データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)
こ
小池 九蔵 (こいけ きゅうぞう)
寛政11年~没年不詳(1799~)宇和島藩士で農政家。幼名直太郎,文政2年九蔵,嘉永5年市太夫と改名。文政9年父市太夫が死亡し,家督234石2斗を引き継ぎ虎の間に出仕。小姓勤に始まり,作事奉行,元締役,番頭助,船奉行その他を歴任する。天保9年藩命により佐藤信淵に師事し,同12年まで経済学を修業した。その間,江戸払となり生計に苦しんでいた信淵に,宗城からの下賜金を与えたり,また彼に著述をうながして宇和島藩に提供させるなど,藩と信淵との連絡役をも勤めている。藩へ提出された信淵の著書には,藩のために書かれた『責難録』のほか『弊政改革秘話』『培養秘録』『種樹園法』などがある。信淵のもとを去ったのちも,しばしば音信はあったようで,師に対する濃やかな心づかいが感じられる。天保14年信淵より指導を受けた農法を試すため,約7反の田を与えられ,その計画書を提出している。その見積もりの結論はやや悲観的ではあるが,厩肥や干鰯を肥料とし,牛耕,籾の薄蒔き,裏作としでの麦の栽培などを計画している。また,同じく信淵門下であった若松総兵衛と協力して人参栽培の指導奨励にもあたっている。
小池 政市 (こいけ まさいち)
明治31年~昭和55年(1898~1980)竹細工師。松山市生まれ,竹とつき合って60年,愛媛の竹工芸に光を掲げた竹細工界の長老であり,名工である。小学生ころから,田に行かず,竹を編むのに熱中し,卒業後一時師匠について「六つ目くずし」を修得する。小池はこの六つの目を編んで,それをつづっていく「六つ目くずし」と,目を一つひとつ拾いながら,柄模様を編み込む「網代編み」が得意で,この二つが互いにからみ合い,それぞれに優美な曲線を描いてみごとな調和を示す。愛媛の竹工芸は聖徳太子が道後温泉に来湯し,付近に竹林の多いことから住民に竹細工の技法を授けたことに始まると言い伝えられている。この長い歴史を背景に藩政時代は松山藩士の余技として伊予に息づいたものであるが,現在は土産物として,個性豊かな工芸品として伝統産業の一翼を荷っている。「1日も竹を忘れたことはない」小池に対して,昭和53年「現代の名工」として労働大臣賞,同54年松山市民表彰が贈られる。昭和55年6月22日死去, 82歳。
小岩井 浄 (こいわい きよし)
明治30年~昭和34年(1897~1959)弁護士・社会運動家で第1回普通選挙に愛媛から無産政党候補者として出馬した。明治30年6月4日長野県東筑摩郡島立村(現松本市)で生まれた。松本中学校・第一高等学校を経て大正11年東京帝国大学法学部を卒業した。中学時代から学生運動を指導,東京帝国大学でも「新人会」の活動分子であった。弁誰士を開業して日農の顧問弁護士を務めた。一片共産党に入党,のち労働農民党に加わり,昭和3年の第1回普通選挙に愛媛2区から立候補,林田哲雄らの日農を主体に高須峯造らの支援を受けて善戦した。赤色分子としてしばしば検挙投獄されたが,昭和15年上海に渡って上海経済研究所副所長,東亜同文書院教授などを経て終戦後帰国した。 21年私立愛知大学を創立して30年学長に就任した。昭和34年2月19日61歳で没した。
小谷屋 友九郎 (こたにや ともくろう)
寛政12年~明治8年(1800~1875)郡中十錦の創始者。寛政12年,郡中灘町(現伊予市)の代々薬種商を営む小谷屋に生まれる。号は坤斉といい,天保初期までは楽焼に熱中していたが,十錦焼に移行した。十錦は中国製上絵の十錦手に模したもので,上絵具を厚く塗り,その上に唐花などの釘ぼりをして焼いたもので,その高尚で精密な手法による作品は,人々から珍重愛好された。友九郎独特の焼き物でだれも模倣し得ない作品十錦は,天保後期から幕末,更に明治初年まで30数年の長きにわたって焼き続けられ,その中,嘉永から文久年間がその最盛期であったという。明治8年9月,75歳で没し,伊予市光明寺に葬られている。
小波 軍平 (こなみ ぐんぺい)
明和7年ころ~安政3年(1770ころ~1856)幕末の藩政改革を進言した宇和島藩士。伊藤大膳の次男として生まれる。幼名良太郎,実名嘉膳のち軍平と改めた。隠居して鶴翁と称した。安永8年(1779)小池司馬の養子となり,家督133石6寸を継いだ。児小姓にはじまり京都詰,長柄頭,近習,元締役,浦奉行,鉄砲頭,勘定本行,弓頭を歴任あるいは兼務している。文化9年(1812)の萩森騒動は藩内にかなりの影響を与え,これを機会に藩財政の再建案が真剣に考えられるようになった。軍平は再三の改革案を提唱しているが,根本は倹約や借上などの消極策を否定し,積極策に転じようというものであった。第一に農漁業を振興すること。そのためには藩が技術指導をしてやることである。現に日振島では焚き寄せの漁法が成功しているのに,他の浦では知らないなどの現状がある。第2に副業を奨励する。特に製紙を勧め,楮元銀の弊害を説いている。第3に検地の必要性を説き,これによって相当量の新田畑が検出できるとし,さらに正銀の藩外流出問題を説いている。これらのうち検地だけは実行に移された形跡がある。しかしそれも河原淵組だけで中止されている。そのため軍平の進言は続けられている。文政11年(1828)勘定奉行・元締兼帯,町奉行加談となる。藩主はすでに宗紀となっていたこの年,銀札発行額を3,000貫以内とすることを提案。生産力に過ぎた銀札発行は,生活の騎奢,貧富の差の拡大,他国よりの移人品を増やし,ひいては藩財政を窮迫させているという論旨である。これらの改革案は宗紀の時代に推進されている。また彼は按摩の技術にもすぐれ,宗紀の子供達を療治して,裃と感謝の直言を受け,隠居後は弟子を指導しているようである。天保8年(1837)子息の友弥(のち軍平)に家督を譲り隠居。安政3年死去。墓は泰平寺(現宇和島市)にある。
小西 喜佐太 (こにし きさた)
慶応3年~昭和9年(1867~1934)酒造業・県会議員。慶応3年8月6日,宇和郡向灘浦(現八幡浜市)で田中平十郎の子に生まれた。矢野崎村長田中徳太郎は実兄である。明治28年6月南宇和郡東外海村で酒醤油醸造業を営む小西家(岩松小西家の分家)に養子入籍した。明治44年9月~大正4年9月県会議員に在職,政友会に所属した。また村会議員・郡会議員も歴任した。昭和9年11月27日67歳で没した。
小西 左金吾 (こにし さきんご)
明治12年~昭和16年(1879~1941)愛媛県における真珠貝養殖並びに真珠養殖業の創始者である。
明治12年10月11日,北宇和郡岩松村(現北宇和郡津島町岩松)で父久太郎,母マヨの長男で,岩松の大地主小西家の分家に生まれる。幼少にして父と死別し,母との孤独な生活を続けた後,長じて宇和島中学校に入学したが,さらに東京府立開成中学校に転じ,以後熊本第五高等学校を終えて京都の同志社に学んだ。明治39年南宇和郡内海村長崎(現御荘町長崎)を永住の地と定め,第二十九銀行平城支店長として金融界に身を投じ業界発展のため尽力した。同年夏のころ集落の若者達が地先の湾内で採取したあこや貝の一つから輝く小さい玉を発見し,左金吾に見せた。この珠をいくらか集めて上京の機会に銀座の宝石商に持参して鑑定を受けたところ,これが世にいう天然の真珠であることがわかると同時に莫大な値段で買い取られた。このことがあってから左金吾は真珠を人工的に生産することを思いついた。真珠王として名高い御木本幸吉が三重県神明村で真珠養殖の研究を始めたのが明治23年,その後26年に半円真珠を38年に真円真珠を生産することに成功し,翌40年には元農商務省技師の西川藤吉によって真珠生産の原理が解明された。左金吾は明治40年5月真珠の研究にとりくんだが,当初は三重県から海女を数名雇い入れて海底のあこや貝を採取し,この中から天然の真珠を捜す程度のことであった。このため海女借用を県に願い出たため,衆目を集めることとなり,われ先にあこや貝を採取し始めたため,県は資源保護の観点から県令を発してその採取を禁止したほどであった。明治42年左金吾は銀行の径営不振と豪放な事業方針のため他から思わぬ禍を受けて平城支店長を辞任した。この年平山の庄屋実藤道久,御荘村和口の中尾定吉と3人で「小西真珠養殖所」を開設し,同年11月内海浦漁業組合と真珠養殖漁業権の貸借契約を結び平山で真珠養殖に本格的に取り組んだ。初めは半円真珠の研究からスタートしたが,事業は容易には進まなかった。左金吾は大正2年西川藤吉の高弟であった藤田昌世を地元に招へいして指導を受げたりして事業に励んだが,事業経営不振のため解散した。そしで同年4月新たに予土水産を設立したが,大正2年に施術したものを2年後の4年に浜揚げしたところ真円真珠が確実に生産され,ここに本県における真珠養殖は一応の成功をみることができた。これがピース式と呼ばれる養殖方法で三重県に先がけて本県で初めて真円真珠の生産方式が確立されたのである。大正9年1月南海物産株式会社と合併し社名を予土真珠株式会社とし,事業の規模拡大を図ったが,同年8月同社養殖場の一つであった高知県宿毛一円は大洪水となり同社の養殖筏はすべて流失したため養殖不能となり会社は倒産した。ここに小西左金吾の夢は消え,近在稀れな家屋まで人手に渡り宇治山田に移住し,昭和16年9月27日61歳でこの世を去った。しかしながら同氏の真珠産業への異常なまでの意気と熱が今日の愛媛の真珠生産を全国一の地位とした。
小西 定吉 (こにし さだきち)
安政3年~大正元年(1856~1912)安政3年11月22日大洲市鉄砲町で生まれる。幼時より家業の鍛冶屋や蹄鉄工(装蹄師)を習い覚え,貧しく慎ましい生業の中にも精進怠らず,産をなし名を上げ,しかも業務の余暇をみつけて,当時伯楽とか馬医と呼ばれた獣医を志し,師匠について牛馬の治療術を修業し,書物によって病気の種類や治療薬などについて習得し,所謂馬医をも職業とした。明治18年の獣医開業仮規則により免許鑑札の交付を受けて獣医となり,近隣の牛馬の診療に従事すると共に,牛馬の飼育の奨励に資質の改良に真摯な努力を傾注したので,地域の畜産業は大いに振い大洲市の油木の家畜市場も次第に繁盛するようになり,名が高まって畜産農家の稗益するところ誠に大であった。またこの外多忙の身にもかかわらずそれぞれの大家に師事して,弓道・馬術柔剣道などの武術を修め,その研究にも余念がなかったので,諸術に通じ,ためにその教えを請う者が非常に多く,門前市をなす繁盛が続いたという。惜しむらくはこれからの大成を見ずして大正元年8月4日55歳で夭折。没後2年目の大正3年各地の畜産有志相はかり大洲城三の丸に記念碑が建立された。
小西 荘三郎 (こにし そうざぶろう)
元治2年~大正11年(1865~1922)実業家・県会議員。元治2年4月2日,宇和郡岩松村(現北宇和郡津島町)で素封家小西家の9代当主に生まれた。幼名金吾次郎。明治12年4月15歳で相続,荘三郎と改めた。家業の清酒浪造・製蝋業を営む傍ら,明治25年3月県会議員になり,29年3月まで在職した。 27年伊予物産会社,33年岩松銀行を創設して社長・頭取になり,第二十九銀行・宇和島銀行・南予運輸会社・宇和島製紙会社などの取締役を歴任した。県下有数の資産家で,貴族院多額納税者議員互選人であったが,多額の私財を村の発展に投じ,また日本赤十字社・大日本帝国軍人遺族救護議会に協賛して社会事業に尽し,多くの表彰状を受けた。実業家・県会議員の小西萬四郎は分家であり,両小西家で岩松町の財源の過半を賄なったといわれる。大正11年8月13日57歳で没した。
小西 惣三郎(五代) (こにし そうさぶろう)
安永元年~文政5年(1772~1822)宇和島藩岩松村(現津島町)の豪商。幼名政吉,通称惣三郎,諱は次名。安永元年小西家三代久八の三男として生まれ,寛政12年(1800)兄安太郎の跡を継いだ。同年,御目見,苗字帯刀御免,扶持も以前のとおり5人扶持を給され庄屋格の家格を継承した。
小西家は,貞享元年(1684)初代惣兵衛が岩松に酒造業を開設したことに始まる。三代久八の時苗字帯刀を許され,質商も開始し,御荘でも酒造業をはじめた。四代安太郎の時,御目見・庄屋格式が許され,新田開発にも着手している。
五代惣三郎の代にはさらに家業が拡張された。文化元年(1804)には製蝋業を許可され,のちには蝋座頭取を務めている。翌文化2年には長崎新田(現御荘町)開発の許可が下り,同4年には兄安太郎が着手した江湖新田(現御荘町)も完成した。その間,凶作で鉄人が出る状況であったので,人夫に過分の米を支給し,損得を度外視して飢人救済第一に新田開発をすすめたという。また藩のきもいりで完成した近家塩田(現津島町)は,その建設によく協力したということで,同4年小西家に下賜された。こうして同家は,酒造業・質商・新田開発とその経営・製蝋業・製塩業を営む豪商となった。文化13年(1816),藩が東海道筋河川改修の御手伝普請を命じられた時,金1500両を献金し,その褒美として中之間御取扱となり,外笹の裃を賜っている。このほか,その財力で度々の献金あるいは地域の賑恤を行っている。
文政5年3月4日岩松で没。行年50歳。臨江寺(現津島町)に葬られた。
小西 英雄 (こにし ひでお)
明治44年~昭和39年(1911~1964)衆議院議員・参議院議員。明治44年11月23日,新居郡神郷村(現新居浜市)で生まれた。別子銅山の労働者になり自彊舎で鷲尾勘解治の薫陶を受け,優秀工員として満州に派遣された。のち独立して康徳金属会社を興し,戦時中は関東軍嘱託,軍需省生産隊本部長を務めた。戦後,昭和24年1月の第24回衆議院議員選挙に第2区民主自由党公認で立ち当選したが,27年10月の選挙では落選した。 31年1月京都地方区の参議院議員補選で当選,31年7月全国区3年議員,37年7月の参院選挙に再選されて国会議員を続けた。その間,参議院決算委員長や北海道開発庁政務次官などを歴任して,郷土のため東予新産業都市実現にも努力した。日本商事・東洋興産各社長と東急航空取締役に就任する傍ら,引揚者団体全国連合会顧問や日本重量挙協会会長を務めた。昭和39年12月8日53歳で参議院議員現職のまま没した。
小西 萬四郎 (こにし まんしろう)
明治14年~昭和21年(1881~1946)実業家・県会議員。明治14年3月26日,西宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)で山本勘平の子に生まれ,北宇和郡岩松村(現津島町)の素封家小西家に養子に入た。明治41年前戸主萬四郎死亡により襲名して家を継いだ。宇和島中学校を卒業して家業に従事,御荘銀行取締役,大洲銀行監査役,宇和島工業会社社長,宇和島製糸会社取締役,宇和島薪炭会社取締役,愛媛県農工銀行監査役などを歴任した。貴族院多額納税者議員互選人で,町会議員・郡会議員を経て,大正11年6月~12年9月県会議員に在職した。昭和21年3月9日64歳で没した。
小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ)
天文2年~慶長2年(1533~1597)伊予国最初の近世大名。毛利元就の第3子。安芸国郡山城で生まれる。幼名徳寿丸,長じて又四郎。天文13年同国竹原小早川家を,同19年同国沼田小早川家を合せ継いだ。兄古川元春とともに父元就の勢力拡大に努力し,父没後甥輝元を助けて,両川とよばれた。毛利氏の勢力が山陰・山陽の大半と北九州の一部という広範囲に及んだのは,両川の活躍によるところが多い。天正10年秀吉の備中高松城攻囲に対して,兄元春とともに毛利勢として対陣し,本能寺の変の突発により秀吉が和議を申し出,急ぎ軍を引き返した際,この機に乗じ秀吉を追撃しようという意図もあったが,隆景はこれを退げた。秀吉はこの処置に感動し,以後両者は提携するようになったといわれる。天正13年(1585)秀吉の四国平定戦では,隆景は,中国勢約3万を率いて伊予に進攻し,7月末河野氏の本拠湯築城を攻略,伊予全土を平定し,城割策を断行し権力の集中を図った。8月伊予平定の功により伊予一国一職35万石を与えられた。同15年には九州平定の戦功により,筑前国名島へ転封となり,伊予を去った。同18年秀吉の小田原征伐の成功は,隆景の献策によるといわれている。文禄元年の朝鮮出兵には,第6軍主将として1万人の軍勢を率いて半島各地で戦い,特に翌年正月明将李如松の大軍を碧蹄館で撃破した。同年帰国。同4年には秀吉の猶子秀秋を後嗣として全領を譲り,備後国三原城に隠居後,慶長2年64歳で没,米山寺に葬る。晩年は参禅を怠らず,儒学を好んだ。隆景の「おもしろの…」にはじまる壁書9か条はその人となりを表している。
小林 一茶 (こばやし いっさ)
宝暦13年~文政IO年(1763~1827)俳人。別号,菊明・圯橋・俳諧寺・阿道など。宝暦13年5月5日信州柏原に生まれる。3歳のとき母を失い,養母とは折り合い悪く,14歳のとき江戸に出,葛飾派の二六庵竹阿に俳諧を学び,その没後二六庵を継ぐ。寛政4年(1792)京阪・四国・九州方面へ俳諧行脚をし,享和元年(1801)帰郷中父親は没した。文化5年(1808)祖母の33回忌に帰郷,江戸に帰り,『七番日記』に着手。文化10年義弟仙六との紛争解決し帰郷。 52歳で妻を迎えたが,三男一女にも次々と死別,再縁の妻とは離別し,また文政10年夏火災に遭い,焼け残りの土蔵で再度中風発作,不遇な生涯を終え,文政10年11月19日没,64歳。
一茶の伊予紀行は2度。寛政7年(1795)32歳のときに,師竹阿の「其日ぐさ」をたよりに,十六日桜を見る目的で,1月8日讃岐の観音寺を発し,土居の山中時風,新居浜の高橋騎龍,波止浜の花雀,北条の高橋五井・門田兎文,15日松山の栗田樗堂らを訪ね,16日十六日桜を観,百済魚文邸で正風三尊幅(其角門の藩家老久松粛山の求めに応じ,狩野狩雪の画に,芭蕉・其角・素堂がそれぞれ賛をした三幅対)を見て驚き,一茶はこれに添書した。道後温泉の外湯を楽しみ,帰路は三津小深里・実報寺・前神寺・沢津・田上・土居・三島・三角寺・川之江の諸風土を訪ね, 2月28日讃岐観浦着。大坂・堺までの自筆の『寛政七年紀行』仮称(『西国紀行』ともいう)に認め,同年刊『旅拾遺』には,伊予24名の作を載せている。同8年初秋から同9年春の間,一茶は伊予路に再遊,松山城下の月見会で阿道と号した表六句を兎文に贈り,樗堂と歌仙を巻き(『樗堂俳諧集』),春送別句を贈られ(『さらば笠』),帰京し,「連句稿裏書」にも予州俳人句を,文化11年には江戸俳壇引退記念集『三韓人』の巻末に樗堂の書簡を載せて追悼,敬慕の情をあらわしている。伊予で山麻呂・新羅房・阿道・亜堂などの別号も用い,県内に一茶句碑12基ある。
小林 西台 (こばやし せいだい)
生年不詳~嘉永7年(~1854)本名は良休,字は鳴春,文きといい,岳陽の号がある。西条藩主松平頼学の幼少時から身辺の世話役にあり,文政12年藩命により,御用絵師として取り立てられる。藩主は歴代領地に赴かず,江戸に定府する特別の処遇にあったため,西台石生涯のほとんどを江戸で送っている。大洲藩絵師若宮養徳の門人とする説もあるが,経歴はほとんど不明である。しかし作品は西条地方を中心に数多く残っており,「花鳥図」「寒山拾得」など狩野派の伝統にもとずく画題が多い。江戸木挽町狩野派に学んだと思われるこれらの作品は,都会風で瀟洒,温雅で,他流派の台頭著しい天保期にあって,なお自己の画流を素直に守り通したもので,西台の気質がしのばれる。嘉永7年2月9日病死。出生年を,寛政6年とする説もある
小林 信近 (こばやし のぶちか)
天保13年~大正7年(1842~1918)県会議員・議長・衆議院議員,第五十二国立銀行頭取,伊予鉄道を創立するなど愛媛県政界・経済界の先覚者。天保13年8月28日松山藩士中島包隼の次男に生まれ,嘉永6年11歳のとき小林信哲の養子となった。万延元年藩主松平勝成ついで嫡子定昭の小姓役を拝命,幕末,定昭に従い松山・京阪と国事に奔走した。明治3年7月松山藩少参事, 5年・石鐡県官吏を務め,6年2月愛媛県誕生とともに依願免となった。6年陶器製造業を営み,9年旧藩士の委託により奥平貞幹らと牛行舎を起こし士族授産事業として製織・製靴を営んだ。10年には松山米商会社を設立して社長になった。10年5月特設県会の議員に選ばれて初代議長に任じ,同年9月には加藤彰らと第五十二国立銀行(現伊豫銀行)を設立して初代頭取に就いた。こうした多忙のとき県令岩村高俊から懇請されて再三辞退の後11年12月和気・温泉・久米郡長になり郡治に尽したが, 13年7月岩村の後任関新平により香川郡長に転任を命ぜられたので郡長を辞任した。 14年県会議員に復帰,15年9月県会議長に選ばれて以後21年4月までこの職にあった。この間,15年商法会議所会頭として商工業の発展に努め,「海南新聞」(現愛媛新聞)の経営に参画, 21年には伊予尋常中学校(現松山東高校)の経営に当たるなどすべての面で愛媛を代表する人物として活躍した。 20年伊予鉄道会社を創立して初代社長に就任,中央の役人からは「狂気の沙汰」と言われ,地元でも株式募集をはじめ多くの難関があったが,これを乗り越えて21年10月三津一松山に我が国最初の軽便鉄道を走らせた。以後,高浜・横河原・森松方面に線路を延長,松山とその周辺発展の土台を築いた。政界では藤野政高の画策で先輩上士の鈴木重遠に県会議員の座を譲ったが,この出来事を機に鈴木・藤野ら自由党系と対決する改進党系豫讃倶楽部を高須峯造らと結成, 22年1月県会議員に復帰して議長に選ばれ,23年には松山市会議員・議長をも兼ねた。初代松山市長に第1位で推挙されたが,伊予鉄道経営多忙の故をもって辞退した。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙では鈴木・藤野に敗退したが,25年2月の第2回衆議院議員選挙で当選した。しかし27年3月の第3回衆議院議員選挙で再び落選し,以後政界を引退,更に32年には伊予鉄道会社社長も退いた。政財界の中枢を退いた後も事業企画の熱意は衰えず, 40年伊予電力綿布会社,44年鞍手軽便鉄道会社などを起こしたが,ことごとく失敗して居宅など資産を手離す結果となり,借家住いの晩年を過すことになった。大正7年9月24日76歳で没した。遺骸は松山道後常信寺に葬られた。後輩の井上要は,「翁は政治上社会上の地位に安着するを好まず,常に興味を以て新事業の開発に志し……」と評した。
小林 儀衛 (こばやし よしえ)
明治9年~大正8年(1876~1919)「南予時事新聞」創刊者。明治9年宇和島町元結掛(現宇和島市)で鮮魚商の家に生まれた。大和田建樹に師事して,明治35年3月5日小型新聞タブロイド判の「南予時事」を発刊した。39年財界人と共同経営で紙面も中型に改め, 43年には株式会社に改組して社屋を丸之内に新築した。大正4年財政上の理由で出資者の顔振れが変わって勇退,松山に転居した。葭江と号し,『南予案内』などを著した。大正8年1月19日43歳で没した。
小牧 昌業 (こまき まさなり)
天保14年~大正11年(1843~1922)明治期の県知事。天保14年9月12日,鹿児島藩士小牧良助の次男に生まれた。幼名善次郎。 15歳のとき藩命を受けて江戸の塩谷宕陰らの門に学び,修学5年の後帰国して藩校造士館の教官になった。元治・慶応年間儒官として藩主の上洛に随行し,維新後朝廷に出仕した。明治2年議政官・行政官試補,小史,権大史に進み, 4年清国に留学,帰国後開拓使に出仕したが,7年,征台の役処理のため渡清した大久保利通に随行,8年には江華島事件解決のため渡鮮の黒田清隆に随行した。その後,再び開拓使に戻り,15年開拓使が廃止されてからは,太政官大書記官,文部大書記官・秘書官,農商務大臣秘書官,内閣総理大臣秘書官・書記官長を歴任した。22年奈良県知事を経て,明治27年1月20日愛媛県知事に就任した。小牧知事が赴任した27年は大水害・干害・疫病に見舞われ,水害復旧と防疫に追われた。日清戦争後政府は軍備拡張と内政充実を目標とする戦後経営を打ち出したので,小牧は29年7月の県会に主要道路・河川の改修,治水のための10か年継続土木事業計画案を提示した。県会はこの案を更に増幅させ6か年に短縮することを要求した。小牧もこれに同意し,事業費76万円の継続土本事業が戦後経営の美名の下に開始された。明治30年4月7日本県知事を免官されて貴族院議員に勅選され,31年11月には枢密院書記官長になった。大正11年10月25日79歳で没した。
小宮山 弥太郎 (こみやま やたろう)
文政11年~大正9年(1828~1920)小宮山弥兵衛の長男として,文政11年10月17日山梨県に生まれる。 15歳から宮大工を志し,その技量は早くから高く評価されていた。明治6年,藤村紫朗が山梨県県令に着任してからは,その推進する殖産振興と教育の普及に応え,次々に洋風要素を採り入れた建築を手掛け,折衷建築の第一人者となった。その作品には同7年竣工の梁木・琢美両学校にはじまり,県勧業試験場・山梨裁判所・山梨県病院・山梨県師範学校(1世)・山梨県庁・師範学校(2世)・山梨県会議事堂(レンガ造)など優れたものが多かった。同18年には山岡鉄舟の求めに応じ,静岡県下の方広寺の伽藍設計も行った。明治20年,藤村県令が愛媛県に転任してからは,その招きに応じて来県し,愛媛県師範学校の新築工事の設計指導に当たった。当時県下には洋風要素の建築は希で,人々は「愛媛の阿房宮」のニックネームを奉り,白亜双塔の近代建築を仰ぎ見た。この建築によって地域の工匠たちは初めて西欧建築技術に接することになり,その後の進歩に大きく貢献することになった。同校の竣工は明治23年9月であるが,同人は5年間本県にとどまったと記録されている。しかし師範学校竣工後の行動は詳らかでない。
その後山梨に帰郷してからは,大工組合を組織しで後進を指導するとともに,諸官庁の工務の監督のほか,多くの社寺の設計にも当たった。大正4年, 84歳にして富士山に登った逸話も残されている。同9年5月,91歳で没す。墓所は甲府市愛宕町の妙遠寺境内。
小森 誠一 (こもり せいいち)
明治37年~昭和46年(1904~1971)生物学者。明治37年7月2日に大洲村若宮(現大洲市)に生まれ,昭和6年,京都帝国大学理学部を卒業。姫路高校教授,神戸大学教授を歴任して昭和43年退官。神戸大学名誉教授となる。研究業績としては,発生生物学の権威として,日本動物学会発生生物学会に所属し活躍をする。昭和46年1月7日, 66歳で没し,従三位勲三等旭日章を贈られる。
小森 経夫 (こもり のりお)
明治7年~昭和17年(1874~1942)教育者・大洲村長。明治7年10月7日,喜多郡五郎村(現大洲市)で岡本茂平治の子に生まれ,のち若宮の小森家を継いだ。私立喜多学校を卒業して上京,東京成立学舎で英語を修めて後,愛媛県師範学校に入り29年卒業した。長浜小学校訓導を振り出しに粟津小学校訓導兼校長,愛媛県師範学校訓導・松山市第二小学校長を経て40年大洲町小学校長として帰郷した。大正4年大洲村小学校長に転じ,以来昭和5年退官に至るまで同校にあって,全校皆泳による神伝流の普及,児童自治会による集団登校などを推進した。この間,教育功績者として文部大臣表彰を受けること3回,大正7年内閣より奏任官をもって待遇され正八位に叙せられ,喜多郡教育界の重鎮として活躍した。昭和6年大洲村長に選任されて大洲町との合併を進め,合併後は町助役になった。勲六等瑞宝章を受け,昭和17年6月10日67歳で没した。神戸大学教授・生物学者の小森誠一は長男である。
古茂田 守介 (こもだ もりすけ)
大正7年~昭和35年(1918~1960)松山市道後祝谷に生まれる。兄公雄の影響のもとで絵をはじめ,19歳で上京,大蔵省に勤務しながら洋画家猪熊弦一郎について絵を学ぶ。昭和15年第5回新制作派展に初入選するが,その後2年を大蔵省財務官書記生として北京に滞在。その間持病のぜん息が悪化,帰松して自宅静養に努める。 25歳の時再び上京,洋画家脇田和の主宰する研究所に通ってデッサンの勉強に没頭する。昭和21年の第11回新制作協会展に「踊り子達」を出品し新作家賞を受賞し注目をあび,又第1回アンデパンダン展でも好評をはくし,朝日秀作展に招かれるなど,新進作家としての地盤を固める。昭和25年の第15回新制作協会展に「画架を配した裸婦像」を出品し32歳の若さで会員に推挙されるが,この頃から独特の清純な詩情をたたえた画面から,更に堅牢で重厚な画面追求に向けて一層の制作意欲をかりたてている。新制作協会で「貴重な異質」として重きをなしてきた矢先,持病のゼンソクに加えて結核をわずらい,アトリエにベッドを入れての制作が続いたが,昭和35年42歳の夏,発作による窒息のため急死する。
児島 馬吉 (こじま うまきち)
明治元年~昭和22年(1868~1947)軍人・教育者・書家。
伊予郡松前村浜(現松前町浜)に生まれた。
明治21年(1888)徴兵検査に合格,現役志願して特務曹長(准尉)に任ぜられる。体育,銃剣術に抜群の成績を挙げ,選ばれて東京成城学校体育教師となる。明治27年,剛青戦争に従軍,朝鮮満州各地を転戦,明治28年8月7日がい旋,勲八等受章,県立松山中学校(現松山東高)に体育・書道教師として赴任,在職中明治38年,日露戦争に参加し勲六等金鶏勲章功七級受章,松山中学校に復職した。桜井忠温の名著『肉弾』の中に「行進の途中,かって五年の長きに懇篤なる薫陶を垂れ給ひし中学校の児島教諭は予を見るや,欽躍にたえざるものの如く二三歩忍びより「桜井しっかりやれよ」と肺肝より小声に絞り出し玉ひし此の最後の訓戒,予は戦場馳駆の間常に此の語を繰り返して恩師に背かざらんことを期したのである」とある。馬吉は,また身を持すること厳正,常に率先して生徒に範を示した。公私を問わず教師の生活そのものが教育の基本であるとの信念の人であった。昭和11年40年の長きにわたる教師生活を辞し,郷里松前に自適の生活に入ったが,進んで社会奉仕活動に挺身した。また,病弱の父久太郎を背負って毎日銭湯に通い,地域の人々から「孝行先生」と称讃された。趣味は投網で暇をみては重信川で漁を楽しんだ。書,盆栽,謡曲,太鼓等にも親しみ,悠々自適の日々を暮らし昭和22年没した。行年79歳であった。馬吉の遺品類は,昭和18年の大水害で多く流失したが,遺墨類は各地の教え子達が保存している。安倍能成筆になる頌徳碑が松山東高校「明教館」正門左内側にある。
児島 惟謙 (こじま これたか)
天保8年~明治41年(1837~1908)大津事件で司法の独立を守り〝護法の神様″といわれた。のち貴族院・衆議院議員になった。天保8年2月1日,宇和島藩の家老宍戸弥左衛門の家臣金子惟彬の次男として宇和島城下堀端通りの長屋で生まれた。幼名雅次郎。生後5か月で母と生別, 5歳のときまで里子に出され,嘉永5年15歳のときに父の実家である宇和郡野村の緒方家に,安政元年18歳のときに岩松の小西家に寄食した。安政4年藩の老職梶田長門に招かれて文武を修業, 6年剣道師範の免許を得た。慶応元年には長州から長崎に赴き坂本龍馬らを知り,同3年脱藩して京都に潜伏して勤王の志士として活動,豊島五郎兵衛・備後屋三郎右衛の変名を使ったが,やがて児島惟謙と称した。戊辰戦争では征討軍に加わり,東北各地を転戦した。維新後,明治2年品川県少参事になり,4年司法省が設置されると出仕,21年間の司法官生活が始まった。大阪・東京・福島・名古屋の各裁判所判事を歴任,19年大阪控訴院院長になった。在任中,新島襄の同志社(現同志社大学)設立運動に力を添え,また関西法律学校(現関西大学)の創立に参画した。24年5月55歳で大審院院長に就任,同月11日来日中のロシア皇太子を警備巡査津田三蔵が切りつけるという大津事件が起こった。津田の裁判に当たり,司法大臣西郷従道らはロシアへの体面から大逆罪を適用して死刑に処すべく司法権に干渉した。惟謙は刑法に外国皇族に関する規定はないと普通人に対する謀殺未遂罪を主張して屈せず,同郷の穂積陳重ら学者の支持を受けて担当判事を励まし,無期徒刑の判決を下して司法権の独立を守った。 25年8月大審院院長を辞し, 27年貴族院議員に勅選されたが,郷土の進歩党に要請されて31年3月と8月の第5回・第6回衆議院議員選挙に第6区から立ち当選した。 35年まで衆議院議員,38年再び貴族院議員に選ばれた。明治41年7月1日71歳で没し,東京品川の海晏寺に葬られた。昭和14年11月宇和島市堀端町の住居跡に「児島惟謙先生出生之地」碑が建立された。また昭和38年6月東宇和郡野村町の緒方家に「大審院長児島惟謙苦学之地」碑が建てられた。「法官ハ憲法二保障セラレタル独立不羈ノ国家機関タリ」とは,惟謙が大津事件の担当判事に説いた言葉である。
児玉 暉山 (こだま きざん)
享和3年~安政2年(1803~1855)新谷藩儒。諱は清徳,字は挙之,通称を海蔵・助蔵のち堅蔵,号は暉山のほか沙山という。江戸の新谷藩邸に出仕していた際,古賀侗庵について程朱学を修め,帰藩後は小松藩儒近藤篤山に師事し程朱学の蘊奥をきわめ,第八代藩主泰理の侍講となり,廃校となっていた藩学求道軒を主命によって天保年間に再興した後,学校経営をすべてまかされ,教授として学内の諸規定を定め校則を改め,醇厚な新谷藩学の基礎を築いた。人となり廉潔謙遜一藩の師表と仰がれた。 52歳で没し,大洲市新谷の善安寺に墓がある。
児玉 氏精 (こだま しせい)
天保8年~明治16年(1837~1883)大洲藩大参事。大洲上級藩士の家に生まれた。藩校明倫堂に学び,大坪流馬術・無辺流槍術の達人であった。藩校明倫堂教授・郡奉行などを歴任,慶応3年には中村坦蔵と共に長州に使して防長兵の入京に関し便宜を図った。維新後明治3年山本尚徳と共に大洲藩大参事を務めた。明治16年3月45歳で没した。
桑折 桂園 (こおり けいえん)
宝暦11年~天保2年(1761~1831)宇和島藩士。初名景福,次に徳景・徳翼。字は子羽。通称は武之助,中務,播磨。号は烟水幽人・竹陬居士・海隅蒼生・長酔隠居・塞翁・蓼洲・眞逸・冠門,致仕後の号は桂園。明和8年6月兒小姓見習として出仕,安永4年3月小姓上座となり,同6年7月近習となり,翌7年正月番頭となる。天明4年若年寄に任ぜられたが,寛政5年10月病のため辞職。同7年若年寄に復職,翌8年正月老職加判旗本支配に任ぜられる。翌9年6月旗本頭を兼任,同11年5月東海道諸川普請総奉行となる。文化6年以降病気のため辞職・復職を繰り返し,文政2年致仕。村候・村寿・宗紀の藩公3代に仕え,藩政の中心となって活躍した。幼時より好学,頼春水に師事して文学書道に秀れていた。 70歳で没し,等覚寺に墓がある。
桑折 宗臣 (こおり むねしげ)
寛永11年~貞享3年(1634~1686)藩家老・俳人・歌人。初代宇和島藩主伊達秀宗の四男として寛永11年12月21日江戸で生まれる。母は侍妾山上氏駒。幼名,頼隆,次に宗恭・宗武・宗周・宗臣・通貞とし,宗臣に復した。通称,百助・左衛門,号は青松軒・藤栄軒・本水大居士など多数。7歳のとき,城代家老桑折宗頼の嗣となり,宇和島に移る。 19歳で桑折家第十六代として家老職を継ぐ。31歳ころ家督を弟頼邑に譲り,河内山青松軒に隠居(秀宗の五男宗純は吉田藩に分封),風雅の道に専念した。和歌は飛鳥井家に学び,古今伝授を受げ,連歌は里村玄陳・玄俊父子に,俳諧は北村季吟に学んだ。弓は日置流師範近沢益友軒に,禅は長遠寺の開山南山和尚に印可を受けるなど,文武両道に秀でた第一流の人物であった。その作品として,和歌は『宗臣君御自詠』(寛文12年-1672),俳句は『宗武自詠発句牒』で,玄陳・玄俊点もある。作法書には,『弊嚢集』(寛文4年)は指合の難など,『知新抄』(延宝5年-1677)は古歌による付合,式目の類42冊をまとめたという,ともに序のみ判明。編著には「宇和島百人一句」(寛文初期?謄写)。撰句集『大海集』7冊は寛文12年刊。伊予俳人が編纂した最初の発句集で, 39国, 832人, 5025句,宇和島156人で,宇和島俳句集の観さえあり,女子供の句もある。7年後の延宝7年『詞林金玉集』19冊写本.97冊の俳書から5617人, 19519句を選出, 66国に及ぶ貞門俳諧集の圧巻としで著名である。俳諧連歌百韻十巻の『郭公千句』は,寛文12年加幡正彌・千里心松・桑折頼邑ら12人で興行した自筆本。延宝8年(1680)46歳, 『青松軒之巻』は歌や発句などその精髄をまとめた自筆本(3年後天和3年『青松軒之記』に改稿)。寛文4年,8年,延宝8~9年の『文宝日記』,その他著作類は多い。貞享3年3月3日没, 52歳。宇和島龍華山等覚寺に葬る。
光 定 (こうじょう)
宝亀10年~天安2年(779~858)天台宗草創期の高僧。伊予国風早郡の人。俗姓贄氏,母は風早氏の出自。弱冠にして父母を喪った後,山林修行に入り世俗を離れたが,僧勤覚の強い勧めで,大同の初め都に出て,世評に心慈悲を持ち,止観宗を伝えるとされた最澄の門下に入った。大同3年(808)比叡山に上ると止観院に住し,義真和尚から摩詞止観の講義を聴いた。大同5年正午宮中金光明会で得度を受け,最初の天台年分度者となった。続いて弘仁3年(812)4月には東大寺戒壇院において具足戒を受けた。時に34歳である。これ以後は興福寺に籍を置きながら,大安寺や東大寺を歴訪し,各律師から講義を聴習した。この年また最澄と共に,高雄山寺で空海から金剛界・胎蔵界両潅頂を受けてもいる。しかし翌弘仁4年以後は,最澄の下で本格的な天台宗義の学習に入った。弘仁5年から6年にかけて,宮中などにおいて,義延法師や玄蕃頭真苑宿祢雑物ら興福寺僧と法相,天台の経義の優劣について対論しているが,これを通して天台僧としての力量が評価され,ますます高名を博していくことになる。またこれより承和年間に至るまで,しばしば宮中金光明会に召され,祈祷を行ったともいう。
弘仁9年(818)以後,大乗戒壇設立を企図する最澄の使者として,再三朝廷に上表文を進めると共に,『山家学生式』『顕戒論』といった最澄の著作を宮中に上達するが却下され,最澄卒後の弘仁13年6月11日に至りようやく天台大乗戒壇の事が勅許された。これらはみな光定の尽力によるものとされている。この間弘仁10年仲春,伝燈満位に叙されている。また天長2年(825)には天王寺安居講師となり,同5年伝燈法師位に叙され,同10年には法隆寺の講席に昇った。この年また初代天台座主義真が入寂するや,2代目座主円燈擁立に奔走した。承和2年(835)内供奉十禅師となる。承和3年の円澄入寂後,天台座主は18年間にわたって空位となるが,この間承和5年4月には伝燈大法師位に叙され,僧籍も興福寺から延暦寺に移り,上宣により同寺授戒を行うなど,実質上叡山第一の地位にあったとみられる。嘉祥3年(850)2月から3か月間にわたって,宮中清涼殿で法華経を講じる。仁寿4年(854),勅命により延暦寺別当となり, (以後別当大師とも称す)同年四王院を起こした。天安2年(858)7月,79歳を祝し,恩賞として度者,布綿,銭,米などが天皇から下賜されたが,翌月10月八部院坊にて帰寂した。80歳,﨟(得度後の年数)47年であった。卒伝は,光定は質直にして服餝を事とせず,これを天皇が悦び,殊に憐遇を加えたと伝える。著作は『日本名僧伝』『本迹為二経』『後伝法記』『唐沢』『一心戒文』『法華儀軌』『仏土義私記』など。
現在愛媛県内では,光定の影響をうけて道後平野を中心に天台寺院の分布がみられるが,特に松山市菅沢の山門派仏性寺,同市城山吉祥寺は開山を光定とし,同市東大粟医座寺は彼を中興の開山と伝えている。
河野 喜太郎 (こうの きたろう)
弘化元年~明治39年(1844~1906)明治中期活躍した蚕糸業の先覚者である。河野家は寛文年間呉服商を大洲町で開業,230年余家業を続けた。明治20年6月喜太郎は長男忠太郎に蚕糸業の先進地を視察させ,さらに10月次男の駒治郎,小西伝八を山梨県に送って蚕糸業を専修させた。翌21年工女養成のため,藤江アシヱ,大本タケシ,程野クマ,程野スナヲの4名を山梨県の勧業製糸場へ送った。明治23年,程野宗兵衛と合名で,大洲本町3丁目に製糸工場を建設した。設備は「32釜木鉄混合ケンネル式」の新しいものを備え,駒治郎の設計になる建物である。その後,養蚕業が盛大となり,製糸工場の拡充の必要が生じ,明治25年程野・河野の2人は分れてそれぞれ拡大して工場を経営した。
河野は旧城郭内に釜数72個共捻式の製糸工場を建設した。明治39年4月22日62歳で死去した。大洲市清源寺に葬る。明治43年5月名古屋で開催された関西府県連合共進会で農商務省松臣康毅から追賞された。
河野 清丸 (こうの きよまる)
明治6年~昭和17年(1873~1942)教育者。明治6年3月3日周桑郡周布村本郷に生まれ,明治28年愛媛県尋常師範学校卒業。周桑郡小松高等小学校訓導を振り出しに同郡国安高等小学校訓導兼校長となったが,帝国大学へ入学すべく,寝食を忘れて勉強し,まず中等教員修身科の検定に合格し,入学後の学資を得るため,県立松山商業学校の教諭となって3年間苦労をし,その間夫妻とも2食ですませたとも言われる。明治39年,東京大学文科大学哲学科選科に入学,教育学を専攻した。その後も,私立中学の講師などをやり,苦心惨憺の末,明治42年,第一高等学校卒業検定に合格,明治43年東京帝国大学哲学科(教育学専攻)を卒業した。翌44年,日本女子大学校附属豊明小学校主任に就任して以来,昭和17年退任するまで,実に31年間勤務し,同年8月,69歳で病没した。その間,一貫して,自動教育論を唱え,学校経営と教育研究に没頭したのである。大正8年『自動教育法の原理と実際』を出版し,児童は驚くべき自家発展能力を潜在的に固有し,発展能力を有するものである。従って,教育は自由主義,自動主義であるべきであり,発明発見的教育法でなければならないと主張した。大正11年,8人の新教育主張者が集まって講演した,いわゆる大正新教育運動の一人としてあまりにも有名である。大正8年にはアメリカのコロンビア大学教授ジョン・デューイが,彼の著書『学校と社会』の実際を見るため,豊明小学校を訪問,参観している。彼の生涯は,まさに奮闘努力,研究に明け暮れしたもので教育家中立志伝中の人と申すべきであろう。
河野 公平 (こうの こうへい)
明治3年~昭和8年(1870~1933)日上村長・県会議員・実業家,出版・新聞発行で活躍,〝伊予の印刷王〟といわれた。明治3年6月25日宇和郡日上村(現八幡浜市)で信川寅太郎の長男に生まれた。苦学して普通文官試験に合格,明治23年日上村助役を経て26年同村長に就任した。その後八幡浜町河野家の養子となり活版業を創業,八幡浜最初の新聞「皇国新聞」を創刊した。やがて活版業を広げて宇和島・大洲・松山に支店を置き,宇和島の伊豫日報,松山の伊佐日々新聞を印刷した。明治35年以来町会議員,44年以来郡会議員になった。大正4年・シンガポールに移住,好文館出版部を設けて出版活動を行い,10年帰郷しか。西宇和繭売買所・中央自動車会社取締役,製氷会社専務などを歴任した。昭和6年9月県会議員に当選して民政党に所属したが,任期中の昭和8年11月15日63歳で没した。
河野 駒次郎 (こうの こまじろう)
明治2年~昭和2年(1869~1927)明治2年9月17日大洲町大洲453番地に,河野喜太郎の次男に生まれた。河野家は寛政以来呉服商を営んだが,喜太郎の代に製糸業に着手した。明治20年弱冠18歳で駒次郎は,兄忠太郎,同輩小西伝八と共に先進地山梨県に赴き,蚕糸業の技術を研究して帰る。明治23年河野氏は程野氏と共に,大洲本町三丁目にケンネル式製糸工場を設け,機織業も始めた。駒次郎は明治25年三の丸に,明治38年には二本松に,大正3年には本町と殿町に製糸工場を設けて工場主となり,県下第一の近代的施設を誇り,業界の注目を浴びた。三の丸の工場は大正期に女工220名で大規模な三階建の寮があった。関東震災で横浜の倉庫に保管中の大量の生糸が全焼したので河野製糸の損失は大きかった。昭和2年のパニックで衰退した。
彼は河野製糸㈱常務取締役,大洲商業銀行監査役,大洲繭生糸屑物売買所社長,伊予木材㈱監査役,朝鮮辻酒造㈱社長,河野貿易㈱取締役などに就任し,県会議員にも出た。彼は次男であったが河野製糸業の中核であった。しかし子供に恵まれず,長男忠太郎は夭折した。彼も昭和2年3月24日死去,57歳。墓は清源寺にある。戒名「天心院一行不退居士」。
河野 収蔵 (こうの しゅうぞう)
弘化4年~大正12年(1847~1923)初代旭村長・県会議員。弘化4年9月11口,宇和郡永野市村(現北宇和郡広見町)で河野啓吾の長男に生まれた。明治13年3月~14年7月県会議員に在職した。23年1月初代旭村長に就任したが,4月辞任した。その後,村会議員・郡会議員などを務めた。大正12年11月7日76歳で没した。長男河野守次郎は大正11年7月~昭和7年6月旭村長を務め,衛生施設の充実,産業の振興,道路の整備などに尽くした。
河野 秋邨 (こうの しゅうそん)
明治23年~昭和62年(1890~1987)日本画家。明治23年に新居浜市に生まれる。本名は循。18歳のとき,京都に出て田近竹邨に師事し,以来南画一筋に進み,昭和35年,日本南画院を結成する。欧米を中心に何度も講演会や展覧会を開くなどして,南画の海外紹介に力を尽くした。日本南画院会長兼理事長を務め,昭和48年には勲三等瑞宝章を受章し,同59年には京都府文化功労賞を受ける。昭和62年10月3日,97歳の高齢で京都にて死去する。
河野 如風 (こうの じょふう)
大正3年~昭和54年(1914~1979)大正3年9月10日東宇和郡上宇和村(現宇和町)久枝に生まれる。本名信章。如風はその号。書家。昭和20年洗心書道会を主宰し,「洗心」誌を発刊する。昭和24年片山萬年,昭和28年村上三島に師事。日展入選19回,昭和52年第9回改組日展出品作「飲巌夫家酔中作」は四国で最初の特選受賞となった。日展会友,毎日書道展審査会員,愛媛県美術会評議員・審査員として活躍。その書は,篆隷楷行草,「かな」の各体を得意とし,とりわけ趙之謙を基調とした行書,連綿草作品は高い評価を受けた。晩年,中峯明本の研究に心血を注ぎ,作風を一変。作品集に「条幅手本集(14巻)」「如風条幅百選」。句集には「如風句集」がある。昭和54年1月31日64歳で死去。
河野 晴通 (こうの はるみち)
生年不詳~天文12年(~1543)戦国時代の河野氏の家督。通直(弾正少弼)のあとを継承した。通称六郎。はじめ通政と名乗り,のち将軍足利義晴の一字をもらって晴通と改めたという。系譜関係は諸書によって相違し,必ずしも明らかではない。『予陽河野家譜』は予州家の惣領とし,『築山本河野家譜』は通直の子とする。前者は,嗣子のなかった通直の後継者を決定するにあたって,娘婿の村上通康をおす通直と,通政をおす老臣との対立があったとし,後者は,通直と晴通との間に不和があり,河野家が分裂して一戦に及んだと伝える。また,天文11年(1542)に室町幕府が豊後の大友氏に対して「河野父子不快」のことを和解させるよう命じた文書も残っている。晴通の事績は明らかではないが,天文2年(1533)に将軍足利義晴から御内書を与えられたのを初見史料とし,その後二神氏平石手寺・善応寺などに安堵状などを発給している。天文12年死去し,弟通宣(左京大夫)があとをついだ。ただし高野山上蔵院の『河野家御過去帳』は天文13年死去と記す。諡号は,法雲寺殿天質宗性大禅定門。
河野 通清 (こうの みちきよ)
生年不詳~治承5年(~1181)平安時代末期の河野氏の惣領。伊予国衙の在庁官人でもあった。親清の子。『予章記』は,親清の妻が三島神社(大山祇神社)に参籠し,三島の神の化身である大蛇によって身罷って誕生したのが通清であるとの伝承を記している。各地の源氏があいついで反平氏の兵をあげていた治承4年1180)の冬,伊予国で反平氏の行動を起こした。翌年閏2月には,伊予国を「押領」していたことが『吾妻鏡』に見える。養和元年8月,平氏は備後国の住人額人道西寂を伊予へ派遣し,通清を攻めさせた。西寂は3,000余騎の兵を率いて通清のたてこもる高縄城(北条市)を攻めたてたので,通清はたえきれずに戦死した。死後子の通信があとをつぎ,国内の平氏勢力を一掃した。
河野 通朝 (こうの みちとも)
生年不詳~貞治3年(~1364)南北朝時代の河野氏の惣領。通盛の子。通称を六郎といい,遠江守の官途を有した。父通盛引退のあとをうけて河野氏の家督を継承した。貞治3年(1364)9月,四国統一をめざす讃岐国の細川頼之が伊予国に侵入し,これを桑村郡と越智郡の境にある世田山城に迎えうったが,城中に寝返る者があって城は落ち,通朝も討死した。北条市の大通寺に墓がある。あとは子の徳王丸(のちの通尭)が継承した。北条市の善応寺文言の中には,新居郡西条荘内菊一名光明寺如来堂などを善応寺に寄進する寄進状や,正堂士顕に善応寺住持職を安堵する置文などが残されている。
河野 通直 (こうの みちなお)
生年不詳~天正15年(~1587)戦国時代末期の河野氏の家督。野間郡高仙山城(現越智郡菊間町)主河野(池原)通吉の子といわれる。幼名牛福丸。『予陽河野家譜』は,永禄11年(永禄12年とも)に左京大夫通宣が病によって引退したあと,牛福丸が元服して兵部大輔兼伊予守通直と改めたと記すが,残存古文書で見る限り,通直を名乗りはじめるのは,天正4年(1576)ころからである。天正9年毛利氏の重臣吉見広頼の女を妻に迎えた。通直の治政期は,河野氏の領国支配の動揺期にあたり,しばしば他国からの侵略,国内領主の反乱などに悩まされた。天正13年,羽柴秀吉の命をうけて侵入してきた小早川隆景に降伏して湯築城をあけわたした。その後,小早川隆景や毛利輝元を頼って河野氏の復興を期したがはたさず,天正15年移住先の安芸国竹原で没した。諡を長生寺殿月渓宗円大禅定門といい,竹原市長生寺に墓がある。また高野山奥の院にも母永寿が供養のためにたてた五輪塔が残されている。
河野 通宣 (こうの みちのぶ)
生年不詳~天正9年(~1581)戦国時代の河野家の家督。先の家督晴通の弟といわれ,天文12年(13年とも)晴通の死後その跡を嗣いた。通称宗三郎,のも左京大夫の官途を与えられた。妻は,安芸国の宍戸隆家の女といわれる。室町将軍足利義輝とのつながりが深く,多くの通宣あての幕府関係文書が残されている。この時期は,河野家臣団の抗争が頻発した時期で,久万大除城主大野氏と久米郡大熊城主戒能氏の争い,久米郡岩伽羅城主和田氏の反乱などの対応に苦慮した。永禄11年(1568)病により引退し,家督を通直(牛福丸)に譲った。天正9年に死去し,諡を日勢院殿洞月良恵大禅定門といった。
河野 通宣(六郎) (こうの みちのぶ)
生年不詳~永正16年(~1519)戦国時代の河野氏の家督。通直(教通)の子。幼名代益丸,通称六郎で,刑部大輔の官途を有する。父通直(法名道基)が明応9年(1500)に死去したあと,家督を継承した。明応8年12月の忽那一族賀島衆にあてた掟書が初見史料。その後,善応寺・国分寺・天徳寺・忽那氏などに対して多くの文書を発している。文亀元年(1501)には,幕府から大内義興討伐を命じられたが,永正5年(1508)に義興が足利義材(義尹)を奉じて入京した時には,これに従ったといわれる。(予陽河野家譜)永正16年7月死去。諡号は天徳寺殿天臨宗感大禅定門。あとを子の通直(弾正少弼)がついだ。
河野 通元 (こうの みちもと)
生没年不詳 室町時代の武将。通之の子。民部大輔の官途を有する。応永24年(1417)の忽那氏あての充行状を初見史料とし,嘉古2年(1442)までの生存を確認することができる。当時の伊予の守護は,いとこの通久,ついでその于の教通であったが,通元も国内外の武士や寺院に安堵状や寄進状を発するなど,守護と類似の権限を行使しており,通久・教通とは対立関係にあった。これは父通之が兄通義の遺言に従って河野家の家督を通義の子通久に継承させたことに起因するものと推測される。嘉吉2年3月の京都東寺あて寄進状が最後の発給文書で,翌3年12月の犬法師丸(通元の子,のち通春)寄進状には亡父と見えるので,その間に死亡したものと思われる。
河野 通盛 (こうの みちもり)
生年不詳~貞治3年(~1364)鎌倉末期から南北朝期にかけて武家方として活動した河野氏宗家の武将。幼名を九郎,のち通治ともいい,対馬守。出家して善慧(恵)と号した。通有の子。あるいは通有の弟で,家を継いだとの説もある。元弘の変(1331)に,鎌倉幕府の命によって上京し,六波羅探題府を援けて,蓮華王院・内野に転戦した。幕府の滅亡により,鎌倉で出家し隠遁生活に入ったが,足利尊氏が中興政府に反するに及んで,還俗してその配下となり,河野氏の旧領を安堵された。通盛は尊氏の九州からの東上に従軍し,湊川・東坂本・鞍馬口に宮方の軍と転戦した。後醍醐天皇の吉野に赴いた時,通盛は尊氏の要請によって,河内国東条における宮方の軍を撃破した。その後,通盛は帰郷し,温泉郡道後に湯築城を築いて,本拠を高縄山城からここに移した。それは優勢であった宮方に対抗するうえに,道後平野を控制する必要があったからである。通盛は征西将軍滞在中の風早郡忽那島を攻撃したのをはじめとして,温泉・浮穴・喜多郡方面の宮方との間に激闘を繰返し,次第に要衝を占拠した。彼の不撓の努力によって,宮方勢力を制圧し,伊予における統率者として地位を確保したばかりでなく,河野政権を安定させた。貞和6年(1350)室町幕府から伊予国守護に任ぜられ,将軍足利家との間に緊密な関係が成立した。将軍足利義詮が南朝討伐を企てた時,通盛は孫通行を河内国に派遣した。貞治元年(1362)通盛は子通朝に惣領職を譲って隠退し,余生を彼の創立した風早郡善応寺に送り,同3年11月26日に逝去した。
河野 通之 (こうの みちゆき)
生没年不詳 室町時代の河野氏の家督で,伊予の守護。通直(通堯)の次子,兄に通義がいる。幼名鬼王丸,通称六郎。対馬守の官途を有する。応永元年(1394)兄通義病死の直前,通義夫人が懐妊中の子が男子であればその成長後跡をつがせることを条件に,河野氏の家督と伊予の守護職を譲られた。応永6年(1399)の応永の乱に際しては,足利義満の率いる討伐軍に加わった。『予陽河野家譜』によると,応永16年(1409),通之は成長した通久に家督を譲ったという。その後まもなく出家して道宗と名乗った。北条市の善応寺文書には10通の,中島町の忽那家文書には1通の通之発給文書が残されている。それらのうち最後のものが応永20年(1413)の年号を有するから,少なくともこのころまでは生存を確認することができる。死後,子の通元があとをついた。
河野 通義 (こうの みちよし)
応安3年ころ~応永元年(1370ころ~1394)南北朝・室町時代の河野氏の惣領で,伊予の守護。河野通直(通尭)の嫡子。弟に通之がいる。幼名亀王丸。嘉慶2年(1388)に伊予守の官途を与えられた。康暦元年1379)父通直(通堯)戦死のあとを受けて,10歳の幼少で河野氏の家督を継承した。永徳元年(1381)父通直を戦死させた宿敵細川氏と和議を結び,宇摩・新居2郡を細川氏領とすると同時に,残りの地域についての守護職を確保した。明徳3年(1392)には,出雲国で反乱を起こした山名氏幸の討伐に加わった。応永元年(1394)京都の邸宅で病死した。 25歳であったという。諡号は温玉院道香梅巌大居士。死の直前弟の通之に家督を譲った。その時の譲状では,懐妊中の夫人が男子を生めば,通之に子があっても,その男子に跡をつがせることを希望している。北粂市の善応寺文書に禁制,早稲田大学所蔵文書に寄進状,長州河野文言に譲状などが残されている。
神山 諦鑁 (かみやま たいばん)
明治22年~昭和48年(1889~1973)喜多郡長浜町出石寺(真言宗)住職,大僧正。明治22年12月10日伊予郡北伊予村(現松前町)に生まれる。12歳で出石寺諦真の継嗣となり,東京帝国大学卒業。昭和4年出石寺に嗣席して第28世となる。同29年大僧正に補任,同43年定額位に列せられた。また,県仏教会長・県公安委員・同社会教育委員など社会に貢献,県教育文化賞を受賞する。昭和48年5月6日死去。 83歳。
香坂 昌康 (こうさか まさやす)
明治14年~昭和42年(1881~1967)大正期・昭和初期の県知事,のち東京府知事。明治14年2月2日。山形県米沢門東町で士族香坂昌邦の長男に生まれた。 41年7月東京帝国大学法科大学仏法科を卒業,11月文官高等試験に合格して内務属に任官した。 43年2月愛媛県事務官に赴任し,内務部学務課長兼上木課長,大正2年には理事官に昇任して視学官となった。本県での事務官5年余,県知事伊沢多喜男の知遇を得て,以後の官界での昇進は伊沢の引きによるところが大きかった。3年4月岡山県警察部長に転出,熊本県警察部長,秋田県・埼玉県内務部長と順調なコースをたどり, 11年2月欧米各国に出張して帰国後の12年10月に福島県知事になり,大正14年9月16日愛媛県知事に就任した。往任中,郡役所廃止及び大正15年の地方制度改正に伴う前後措置,自作農創設維持政策への対応を進めた。また両3年にわたる政府の緊縮指令に従う基本方針をとりながらも緊要であるものは積極的に取り上げるとの意図をもって,実業補習学校教員養成所の設置,県立繭検査所・松山測候所の建築を行い,県庁舎・讐察庁舎改築計画を立てた。このほか,大正14年の別子銅山労働争議,15年の松山高等学校生徒の同盟休校事件を調停するなど,事務官在任以来本県の事情に熟知している知事として活動した。しかし伊沢とつながる憲政会系知事でありながら党派色を意識的に抑えようとしたので,与党憲政会系の機関紙「愛媛新報」からも時の田中政友会内閣におもねり自己の地位保全を計るものとして非難され,概して不人気であった。昭和2年5月16日田中内閣の断行した地方官大更迭を免れることができずして休職となった。これ以後民政党系の立場を鮮明にし,3年2月伊沢多喜男を中心として組織された選挙監視委員会のメンバーとして来県,官憲の衆議院選挙の干渉行為を監視して公明選挙を各地で訴えた。4年7月浜口民政党内閣が成立すると岡山県知事に復活,ついで6年1月愛知県知事に転じたが,同年12月犬養政友会内閣により再び休職になった。7年5月斉藤内閣により東京府知事に抜擢され,10年1月まで在職して,地方長官として最高峰を極めた。知事退官後,日本連合青年団理事長,全国治山治水協会長などを歴任,昭和42年12月21日86歳で没した。
香渡 晋 (こうど すすむ)
天保元年~明治35年(1830~1902)新谷藩士,維新の勤皇家。新谷藩士の家に生まれ,諱は正重,号は矢川,黙斎。弘化3年小松藩儒近藤南海に入門,3年間学んで帰藩,新谷藩校求道軒の句読師となった。安政五年江戸へ出て,大橋訥庵の思誠塾で学ぶほか佐藤一斎に「死生観」「自己確立法」を問い,帰藩後学校教導師を命ぜられたが,文久2年33歳で天下の大勢をみきわめる志を立て上京,長州藩士桂小五郎,土佐藩士福岡孝悌・僧晦巌らの志士200余名と会見,天下の形勢を評し国事を論じた。およそ7か年間にわたる京都の情勢を調査し,藩主に報告した。翌3年彼は宗家大洲藩に対してだけ朝廷から下された「勤王の誠を致すよう」にとの内勅を,支藩新谷藩にも降下されたいとの内願を三条実美に提出し,その結果同年8月藩主泰令に内勅降下,天皇に拝謁して天盃を賜わるに至った。明治元年9月新谷藩が天皇の江戸御幸の供奉を命ぜられた際,彼は藩兵隊参謀として,特に岩倉補相警衛の任に当たった。これを機にかつて公武合体派の奸物として暗殺しようとした岩倉から,かえって引き立てられることになった。明治3年新谷藩の大参事となり,同5年神山県の大属に任ぜられたが,同7年には右大臣岩倉に招かれ,その顧問として岩倉の次のような事業を補佐した。明治10年の華族国立第15銀行の創立,同12年の日本鉄道会社(東京~青森)の創立などに尽力した。同10年宮内省御用掛となり,同12年から明宮(大正天皇)のご傅育に当たった。また帝国憲法制定について岩倉へ欽定憲法を主とする所見を建白するところがあった。同18年新谷へ帰郷,同35年72歳で死没。大洲市新谷法眼寺に葬る。
桑折 紀望 (こうり のりみ)
天保6年~明治29年(1835~1896)宇和島藩執政。家老職桑折家に生まれた。通称駿河。幕末維新のとき執政として内外の重要事項を処理して松根図書・桜田出雲と共に伊達宗城を助けた。明治2年宇和島民政総督になり,廃藩の後は伊達家の家令を務めた。明治29年1月61歳で没した。
河野 教通 (こおの のりみち)
生年不詳~明応9年(~1500)室町末期から戦国初期に河野氏の宗家を継承した武将。河野通久の嫡子で,幼名を犬正丸といい後に教通・通直と称し,剃髪して道治・道基と号した。永享7年(1435)父通久戦死ののち,河野氏の家督を継ぎ,将軍足利義教から豊後国臼杵庄を給与された。いっぽう関東公方足利持氏は,義教の将軍職を認めず,両者の対立は激しさを加えた。永享10年(1438)両者は衝突し,永享の乱がおきると,義教は諸将に命じて持氏を討伐させた。この時,教通も動員され,美濃国で待機を命ぜられた。これよりさき,義教は南朝の皇統を絶ち,禍根を除こうとした。ところが義教の弟に大覚寺義昭がいて,将軍職継承についても激しく相争い,以来両者は不和であった。義昭は機を見て義教を排斥しようとし,ひそかに南朝の後裔の円満院円胤(円悟)と結び,大和国の豪族越智維通および南朝の残党と組んで挙兵した。義教は彼らを討滅するため,諸将に動員を命じた。教通もこれに応じて大和国に進発し,細川勢に協力して義昭らの反乱軍を壊滅した。のち教通が近江国馬淵庄を給与されたのは,その功労によるのであろう。嘉吉元年(1441)義教は播磨の赤松満祐の権勢を削除しようとし,かえって満祐のために殺害された。その後,満祐は一族とともに播磨国に引き揚げたので,幕命を奉じて教通も山名持豊・細川持之らと播磨に赴き,満祐の軍を撃破した。満祐は万策尽き果て木山城で自殺した。教通はその地に留って,引き続き残党の殲滅に当たった。このころから教通と予州家通春との抗争がはじまり,文安元年(1444)に幕府は,安芸国の小早川凞平に,さらに吉川経信に出陣を命じて渡海し,通春の軍を温泉・和気等の各地に撃破させた。寛正5年(1464)通春は讃岐の細川氏の兵と衝突し,幕府は通春討伐のため周防国守護大内教弘に伊予へ出兵を命じた。しかし教弘は伊予に来ると,幕命に反して通春を援助した。教弘が和気郡興居島に病没したのも,子政弘も同じく通春を援助した。教通と通春の抗争は,和議の成立によって,一時休止の状態となった。しかしこの和議は永続せず,やがて両者の争闘は再開された。応仁元年(1467)中世社会の矛盾が爆発して応仁・文明の大乱(1467~1477)となった。教通は西軍すなわち山名宗全の陣営に属し,大内政弘と気脈を通じて活動した。文明5年(1473)11月に,教通は将軍足利義政から伊予国守護職に補任された。この時の文書が,教通と反対の立場にある東軍から発せられたことについての意義は明らかでないが,あるいは将軍側近のものが教通を東軍の陣営に招くためであったかも知れない。同11年1479)細川義春が阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵人した。教通の弟通生が風早郡神途城に籠り,諸将に命じて東予・中予・南予の要害を防備させた。義春は諸城の攻略をはかったが,かえって村上・忽那氏らの水軍の襲撃をうけて,郷国へ潰走した。その後,教通は病気のため出家して,道治さらに道基と称した。彼は信仰心が厚く,同13年(1481)石手寺本堂・山門を修理し,同17年(1485)和気郡太山寺に三重塔婆を造営し,明応7年(1498)に大山祇神社の本殿を修造した。しかし河野氏では政治的に守護大名としての領国支配が困難になっていたから,彼も権勢の維持に苦心したと推察される。彼は同9年(1500)に湯築城で逝去し,その遺骸は善応寺の塔頭の宗玄院に葬られた。
河野 通有 (こおの みちあり)
生年不詳~応長元年(~1311)鎌倉中期に活動した伊予河野氏正系の武将。通信の孫,通継の子で,久米郡石井郷(現松山市)を領有し,同地の縦淵城を本拠とした。文永の役(1274)ののち,幕府では元の再度の来襲が予想されたので,西海の将卒を動員し,九州の防備にあたらせた。通有は幕府の指示に従って,九州博多湾へ出動した。弘安4年(1281)再び元軍が来襲して,筑前国の海岸に迫ったが,堅固な石塁によって上陸を阻止された。通有は石塁を背にして,その前に陣をはったので,将卒らはこれを「河野の後築地」とよんで彼の豪胆さに驚嘆した。ついで通有は志賀島の戦いに,小船を操って元の大艦を奇襲し,敵将を捕えて戦果をあげたが,残念ながら負傷療養のため帰郷した。徳治2年(1307),通有は幕府から西国および熊野浦の海賊追捕を命ぜられ,その鎮圧に努力した。応長元年7月14日に逝去し,その遺骸は彼が元寇戦没者の菩提のために建立した周布郡北条郷(現東予市)の長福寺に葬られた。
河野 通堯 (こおの みちたか)
生年不詳~康暦元年(~1379)南北朝期に武家方に,あるいは宮方に組して活動した河野氏正系の武将。貞治3年(1364)11月に,父河野通朝戦死のあと,通堯は相ついで祖父通盛の逝去にあい,悲嘆にくれる暇もなく,讃岐国(守護)細川氏の進撃に対処した。通堯は幼名を徳王丸といい,細川氏の攻撃を避けて風早郡の神途城に入った。さらに恵良城で元服して通堯といった。通堯は細川氏の占拠していた湯築城を奪還した。しかし予想に反して,細川氏は強大であった。通堯は要衝の高縄山城にたてこもって,反抗したが,武運つたなく破れたので,越智郡島嶼部に地盤を持つ今岡通任・村上義弘らに救援を求めた。そこで彼らは通堯に対し南朝に帰順し,伊予における宮方の援助を得て,伊予国における諸勢力を綜合する必要性を力説した。そこで通堯は一族の重見通宗・同通勝らに対し,九州征西府への帰順の斡旋を依頼した。正平20年(1365)に征西府の懐良親王はこれを承認し,彼を伊予守護職に補し,その本領を安堵した。やがて通堯は大宰府に赴き,親王に謁見して南朝への忠誠を誓った。この時,彼は通直の名を賜わり,讃岐守・刑部大輔に任ぜられたという。正平23年(1368)に入り,伊予国へ足利方の驍将仁木義尹が侵入したので,通堯は征西府と連絡のうえ,通任・義弘をはじめ,旧臣戒能・二神・久枝氏らの援助をうけ,伊予郡松前に上陸した。まず宍草入道父子の軍を撃破し,義尹の軍を追うて彼らを野間郡大井に潰走させた。通堯は中予地域の掃討を完了すると,東予における細川・仁木氏と戦闘を交え,新居郡高外木城で細川勢を全滅させた。いっぽう幕府では将軍足利義満の管領としてこれを補佐し,かつ政界に敏腕を振った細川頼之は,宗教界から反撃をうけたばかりでなく,土岐・斯波氏らの諸将とも衝突した。康暦元年(1379)頼之は管領職を斯波義将にとって代わられ,やむなく出家して常久と称し,讃岐国に引き揚げた。この中央政界の変動は,河野氏にとって緊要事であって,通堯は身の保全を計るために,宮方との親善関係を絶って,武家方における反細川派との接近をはかった。反細川派の諸将は頼之討伐に踏み切り,通堯にも頼之追討の将軍の御教書が発せられた。窮状に陥った頼之は機先を制して,東予地区に向かって進撃を開始した。通堯は桑村郡吉岡郷佐志久原に陣をとったが,頼之の奇策戦法にかかり,総攻撃をうけて一族とともに自害した。
河野 通直(弾正少弼) (こおの みちなお)
生年不詳~元亀3年(~1572)戦国時代に河野家正系を継承した武将。河野教通の孫,同通宣(刑部大輔)の嫡子。永正16年(1519)7月に通宣病没ののち惣領職を継承した。幼名を太郎といい,のち弾正少弼に任ぜられた。このころ河野氏の統制力は,予州家との内証によって,次第に弱体化したばかりでなく、恩顧の部将のなかにも,離反するものが現れた。大永2年(1522)越智郡鷹取城主正岡経貞は兵備を整え,一族とともに河野家に反抗した。通直は重見・村上氏の将兵を派遣し,その討伐に当たらせた。経貞は敗れて,通直に降伏した。それから8年後の享禄3年(1530)重臣の重見通村(通種ともいう)が越智郡石井山城によって反乱をおこした。通直は村上通康に命じて,征討軍を送らせた。通康は激戦の結果,城郭を占領したので,通村はやむなく周防国へ逃亡したと伝えられる。中央の政界では管領細川高国が勢威を振っていたが,細川晴元らと衝突し,敗れて自殺するに至った。これよりさき,通直は上洛し,高国に款を通じていたが,政情の変化にともない晴元に接近した。その後,通直は幕府に対し官位を要望していたと見え,弾正少弼に補せられた。通直は天文2年(1533)に将軍足利義晴に対し太刀・青銅等を献上して,その厚意を謝した。『大館常興日記』によると,天文8年(1539)通直を幕府の相伴衆に加えられる措置がとられた旨を述べている。同10年安芸国守大内義隆の家臣白井房顕が越智郡大三島に,同13年に風早郡中島に来長した。幸いにして,大祝・忽那・村上氏らの家臣団の奮闘によって排撃することができた。通直には男子がなく,その後継者については,通直の主張する女婿の村上通康と,家臣団の擁立する予州家の通政との両人が有力な候補者であった。家臣団は通直らの機先を制し,通政を奉じて湯築城を占領した。通直は通康に迎えられ,その本拠来島城に避難した。やがて両者の間に和議が成立し,通直は通政(のち晴通)を後継者にすることを承認した。晴通は天文12年(1543)に病死し,弟通宣(のち左京大夫)がそのあとをついだ。通直と通宣とは不和で,その内証は,河野氏の没落を早める一因となった。通直は元亀3年8月に竜穏寺で逝去した。
河野 通信 (こおの みちのぶ)
永万元年~貞応2年(1165~1223)鎌倉時代初期に御家人として活躍し,伊予の河野氏の素地を築いた武将。四郎,出家して観光。源頼朝が平氏討伐のため挙兵すると,通信は父河野通清とともに本拠の風早郡高縄山城によって呼応し,まず平維盛の目代を伊予国から追放した。しかし,伊予国内外における平氏の与党の総攻撃をうけ,通清は同城に敗死した。通信は体勢を整え,侵入していた備後国奴可人道西寂をたおし,阿波国田口則良を喜多郡比志城に撃破して主導権を握った。源義経が平氏征討のため西下した時,通信は軍船を率いて屋島に赴き,海上から平氏を攻撃した。さらに通信の軍船は壇ノ浦の戦いに源氏勢の中堅となって活躍した。鎌倉幕府の成立後,通信は御家人となり,頼朝の奥州征伐にも従軍した。将軍家の源氏が三代で断絶し,執権北条氏の権勢が強大となると,通信の心は幕府から離れた。その子通政・孫通秀らは西面の武士として院ノ庁に仕えた。さらに,後鳥羽上皇の召に応じて上京していた通信は,承久の変(1221)が起こると,幕軍を迎えて河内国広瀬の戦いに参加したが,その努力も空しく京都側は大敗した。通信は通政らとともに帰郷し,高縄山城に河野勢を集結して反抗を続けた。しかし幕府側の遠征軍の包囲をうけて陥落し,通信は負傷して捕虜となり,奥羽平泉に配流せられた。通政は斬られ,一族は四散した。ここに河野氏の多くの所領は没収せられ,その勢威はにわかに衰えたが,ひとり通信の子通久は関東側に組しかため,のちに久米郡石井郷地頭職を与えられた。これによって,同氏の命脈がようやくつながった。なお通信は貞応2年(1223)5月19日(58歳)配所で逝去した。
河野 通春 (こおの みちはる)
生年不詳~文明14年(~1482)室町時代後期~戦国時代初期に活躍した河野氏予州家の武将。予州家と宗家との抗争は通春の父通元の時代に発し,幕府の調停にもかかわらず解決しなかった。通春は嘉吉の変(1441)以来,河野家の主導権をめぐって宗家の教通と対立した。通春は反宗家の将卒を糾合したのに対し,教通は安芸国の小早川氏らの援軍によって,戦闘が続けられた。寛正5年(1464)通春は,阿波・讃岐国の守護細川勝元と衝突した。勝元は幕府に請い,周防国守護大内教弘をはじめ小早川氏に援助を求めた。伊予に来た教弘は幕命に反してかえって通春と通じた。通春対教通の紛争は応仁・文明の乱(1467~1477)にそのまま持ち込まれた。通春は西軍に属して京都に出征して,各地に転戦して武勲をあげた。乱後,細川義春が阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵入した時,通春はいったん宗家と和睦し,その撃退に努力した。細川氏の敗退したのち,通春と宗家の対立は再びおこり,宗家を攻撃したが,志を得ないで文明14年(1482)に逝去した。一説には,湊山城(現松山市)で戦死したとも伝えられる。
河野 通久 (こおの みちひさ)
応永元年~永享7年(1394~1435)室町時代河野氏の惣領職を継承して活躍した武将。河野通堯の孫,同通義の嫡子。幼名を犬正丸という。応永元年父通義病死のあと,出生した。通義の弟通之(通久の叔父)が,河野家を継承して勢力の維持をはかった。通久は同13年(1406)に湯築城で元服して持通といい,さらに通久と改めた。同16年(1409)に通之の譲りをうけて,河野氏の家督をつぎ,のちに刑部大輔に任ぜられた。通久の治世は四代将軍足利義持から,六代義教の時代にわたる。義教は幕府における綱紀の粛正を断行するとともに,将軍の統率権を強化しようとはかった。彼の事績の一つとしてあげられるのは,周防・長門・豊前国の守護大内盛見の権勢を利用して,混乱した九州の経営に当ったことであった。盛見は永享3年(1431)筑前国を巡視して,同国内の大友持直の所領を没収しようとした。この所領の問題をめぐって,大内氏対大友・少弐・菊池氏との間に抗争を繰返したが,かえって盛見は筑前国萩原に戦死をとげた。しかし紛争は大内氏の側では,子持世に引き継がれた。翌4年(1432)10月持世は幕府に対して,大友・少弐両氏の討伐を要求した。そこで義教は安芸・伊予・石見等の諸国の兵を動員することにした。翌年5月(1433)持世は持盛を豊前国にたおして,大内氏を統一すると,すすんで筑前国に入り,少弐満貞を攻め滅して肥前国をも併合した。この間九州の各地で紛争がおこり,かえって少弐氏は勢力を回復したので,持世は再び幕府に援軍の派遣を求めた。義教は永享7年(1435)伊予・安芸・石見国に出兵を命じた。この時,通久は幕命を奉じて豊後国に出兵したが,大友氏の策略にかかって,6月29日に姫嶽城の戦いに討ち死にした。 41歳。
告森 桑圃 (こつもり そうは)
文政3年~没年不詳(1820~)宇和島藩士。幼名は河原十太郎,のち治左衛門と改める。明治2年旧姓に戻り,告森周蔵といい,同5年退隠して桑圃と号した。天保14年23歳で家督を継ぎ,虎之間目付・文武世話係を務め,万延元年には宗門奉行を命ぜられ,文久2年には同藩士十数名と共に上京して京都御所の警衛にあたった。同年山階宮の御家人となり,会計係長及び外国係勤務を命ぜられた。その後帰藩して新調組頭に任ぜられた。元治元年長州征伐のため三机浦まで出陣,爾後物頭・御目附等の諸役歴任。慶応4年1月,朝敵となった松山藩に向け出兵せよとの朝命をうけた宇和島藩の監軍として,大洲藩郡中まで兵を進めた。明治2年の藩政改革により議事監察・参政を命ぜられ,版籍奉還後の宇和島藩権大参事に任命された。明治3年野村農民騒動の際には。民政局長として鎮撫に努めた。この年の藩政改革により退官。同5年神山県第1大区1小区宇和島戸長となり,同6年愛媛県第13大区長となり,同11年郡区改正により退官した。隠退後は専ら風流文事を楽しみ,俳句に長じ,宇和島俳社静幽廬第七代の宗匠となった。彼の長男告森良は,東宇和郡長,鳥取・千葉両県知事,伊達家顧問となり,次男の清水隆徳は県会議員・衆議院議員・愛媛県農工銀行頭取となった。
告森 良 (こくもり はじめ)
嘉永6年~大正8年(1853~1919)本県で行政官を務め,のち鳥取県・千葉県知事になった。嘉永6年宇和島藩目付役告森桑圃の長男として城下御殿町に生まれた。穂積陳重と並ぶ秀才といわれた。明治6年神山県官吏になり,引き続き愛媛県官に在職,学務掛を担当して愛媛県師範学校の設立に尽した。明治11年12月郡町村編成に際し,岩村県令の人材抜擢の一人として東宇和郡長に就任した。 15年には県学務課長心得を務めていたが,ほどなく内務省に出仕した。以来,京都府・岐阜県参事,埼玉・岡山・徳島県の書記官を歴任して,明治41年3月鳥取県知事に昇進した。この時,55歳。長い役人生活を経てやっと到達した道程であった。鳥取県には2年4か月在任,倉吉中学校・米子高等女学校・鳥取商業学校の新設,農事試験場の拡張,耕地整理事業の推進,米子港の浚渫などの多方面にわたる事績をあげた。 43年6月千葉県知事に転じ,大正2年6月まで在職して利根川改修工事に全力を注ぎ,大きな功績として今日までたたえられている。ここを最後に官職を退き,晩年は京都に隠せいして大正8年11月27日, 66歳で没した。弟清水隆徳は政治家・経済人,谷口長雄は医学者,赤松桂は宇和島市長としてそれぞれ名をなした。
薦田 経太郎 (こもだ けいたろう)
明治7年~昭和21年(1874~1946)玉津村長・県会議員。明治7年8月21日,新居郡朔日市村横黒(現西条市)で素封家薦田兵太郎の長男に生まれた。明治22年玉津村会議員を経て, 44年9月~大正4年9月県会議員に在職した。大正4年郡会議員,9年玉津村長に就任して玉津・大町・神拝の3か村にわたる大規模耕地整理事業の組合長として大工事を完成に導いた。西条町に合併と共に町会議員ついで西条市会議員になり,西条銀行の重役を務めた。昭和21年2月12日71歳で没し,宝蓮寺に葬られた。
薦田 篤平 (こもだ とくへい)
文政6年~明治30年(1823~1897)宇摩郡の製紙産業功労者。幕末から明治初期の宇摩地方の製紙業の発展に貢献した3人のうちの一人である。薦田篤平は和紙製造に,石川高雄は楮三椏の仕入れに,住治平は販路の開拓に成功した。薦田篤平は文政6年4月4日に,上分村(現川之江市)の徳兵衛の長男に生まれた。彼は宇摩地方の楮三椏が良質で豊富なのに着目し,慶応2年(1866)父祖の業を棄て,抄紙業に専念し,近村の農家を勧誘して回った。彼は同年若干の製品を大阪に試売していたが,未熟の技術と製品不揃いのため,不成績に終わった。彼はこれに屈せず翌年新に製紙場を設け,美濃越前から職工数人を招き,漉槽20余を据付け製造に従事した。そして京阪地方に百余丸を試売したが,今回は成功した。まだ利潤が少ないので製法を改良し,大小判の寸法を定め,荷造り包装などを一定した。明治5年に彼は漉桁の二枚漉を四板漉に改良して能率を倍加した。彼は自ら製紙業を営みながら,京都の大森紙問屋と結び,自分の製品のほか郷土の紙を売り捌いた。彼は宇摩郡紙問屋の先駆者であり,販路の開拓者であった。彼の孫も明治30年7月篤平と改名し,製紙業の興隆につとめた。明治30年6月9日没,享年75歳。
近藤 鑑 (こんどう かん)
万延2年~昭和4年(1861~1929)三内村長,県会議員,実業家。万延2年2月2日,下浮穴郡津吉村(現松山市)で渡部勝平の子に生まれ,のち河之内村近藤六次郎の養子になった。青年時代東京に遊び政治運動に参加,やがて帰郷して三内村会議員を経て明治32年10月同村長に就任,34年4月まで村政を担当した。愛媛進歩党の幹部に列し,明治36年2月~9月, 38年5月~40年9月県会議員に在職した。村長退職後松山に移住してロシア兵捕虜相手に商売をし,伊豫日々新聞の経営や松山土地会社,愛媛自動車会社の創立に参加した。大正8年愛媛普通選挙期成同盟会を高須峯造らと発起して普選運動にも従事した。昭和4年11月26日,68歳で没した。
近藤 簀山 (こんどう きざん)
文化9年~明治21年(1812~1888)儒者。文化9年1月28日,近藤篤山の次男として小松に生まれる。名は春寿,字は真助,積中,清斯堂と号した。天保4年京都猪飼敬所に学ぶ。帰藩して小松藩馬回役,近習頭になり,藩校養正館の学頭も務めた。明治5年には,県一等教導にもなる。明治21年6月17日,76歳で没す。
近藤 金四郎 (こんどう きんしろう)
明治16年~昭和30年(1883~1955)自治功労者。明治16年3月1日温泉郡三内村大字河之内(現川内町)近藤辨次郎の長男として生まれ,のち同村近藤新七の養子となり,松山中学校に学んだ。在学中,剣道の選手として京都の武徳殿で試合に出たこともあり,剣道4段の免許を持っていた。のち日露戦争に従軍,帰郷後三内村助役に就任,半年後村長となり,農事の改良,生活改善,治山治水,民生の安定のため努力を惜しまなかった。二宮尊徳を尊敬し,報徳の教を説き,日常家庭人として紺木綿の仕事着で農事にいそしみ,農事の改良に励んだ。各種会合に村民の時間励行,また早起を奨励毎朝六時になると大太鼓を打ちならし早起きと時間を知らせた。その太鼓は現在川内中学校郷土資料室に保存されている。また,村長時代用いた杖に「それは天に任せおけ」と彫り込んでいた。また,「敬天愛人」「手柄はあなたへ苦労は私に」「飯と汁,木綿着物ぞ身を助く,その余は我を責むるものなり」等を座右の銘とした。敬神崇祖,質素倹約を身上とした。大正8年三内村信用組合,昭和16年三内村森林組合を設立し,その組合長となり,700ヘクタールに及ぶ村有林の品評会をし,分収歩合に賞格をつけるなどして,林業の育成に努めた。昭和2年9月より愛媛県会議員に当選5回,昭和21年12月まで19年3か月の長期にわたり県政のため活躍した。その間,県会副議長,議長を務め,県政の長老と尊敬された。氏はまた「道金さん」のニックネームを持つように,林道,村道,耕作道,県道など道路の改修に尽力した。特に,生涯の大事業として取り組んだのが,大正11年に結成された「県道黒森線速成実行会」会長の仕事であった。上浮穴郡の物資搬出,村内の林業発達等の事由を力説し,村民の協力を得てこの大事業に取り掛った。第1期工事,第2期工事が終った頃から資金繰りに窮し,自家の山林をほとんど売却してその資金に充当した。苦節10年遂に昭和30年7月31日県道黒森線全線開通の日,近藤金四郎は生涯を閉じた。 72歳であった。その後,面河ダム建設,道前道後水利開発事業推進,交通上等に,この県道のもたらした利益は計り知れないものがある。また,昭和13年,温泉郡松山市の畜産組合長となり,肉牛の飼育に力を入れ,日中戦争の拡大にともなって,牛肉の需要が増大し,肥育牛の産地として伊予牛の名を神戸市場に高からしめた。
昭和30年,自治功労者として,勲五等瑞宝章を賜り,また,村民達は,河之内金毘羅寺の老杉高くそびえ立つ下に胸像を建て,政界の長老砂田垂政の「畏友近藤金四郎君」の筆蹟を録してその功績を後世に伝えている。
近藤 正平 (こんどう しょうへい)
明治13年~昭和39年(1880~1964)明治13年12月1日和気郡三津浜町桜通(現松山市三津二丁目)に生まれる。父貞次郎は三津浜銀行などを創設した資産家である。正平は明治40年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し, 44年三津浜練瓦会社を創立し経営に当った。また実業家として三津浜魚市場・三津果物会社社長を務め,昭和17年3月から19年6月まで戦時下の愛媛合同新聞(現在の愛媛新聞)社長を務めた。さらに三津広町で小富士隣保保育園を経営し,松山老人クラブ連合会副会長も務めた。書及び絵画をよくした。昭和39年8月1日,83歳を以て没した。
近藤 新一 (こんどう しんいち)
明治20年~昭和48年(1887~1973)教育者。明治20年5月2日,周桑郡丹原町に生まれる。明治40年愛媛県師範学校を卒業して,小学校教員や師範学校の教諭,県社会教育主事を勤める。退職後は各種学校の嘱託となるが,昭和17年推されて温泉郡道後湯之町町長となる。松山市との合併に努力し,同19年松山市助役となって自治行政に尽力する。同20年退職後も文化財保護・教育文化の向上に貢献した。県教育文化賞を受賞している。昭和48年7月86歳で死去。
近藤 貞次郎 (こんどう ていじろう)
安政4年~昭和20年(1857~1945)実業家。徳島県阿波郡市場町において代々阿波特産の藍の販売をしている近藤家の長男として安政4年8月に生まれる。父 庄平は明治元年三津浜町に移住して伊予絣業者に藍を供給して発展を続けてきたが,インヂコの出現により天然藍が次第に駆逐されていく有様をみて貞次郎は廃業して金融業に方向を転換した。同23年,三津浜町第一期の町長に就任して地方自治の発展に寄与した。同29年三津浜銀行を創立し頭取に就任した。翌年松山に愛媛農工銀行が設立されるに当たって取締役になったり,同年,三津浜魚市会社の取締役,大正8年には頭取となって業務の刷新,拡張に努力した。その他明治43年,女子師範学校が三津浜町に設立されるについても大きな役割を果たした。「愛媛の安田善次郎」ともいかれるほど理財の才にたけて炯眼よく大勢を洞察して誤らなかったという。晩年は三津浜教育会長や,三津尚歯会長にもなり,地域の公共事業にも大いに尽力した。長男正平も実業界の大立物として活躍をした。昭和20年2月12日,87歳で死去。
近藤 篤山 (こんどう とくざん)
明和3年~弘化3年(1766~1846)小松藩儒学者。宇摩郡小林村西条(現土居町)に明和3年11月9日高橋甚内の長男として生まれる。祖父の実家の姓を継いで近藤氏を名乗る。名は高太郎。6歳の時に母離別。10歳の時,凶作のため父は家財を整理し,別子銅山の役人となり移住する。 23歳の時弟容斎とともに大坂の尾藤二洲門に入り,刻苦勉励,二洲門三傑に数えられる。寛政3年二洲幕命により江戸に赴くと,篤山も父の許可を得て同6年江戸の二洲に学ぶ。同9年帰郷し,翌年川之江に塾を開いた。享和2年小松藩主一柳頼親に招かれ,小松・川之江両所において学を講ずるが,5年後小松に居を移す。竹鼻正脩とともに藩学養正館を創設し,また私塾緑竹舎,捨蒼亭を開いて子弟の教育に当った。師の二洲の学を祖述するとともに,身をもって率先,その徳化は広く及んだ。男子には立志・慎独・求己の三戒,女子には四如の喩で婦徳を説いたことはよく知られている。親に孝,自己に厳しく,誠実な篤山の名は口増に高く,盗賊も藩内には足を入れなかったという。「徳行天下第一」(佐久間象山書簡),伊予の聖人と言われたゆえんである。晩年は「篤」の字を分って「竹馬老人」と自称し,和歌をもつくり,歌会にも交った。『古霊教諭講義』『愚論』等を著したが,篤山の学は何よりその実践にある。またその詩文・和歌は『篤山遺稿』にまとめられている。弘化3年2月26日79歳で没し,格蔵山に葬られた。弟の容斎は西条藩侍講。篤山の跡は長子の南海が継いだ。離別の母再び嫁して生まれた異父弟に黒河石漁がいる。小松町立温芳図館には俳人長谷部映門の篤山講義録が蔵されている。
近藤 南海 (こんどう なんかい)
文化4年~文久2年(1807~1862)小松藩儒者。近藤篤山の長子として文化4年7月16日小松に誕生。幼名竹之助,のち勇之助。諱は春凞。字は光風。霞石,清世一閑人とも号す。幼時より父の薫陶をうけ,19歳の時,父の学友であった大坂の越智高洲の塾に学んだ。天保元年さらに江戸の昌平黌に学び,帰藩後子弟の教育に当たった。学行醇正,剛毅闊達で,その門から黒川通軌,田岡俊三郎らの勤皇家が育った。『海南家君遺筆』『南海樓詩稿』の著書がある。父『近藤篤山事略』を書き遺した。弟の箕山も南海の後を継いで,養正館の学頭となった。文久2年8月10日, 55歳で没す。
近藤 南州 (こんどう なんしゅう)
嘉永3年~大正11年(1850~1922)漢学者。嘉永3年5月1日近藤名洲の第3子として生まれる。幼名は貢。字は純叔。本名は元粋。明治3年(1870)藩命により,江戸に赴き昌平黌儒官芳野金陵に就き朱子学を修む。帰藩後3年間明教館助教となる。のち大坂に居を移し,一時京都に居住したが,また大坂に帰り,猶興書院を起こして子弟を教授すること40余年,来り学ぶもの頗る多かった。南州は資性剛直威容あり,学ぶ者自ら襟を正したという。愛書家にして蔵書2万余冊に及ぶという。
著書に『南州先生詩文鈔』・『興文新誌』・『蛍雪存稿』・『蛍雪軒叢書』・『新撰文語粋金』・『新撰漢語字引大全』・『増註春秋左氏伝』・『南州近藤先生詩文原稿』等がある。大阪天満の寓居で大正11年1月4日没した。行年71歳。人阪城北長柄の墓地に葬ったが,遺髪を松山に持ち帰り,近藤家菩提寺龍泰寺に埋葬した。諡号は「清徹南州居士」という。
近藤 南洋 (こんどう なんよう)
天保10年~明治34年(1839~1901)教育者。松山藩士近藤名洲の長男として生まれ,名は元脩。弟に近藤南崧(元弘)がいる。松山に生まれ,若くして江戸に出て,昌平黌に学び,帰藩して明教館の教授となり,維新後は少司教になり,晩年は私塾を開いて青年子弟を教育した。南洋の令名高く,遠方より来り学ぶものが多かったという。明治34年4月13日死去,62歳。
近藤 晴清 (こんどう はるきよ)
明治44年~昭和50年(1911~1975)教育者。明治44年9月1日,新居郡角野村立川山(現新居浜市)に生まれる。昭和6年愛媛県師範学校を卒業し,西条市飯岡高等小学校を振出しに,新居浜市角野小学校,今治高等女学校,新居浜高等女学校,新居浜西高等学校などの教諭を歴任して,同44年に退職する。その後日本地理学会,愛媛民俗学会,愛媛水利研究会の会員を務め,更に,赤石・別子銅山を守る会の会員として郷土史研究に取り組む。著書には『国領川流域に於ける水利の歴史地理学研究/愛媛のまつり』論文には「愛媛の水」「国領川の水」など,水の研究が多い。昭和50年6月,宇摩郡別子山村の別子鉱山史跡調査に出かけ,同村の赤石山系・権現山で遭難し,遺体で発見された。 63歳。
近藤 文太郎 (こんどう ぶんたろう)
天保10年~大正7年(1839~1918)愛媛県における珍味(儀助煮)製造の創始者である。
天保10年2月3日松山藩三津町(現松山市三津2丁目)で父元八,母カメの長男として生まれる。父元八は大福帳,掛売帳等の帳簿類の販売を家業としていた。文太郎は三津町で石崎平八郎が経営する船問屋(現石崎汽船の前身)の番頭として,また明治11年当時石崎船問屋の長浜支店長を務めたりして同家の繁栄に努めた。
文太郎は商売熱心なばかりでなく,書画を愛する文化人でもあった。明治6年日本のゴッホといわれる富岡鉄斉が新世帯の春子とともに地元に里帰りをし,近藤家に世話になって以来,主人の石崎平・八郎とともに鉄斉と親しく交際するようになった。その後間もなく石崎家を離れて独立し,三津町で海産物問屋,売薬請売業を営むほか,明治36年にはアサヒビールの特約販売店も行っていた。愛媛の珍味加工は一般に儀助煮と呼ばれるもので,小ダイ,エビ,アジ,ハゼ,デビラ,アオノリを味付乾燥加工を施したもので,明治22年近藤文太郎商店で製造し,鉄斉が古事記にある四国の別名二名島にちなんで「二名煮」と命名したのに始まったとされ,松前町でもおおむね同時期に製造が開始されている。
昭和40年3月四国珍味商工協同組合が松前町に事務所を置いて発足し,愛媛の珍味加工業は急速な伸びを示したが、特に小魚珍味においては全国シェアーの80%を本県で占めるまでに急成長を遂げた。近藤文太郎は基礎を築いたものでその功績は非常に大きい。大正7年5月30日没,79歳。
近藤 名洲 (こんどう めいしゅう)
寛政12年~慶応4年(1800~1868)心学者・漢詩人・歌人・六行舎主。寛政12年10月11日新居郡立川寸農業近藤元悳の次男として生まれた。幼名は広吉,後に平作,平格と改称。本名は元良。名洲,安楽道人,安楽閑人,菊松処士,州南処士,二名嶋処士と号し,また藤元良と自称した。8歳 父より素読を受け,16歳 讃岐に遊学,20歳,松山に帰り,大高坂天山に師事,ついで盲目の心学都講と称掲された田中一如につき心学を修め,六行舎二代舎主となった。さらに江戸に上り,大島有隣に就き心学の蘊奥をきわめ「三舎印鑑」を受け,「都講」として有隣の代講を務め,大名,旗本らの邸に招かれて道話し,大いに信望を得た。有隣の信頼いよいよ深く,代わって門弟らに「断書」を渡し全国各地に心学講舎を設立,門弟らに庶民教育,心学道話にあたらせた。
更に江戸,京阪,広島心学者らと連繋を密にして江戸心学,京阪心学,広島心学と並ぶ伊予心学圏を形成した。名洲の読書領域は,きわめて広く,心学必読書『四書』・『小学』・『近思録』は勿論,仏教高僧の語録,中国の名著,『文山詩集』・『徒然草』『元々集』・『菅家文艸』等を読破し,『中庸』を中心として独自の道徳倫理を体系化し,己が体験を交えて平易に道話したので道話会場に聴集毎回溢れた。著書には漢詩集『名洲詩草』・『洲南形声集』歌集に『元良歌集』紀行に『海陸日記』心学に『本心学聴書』・『心学問答』・『心学要語集』・『心学道話集』・『江龍襍記』随筆に『名洲文艸』等がある。心学道話巡廻中作の漢詩文・紀行文等も多い。名洲は大島有隣門四天王の一人として,単に伊予心学を発展向上せしめたにとどまらず,全国心学の興隆に功あり,近世庶民教育の第一人者であった。慶応4年5月18日,67歳で死没。墓碑は松山市御幸1丁目龍泰寺にある。
近藤 元弘 (こんどう もとひろ)
弘化4年~明治29年(1847~1896)教育者・心学塾六行舎主兼教授。松山中学校教諭兼校長心得。時習書院(松山市萱町3丁目)教授。
弘化4年11月1日近藤名洲の次男として生まれる。字は仲毅,寺人。南崧,鹿洲漁父,南国逸民と号し,藤元良と自称した。長兄元脩(南洋)弟元粋(南州)と共に「近藤三兄弟」と称された。 幼時,父名洲より素読を受け,次いで大原観山,武知五友,三輪田危行らから漢学,書道を学んだ。父名洲没後,六行舎を嗣ぎ,道話修行を積み,舎生を指導し,各地を巡回して心学の普及,庶民の道徳意識の高揚に務めた。元弘は篤く朱子学を信奉し,その日常生活への実践者で人格高潔,学徳共に高く,世人の尊敬を受けた。明治29年1月20日,48歳で没した。心学研鑽と共に漢学研究,漢詩創作にも精進を怠らず,著書もはなはだ多い。
『南陽閑適集』 9歳~16歳の漢詩集。
『間窓漫録』(二巻)慶応4年稿漢詩集。
『拙稿』明治2年頃の漢詩文集。
『南崧詩稿』明治12年~同16年漢詩集。
『詩文稿本』明治13年~同29年漢詩文集。
『南崧近藤先生詩稿』明治22年頃の漢詩。
『南崧近藤先生筆』明治24年「東遊詩集」
「東遊余興」「観光遊記」集
『南崧近藤先生筆』明治29年「拙稿」
「間居書懐」「詩稿」「脇ヶ渕紀行」集。
『南崧近藤先生筆並諸家詩稿』雑誌集。
『時習書院学規』刊行年不詳。 21か条。
『心学道話修行録』(二巻)
『心学要語集』
元弘の心学は,田中一如以来の六行舎教育の伝統を受けつぎながら,『四書』『小学』を特に重んじて題材を選んで平易に解説し「会輔」(討論会)を重視し,その結論の実践を強調した。墓碑は龍泰寺にある。
近藤 元晋 (こんどう もとゆき)
明治2年~昭和35年(1869~1960)教育者。松山藩の儒者近藤南洋の子で,明治2年12月2日,松山城下小唐人町に生まれる。愛媛県師範学校を卒業し,松山中学校,松山高等女学校,今治高等女学校,北予中学校で教鞭をとる。教育もさることながら俳人,詩人としても知られ,とくに俳句は,我観と号し,松風会常連の一人となり,子規や漱石らと交際し,子規から「散策集」草稿を贈られるほどであった。漢詩の号は小南といい,数々の名詩を詠じた。昭和35年4月14日, 90歳で死去。
近藤 元良 (こんどう もとよし)
寛政12年~慶応4年(1800~1868)松山の心学者。寛政12年10月11日生まれで,幼名は広告,のち平作,また平格。名洲,安楽閑人,安楽道人,南松山人などと号した。農業の暇に父に学び,讃岐某家に寄宿して学問し,20歳の時松山に出て南学派儒者大高坂天山に師事した。儒学を究める一方,心学の田中一如に学び,一如没後は六行舎二代目教授となった。元良は終生この二人の師を敬慕した。文政10年江戸遊学に出立,大島有隣について学ぶ。善導印鑑をうけ,文政12年帰松,翌年は広島・三原等に講話に赴く。天保6年(1835)再度江戸遊学を志し,参前舎にて三舎印鑑を受く。翌年帰松するが,梅岩門正統教授として全国的な心学の興隆に尽くした。天保11年には三度目の江戸遊学に向い,翌年帰松,南予,久万等へも巡回講話。有隣四天王の一人と称せられ,伊予のみならず全国的な社会教化に大きな功績を残した。『名洲詩草』『名洲文艸』のほか江戸遊学,各地巡回はそのつど紀行文として書き残した。また和歌をよくし,『元良歌草』がある。慶応4年5月18日67歳で病没,龍泰寺に葬られた。次男の元弘が六行舎を継いだ。
近藤 林内 (こんどう りんない)
文化15年~明治21年(1818~1888)文化15年1月9日,温泉郡三内村河之内日浦(現川内町)に生まれた。諱は是正。 10歳にして本家近藤是衡の養子となり, 21歳で相続,妻帯した。勤倹にして父祖の遺産を倍増し,常時200俵の米を備蓄し,貧農民に援助し,農事を奨励。学校・道路・堤防・橋梁,路傍に植樹など公共事業に尽力し,村政に尽くした功績は大きく,松山藩主・愛媛県知事から度々褒賞された。風流人としては,白猪・唐岬の二深布を発見し,世人に紹介し,明治維新以後歌人井手真悼・俳人宇都宮丹靖らを招き,没後に正岡子規・夏目漱石らも探訪した。南無庵五蕉門で五楊・湧翠舎・清翁と号して俳諧を嗜み,遺稿を家に蔵すという。金儲けの法を聞かれたとき,「身宝は芋に大根に麦の飯」と答えたと伝えられているが,自ずと俳句形態になっており,生活文化化の一面が感ぜられる。仏教を信奉し,無縁仏の法要,寺院への喜捨などにより,真言宗管長から褒賞をうけ,明治21年1月4日没。享年70歳。川内町最初の村政功労者でもある。恭恵院清翁是正慈善菩薩の謚を贈られ,墓誌銘は高志大了が撰文,三輪田米山が揮毫している。墓誌銘には文政9年に生まれたようになっているが,文政元年の誤りではなかろうか。
五島 キヨミ (ごとう きよみ)
明治34年~昭和38年(1901~1963)社会福祉・社会教育家。
明治34年4月2日伊予郡中山村(現中山町)で上田吉五郎・ツギの四女として生まれる。大正8年松山技芸女学校卒業後,伊予郡内の小学校や実業補習学校・松山技芸女学校で教鞭をとり,昭和6年,五島傅(松山商科大学教授)と結婚,翌7年教職を退き,婦人会活動に参画した。戦後,里親となって孤児の世話をしたことから児童福祉事業に心血を注ぎ,昭和28年,私費を投じて養護施設私立朝美親和園を開設,理事長兼園長となった。園はその後,五島の努力はもとより,白方大三郎らの後援を得て収容定員を増し,昭和35年に社会福祉法人となった。この間,五島は松山市社会教育委員・県民生委員・児童委員・市連合婦人会副会長・松山家庭裁判所調停委員としても活躍した。昭和38年10月31日, 62歳で死去。
五条 頼遠 (ごじょう よりとお)
生没年不詳 南北朝時代の南側方の公家。法名は宗金。頼元の子。兄頼氏が早世したので,五条家を継承した。早くから父頼元とともに征西将軍懐良親王につかえ,頼元死後は九州における南朝軍の中心人物となった。伊予国関係では,正平20年(1365)に征西将軍府に帰順した河野通直(通堯)との関係が知られている。天授3年(1377)には,九州における今川了俊との合戦の状況を報じて河野通直に味方を求める書状を2通発している。(築山文書)他にも年末詳であるが,宗金名の河野通直あて書状を3通確認することができる。
五条 頼元 (ごじょう よりもと)
正応3年~正平20年(1290~1365)南北朝時代の南朝方の公家。父は清原良枝。頼元の時から五条を名乗る。早くから後醍醐天皇に仕えていたが,延元3年(1338)懐良親王が征西将軍として九州に下るにあたり,その扈従を命ぜられた。瀬戸内海を西下していく途次延元4年ころ伊予国風早郡忽那島(現温泉郡中島)に立寄り,3年間にわたって滞在した。忽那義範に保護され,延元4年の4月と6月付けで頼元(この時の官途は勘解由次官)の奉じた懐良親王令旨が義範あてに発せられている。また『忽那一族軍忠次第』には「勘解由次官父子鎮西渡海事」と記されている。
九州到着後もたえず懐良親工の側にあってこれを助け,正平16年(1361)には大宰府入城を果たした。正平20年(1365)筑前国三奈木荘(現福岡県甘木市)で死去し,子の良遠が跡をついた。子孫は南北朝合一後九州に土着し,大友氏,立花氏などに仕えた。
後藤 朝太郎 (ごとう あさたろう)
明治14年~昭和20年(1881~1945)学者。明治14年・4月16日松山に生まれる。号は石農と呼ぶ。松山中学校から第五高等学校,東京帝国大学文科(中国語)を卒業。大陸金石史を研究するため中国へ渡ること十数回。著書には『文字の研究』『支那文化の研究』『翰墨行脚』など多数ある。昭和20年8月29日交通事故で死去. 64歳。
後藤 正利 (ごとう まさとし)
明治18年~昭和20年(1885~1945)神職,教育者。明治18年5月15日,伊予郡松前町に生まれる。明治39年愛媛県師範学校を卒業し,松山市和気小学校長や愛媛国学館の主事などを勤め,学校教育者と尽力したが、県の社会教育の講師や愛国婦人会の講師として社会教育にも多くの功績を残した。また,松前町徳丸の高忍日売神社の社司でもあり,県神職会の指導的役割も果たす。アインシュタインと親交のあった川面凡児の高弟でもあって川面哲学の普及に力を注ぎ教育は知・情・意の徳目のうち特に意志の教育の重要性を強調した。昭和20年12月11日, 60歳で死去。
合田 国治 (ごうだ くにはる)
明治23年~昭和62年(1890~1987)明治23年3月2日父陣太郎の次男として宇摩郡川之江村上分(現川之江市)で生まれる。明治43年4月岡山県立高松農学校獣医科を卒業後善通寺第11師団獣医部に幹部候補生となり獣医少尉に任官,除隊後地元宇摩地区の獣医業務に従事する傍ら,当地宇摩郡のみに畜産組合が設立されていないことを憂い,関係者を誘掖要請して大正5年2月宇摩郡畜産組合(組合長 篠永恵次郎)を創立して技術員として組合組織の確立と畜産業発展のため献身的な努力を払い,多くの人々から高い信頼と賞賛を博した。やがて伊予郡畜産組合長の宮内長らに請われ昭和5年伊予郡畜産組合に専職することとなるが,以来その高邁なる識見と確固たる信念をもって郡内畜産の大宗である和牛の改良増殖に情熱を燃やして,先進地岡山県より優良基礎牛の導入,和牛改良同志会の結成,役肉用牛登録事業の普及など所謂灘牛の造成に心血を注ぎ,また折からの伊予種牛標準体型作成には重要メンバーとして参画し,昭和9年作成を完了した。また戦後畜産振興事業の基盤として打ち出された畜産模範村には,和牛で下灘と広田とが指定されるなど実績が買われた。一方肉牛振興についても当時困難の多かった肉牛取引の改善を唱えて産地直販東京出荷の先鞭をつける等流通面での革新は異常なまでに関心を呼んだものであった。又県内で唯一つ畜産組合が率先して実施し九牛の削蹄の定期集団実施体制は今も高く評価されて家畜の事故防止や,生産性向上の基本として継承が望まれているなど功績は多く,殊にその人柄が清廉潔白にして昔の武士道的精神と反骨精神にも富みながら,業界の融和や親睦,あるいは後輩の育成指導等にも格別の意を用い,また関係者以外との交流も多く,卓抜した人材であったと周辺は絶賛する。こうした経歴により昭和8年陸軍大臣,農林大臣よりの感謝状に始まり,農林省農政局長,岡山県知事等4回の感謝状が贈られ,昭和18年の県畜連会長表彰に始まり農林大臣(2回),伊予市長,愛媛県知事(畜産功労者)など9回の表彰を受け,この間昭和37年11月30日には黄綬褒章を贈られ,次いで昭和40年11月30日勲五等瑞宝章の叙勲の栄に浴して,昭和62年9月24日,97歳の健康長寿をまっとうした。
合田 鶴太郎 (ごうだ つるたろう)
明治19年~昭和54年(1886~1979)地方自治功労者。明治19年7月20日,宇摩郡三島村(現伊予三島市)に生まれる。明治34年3月に三島尋常高等小学校を卒業し,同34年4月,宇摩郡立宇摩農学校二種に入学し同37年卒業する。同37年上京して,東京大手町商工中学校3年級へ入学し,同40年卒業と同時に早稲田大学独法科へ入学するが,同43年,中途退学をする。大正11年から昭和11年まで三島町会議員当選以来4期勤続する。その間大正13年には銅山川疏水組合の常任監事に当選し,昭和17年副組合長に就任するまで続ける。昭和11年から昭和14年まで三島町長に就任し,同19年からは再度三島町議会議員となる。同25年には銅山川疏水組合長に就任する。疏水事業は宇摩地方地元民百年の念願であり,合田は40有余年この事業の完成に努力し一生をささげた。また,組合立宇摩実科高等女学校の開校に尽力したり,三島保健所の開設や,三島築港第二工事の国庫指定港の認定に奔走し築造する。また省営バスの伊予三島~阿波池田間の開通にも大きく貢献した。昭和34年には黄授褒章,同40年には勲五等双光旭日章,同48年には愛媛県功労賞を受賞する。同52年には伊予三島市名誉市民となり,昭和54年4月27日, 92歳で死去。同日,従六位に叙せられる。
合田 尚正 (ごうだ なおまさ)
生没年不詳。戸長・初代寒川村長・県会議員。宇摩郡東寒川村(現伊予三島市)大庄屋見習,元治元年大庄屋を西条藩から拝命した。明治5年5月宇摩郡大里正, 7月第二大区副区長,7年6月11小区戸長を経て,12年2月寒川戸長に任ぜられた。 18年1月三宅良治の補欠として県会議員になり,19年3月まで在職した。 19年1月小川山村長,23年初代寒川村長に就任, 30年8月まで在任して村政に尽力した。
合田 福太郎 (ごうだ ふくたろう)
万延元年~大正10年(1860~1921)土居村長・県会議員・衆議院議員。宇摩郡土居村(現土居町)で精米・瓦製造業を営む合田基次郎の長男に生まれた。小学校を終えて尾崎山人(星山)の松菊舎に入り,頭角を現し星山の高弟となり天口の号を与えられた。明治12年10月愛媛県師範学校に入り,15年卒業後郷里の小学校で訓導兼校長を務めた。明治22年町村制の実施に伴い初代の土居村村長に推され, 24年11月には後援者山中好夫に譲られて県会議員になり, 31年まで在職した。明治31年3月進歩党から推薦されて第5回衆議院議員選挙に第4区から立ち当選したが,同年8月の衆院選挙には出馬を辞退して,32年9月県会議員に返り咲き郷里関川の大水害に対する県費復旧運動を展開した。35年8月の第7回衆議院選挙で国会に帰り, 36年3月, 37年3月の選挙で連続して当選,憲政本党一国民党に所属して犬養毅と親交があった。政界が次第に党利党略に終始するのを嫌い,明治41年5月の衆議院選挙を機に政界を退き,故郷に帰り悠々自適の生活に入ったが,大正7年村民から要請されて再び土居村の村長を勤め,青年たちを教導することを楽しみにした。大正10年5月29日病が悪化して61歳で没した。その墓碑銘は犬養毅が記した。
郷野 基厚 (ごうの もとあつ)
慶応4年~大正6年(1869~1917)植物学者。慶応4年7月15日松山に生まれる。明治22年愛媛県師範学校を卒業し,続いて東京高等師範学校に進み,同26年卒業,母校愛媛県師範学校で博物科教諭となる。その後,福島・三重・高知・千葉女子の各師範学校に勤める。東京高等師範時代に斎田功太郎博士に師事して,下等植物研究の道に入り,本県の皿ヶ嶺,岩屋寺山などで蘚苔類の採集に力を注いだ。その間,採集した標木の不明のものは,フランスのカルドーやフィンランドのブロテルスなどの蘚苔学者に送って指導を受け,数種の新種を発見した。教え子の中には山本一など植物研究家と著名な学者も多い。千葉女子師範学校長,愛知女子師範学校長を務め,大正4年教育界を退いた。大正6年12月14日,48歳で死去。
兀庵 らい徴 (ごったん らいちょう)
生年不詳~文政12年(~1829)大洲如法寺僧。如法寺所属遍照庵の三世住持で,好学高識見,聡明な人となりの僧であった。如法寺開山盤珪禅師の徳業・宿徳が年々薄れ行くことを憂い,如法寺を中心にして末寺などに伝わる如法寺盤珪禅師の説法・書簡・和歌などの関係資料や,遺弟の行動や教育・政治・生活・風俗がすべてわかる資料を収録した『冨土山志』全20巻を盤珪死後106年に当たる寛政10年(1798)に編さん完成させた。