データベース『えひめの記憶』
伊予市誌
3 公料替地
南神崎村復帰
麻生水論(別項参照)において大洲藩の味わった民政上の苦痛は、各藩の領地交錯による繁雑さと、南神崎村が松山藩御預所であるための困難さとであった。それらからの脱却のため、上地しか公料の村替えを幾たびか願い出た。ついに一七八〇(安永九)年四月二日に許可され、南神崎村は藩領に復し、代わりとして忽那嶋大浦(一部)・小浜・粟井三村と、飛地領摂津国武庫郡池尻村・南野村を上地し、またこれを大洲藩預所とすることも許可された(『江戸御留守居役用日記』加藤家蔵)。この報知は急飛脚で四月一四日朝大洲城下に到着、一六日には郷目付兵頭政右衛門・村上孫六が麻生村に入り込み、各村庄屋役人・長百姓を呼び出してこのことを布達した。
村の受取
南神崎村の授受は、五月一八日大洲・松山両藩役人が宮ノ下村庄屋宅に会合して行われた。
松山方
代官 猪口(子)平助 目付 橋本 源吾
徒目付 増田 佐兵衛 地方掛 山川 市之兵衛
同 林 忠助 手代 尾崎 弥次兵衛
同 平尾 庄八 同 河辺 嘉左衛門
下目付 湯上 友八 足軽四人
大洲方
郡奉行 藤江 善左衛門 同 神山 市郎兵衛
同 小野伝五右衛門 大目付 郡 市兵衛
代官 岡井 金助 中見 岡本 由助
御目付 矢野与次右衛門 同 村上 孫六
手代 井上 藤九郎 足軽四人
藩は五月一九日宮ノ下村・上野村百姓を残らず呼び出し、右大洲役人列席して復領のことを申し渡した(以上『玉井家文書』「先祖代々扣」玉井達夫蔵)。なお、この日替地代官は次のように布達した(『玉井家文書』「庚子歳御触状写」文部省史料館蔵)。
わざと申し触れ候、然らばかねても承知これ有り候通り、南神崎村、代地差上げられ御領分相成り候て、昨十八日御請取り相済み候粂、以来万端不都合これ無き様に申合わさるべく候、百姓共も和睦相互に助合い候様、端々まで御申達これ有るべく候、以上、
五月十九日 河内平左衛門
岡井 金助
更に郡奉行からは、公式に南神崎村上野分は古来のとおり上野村と一つに結び支配せよと、庄屋和助に命令した。
藩は村名について、南神崎村上野・南神崎村宮ノ下と記すよう一度は命じたが、七月一日の触状で「南神崎」は除くように再達した。