、出稼ぎ奉公による転出・入の場合、さらに例外的に流罪の場合など、檀那寺または庄屋が発行し、委細の内容のあとに宗門の証明をしたものである。手形にはこのほか往来手形、その一種としての遍路手形があり、多くは伊勢・金毘羅・宮島などへの神社詣り、西国・四国巡拝などの寺院巡礼のためのもので、その事由とともに檀那寺が保証をして本人に持たせ、関所や番所にあてだものであった。さらに細かくは一時逗留者の取り扱いがある。手形を所有する逗留者は別として、手形のない者については厳重に取り調べの上記帳して報告した。庄屋のもとではこうした日々の増減が記入され、月改めが代官のもとでなされて、最後に宗門担当奉行で改められるのであった。
こうした宗門改めを行った直接の動機はキリシタンの断圧にあったが、これとは別に、各藩では町や村に高札を掲げてキリシタンの禁制を伝えるほか、褒美を出して密告を奨励した。ところが、こうした取締りの結果を示す古文書はほとんどなく、実態を知るにはほど遠いが、明暦四年(一六五八)の『契利斯督記』に載せる「吉利支丹出申国所之覚」に、松平隠岐守領分、松山より宗門二三人(うち侍一人)、加藤出羽守領分なし、伊達大膳大夫領、宗門二三人とあり、松山と宇和島の「二三人」を「二、三人」とするとわずかであり、大洲藩では宗門が一両人も出なかったとあるのに対し、「宇和島御記録」の寛文一二年の記録には、「大洲御領分切支丹六百人余、前々より隠置者アリト密訴スル者有之」と、隠れキリシタンの多いことを示唆しているなどの例がある(「伊予における宗門改めについて」)。また、宇和島藩には貞享五年(一六八八)の「伊予国宇和島領転切支丹類族存命牒」以下具体的な記録が残っている。ここにいう「転切支丹」というのは、キリシタンからの転びの者(転宗者)のことで、「転切支丹」として五人の氏名と一族の名まであげ、転宗の事情とその後の状況を記して、いわば今日の保護観察の資料にしており、また、「切支丹類族系図」(享保五年=一七二〇)には、類族七九人の系類を明らかにしている。その後の「切支丹宗門類族改方御証文案」によると、毎年の宗門改めには、転びの者の死亡を確認し、類族の行跡を吟味していることがわかる。
こうした宗門改めは、明治四年の戸籍法改正まで続けられたが、このことでも明らかなように、当初は主としてキリシタン断圧の方策であった宗門改めが、江戸時代中期以後は実質上戸籍調査になり、貢納の確保のためにも利用された。
寺檀制度
宗門改めの基礎は寺請けにあった。寺によって檀家の者であるということが確認され、キリシタンでないことの保証になった。また、人口移動を証明する送り手形や請取り手形をはじめ、往来手形に至るまで寺請けが基礎である。こういうことになると、公認された宗派のいずれかの寺院に所属しなければならず、やがて一家眷族をあげて一寺の檀徒にならざるを得ないようになる。
慶長一八年に仮託して作ったといわれる「宗門寺檀那請合の掟」(徳川禁令考)の内容は、住持が檀家を吟味して邪宗徒でないと判断する基準のようなものを示している。すなわち、頭檀那といえども、祖師志・仏忌・盆・彼岸、先祖の命日などに参詣しない者、先祖の仏事を他寺に依頼する者などを吟味しなければならぬと言っており、おそらくこうしたことが全国の寺院で念頭に入れられて吟味していたものと思われる。また、この掟には、仏法について勧談し、講経などを通じて檀家と交流し、寺仏用の修理や建立をすすめ、死亡の場合は一切の差図を宗門寺より受けなければならないこと、先祖の仏事は必ず檀那寺で行わなければならないという意味のことが書かれている。すなわち、葬儀、祖先の供養、寺院で行う法会や講経、寺の修理や建立などが寺檀結合の要素になっていたことがわかる。
一度自分の寺を選んだ檀那は、寛文五年の法度までは寺を変えることが認められていたが、享保七年と同一四年、相ついで禁止され、寺檀制度は強化された。
一方寺院は、これまでにつづいて万治二年には新寺院の建立が禁止されて新しい寺院が破却整理されると、それまでの末寺帳の提出による本末制と相まって、寛文のころになると、寺院と檀家の結びっきはほぼ固まってきた。また、寛文五年の法度によると、まだ檀那寺選択の自由は認められているが、家族は戸主の宗教に従ったであろうし、それに隷属する召使いや下人はもとより、本百姓に従属する小作人とその家族までもそれに従ったであろう。しかし、松山藩侯家にもその例があるように、日蓮宗や浄土真宗の信徒のように信心堅固な場合、嫁に来た者が家の宗旨に従わず、一家二宗旨や一家二寺ということになると、ここに寺請けの責任をもつ寺側が困り、ひいては宗門改めにも混乱が生じるので、ずっと下って天明八年(一七八八)一家一宗に統一された。
また、寺院と僧侶に対しては、寛文五年の寺院法度により各宗とも共通の規制を受け、享保七年の諸宗条目によってさらに細かい統制が加わり、また、宗門改めとともに寺社堂庵の調査が行われ、本末制、寺格・僧階制などの下における寺院・僧堂ならびに僧侶への規制整理がたえず行われた。
こうして、宗門改めを動機に成立した寺檀制度は、仏教界の安定と幕藩体制の確立に寄与したが、同時にこのことは固定化を意味し、統制の下で信仰の自由が失われ、仏教の沈滞と腐敗をもたらした(日本仏教史Ⅲ近世・近代篇)。