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久万町誌

五 子供の遊び

  白 黒
 一五㌢ぐらいの長さの竹を一㌢幅ぐらいに割り、それを八本使って遊ぶ遊びである。
 八本の竹を手に握り一二、三㌢ぐらい上になげあげ、手の甲にて受ける。その際片方の端が台の上(遊ぶ場によって異なるか、竹を置く場所である)についても、全部受けられなくて、一本や二本落ちてもよい。ただし、その落ちた竹が表皮のついているほうか、若しくは肉の部分か、どちらかにそろっていることが条件で、そろってないとだめである。そろっておれば、手の甲で受けた竹を、落ちている竹と同一の状態に手の甲で振り返しながら落としていく。八本が全部同じ方向にむけることができれば「一貫貸した」といって続けてやることができる。全部が同一の状態に落とせないと相手と交替する。大勢でやるときは次の順番の者と交替する。だから人数はふたり以上でありさえすればよいわけであり、「一貫貸した」「二貫貸した」といってその貸しが多いほどよいという遊びである。貸されたほうはなんとかして返すというわけで、自然手の動きにくふうを凝らすことになる。この遊びは江戸時代の終わりころから、昭和一五年ごろまであった遊びである。これは主として女の子の遊びであった。
  コマ回し
○タタキゴマ 直径三㌢から四㌢ぐらいの木で長さ六、七㌢のものをその片方を削って円錐にして作る。たたくむちは藤かずらの髄をとって五〇㌢ぐらいとし、その先に、布ぎれか、かずらの表皮の四〇㌢ぐらいの長さのものを結びつけて、その布でコマをたたく。これは男の子が秋から冬にかけて始める遊びである。また春先、日当たりのよいところでやって遊んだりもする。長い間回ること、すなわち、一度回り始めるとそれが長く続くのが自慢であった。止まりかけると手にしたむちでたたき、勢いをつけて回す。たたいてから次にたたくまでの間が長いのも自慢の一つであった。最初回し始めはむちの先の布をコマに巻きつけ、コマを地面に押しつけたようにしておいてむちを強く引き同時に押しつけていた手をコマからはなす。そのはなしかた、引き方によってコマが回ったり、回らなかったりしたものである。このたたきゴマは、大正の終わりころから、ブリキで作り、回すと音が出るように円筒形の部分に五㍉くらいのすきまが作られているものとなって店頭にあらわれた。買うのは、お金もちの子で、貧乏人の子は自分で木を削って作った。自然遊ぶときにも木は木で、ブリキはブリキで仲間を作っていた。お正月のお年玉でようやく買って、ブリキの仲間に入れてもらうこともあった。
  コマのけんか
 昭和の初めころから、心棒が鉄でまわりに鉄の輪をはめたコマが店頭に並びだした。これは細い綱を巻きつけてほうり投げ、綱を引くと回る。回る時間が相当長いのでその時間の長さを競ったり、回っているコマの心棒に細い綱をかけて、他の回っているコマに当てて、相手のコマを止める。早く止まった方かまけである。これも男の子の遊びであった。のちに、コマの鉄のわくが部厚く重くなってきた。これはけんかゴマといって、相手のコマが回っているところへ投げつけて回し始める。この投げつけたとき、相手のコマの木の部分が割れたり、回っているのが止まったりしたら相手の負けであった。
  その他のコマの遊び
チョンカケ 細ひも(糸づな)でコマを回し、その細ひもで回っているコマの心棒を空中につるし上げ、ひもを長く延ばしたり、短く引き上げて遊ぶ。ひもを長く延ばすとき、コマの回転を早くするため右手と左手のひもの端を強くときどき引く。延びきったところでコマを空中にほうり上げ、ひもを短く持ちかえて、コマの心棒を受ける。
  コマを上下に動かすだけでなく、大きく前のほうに揺り出す。これを大振りとも言う。このとき足を上げてその下をくぐらせたりもしてその技を競う。
  ねんがり
 秋、とり入れの終わった田へ出て棒ぐい(長さ七〇㌢くらい、直径五㌢くらい)を投げつけて立てる遊びである。
 とり入れの終わった田へ、子供たちは、それぞれ棒ぐいを五本、一〇本と用意して集まってくる。はじめ各自一本ずつ投げて立てておく、ジャンケンで順番を決め、その順番で自分の捧ぐいを取って仲間の棒ぐいに打ちあてて倒す。相手のが倒れ自分のが立っていれば勝ちで倒れた棒ぐいは自分のものとなる。勝てば失敗するまで続けてやれる。自分のがうまく立たなかったり、相手のが倒れなければ失敗で次の者と交替する。勝った子供は夕方には棒ぐいを大きな束にして持ち帰ったりもした。主として男子の遊びであったが、男まさりの女の子も仲間に入って騒いだようである。秋のとり入れごろから雪が降り出すまでの遊びであった。
  めんがえし(めんざいく)
 この遊びは、明治の終わりころまであったらしい。駄菓子屋へ行くと直径一・五㌢から、二㌢くらいのもので土で作った小さなおたふくや、ひょっとこ・さる、などの面を売っていた。それを買ってきてやるわけである。ひとりが一個ずつ出し合い、じゃんけんで競技の順番を決める。競技者は表とか裏といって、手に持った面(参加者の出し合った面)をほうり投げる。投げられる面が、競技者のいったとおり表なら表に、裏なら裏に、全部がなっていればとれるがでないと取れない。取れたら、みんなに出し合ってもらって続けてやれるが、失敗すると次の競技者と交替する。この遊びの問題点は参加者が多いと面が取れにくいことと、面を買うのにお金がいるということであった。
  たなばた紙のつり合い
 木綿針に糸をつけ、その糸の端を片方の手で握り、片方の手に針を持って、たなばたさまの時に使う短冊の色がみに投げつけて立てる。このとき、紙は参加者が同数ずつ出し合いそれを積み重ねておく。積み重ねた紙に深くさされば一度に多くの紙が釣り上げられる。浅ければ釣り上げる枚数が少ない。釣り上げた枚数だけ自分のものとなる。この遊びは、たなばたの前後一週間くらい行われたものである。
  たこあげ
 これは正月に行ったものである。(「秋の地方祭」ころから正月あけまでで中心は正月であった。)
 子供たちは自分で竹を細く削って竹ひごを作り、仙花紙(キズキ半紙)を用いて自分の好きな大きさのたこを作る。ほとんどは四角なたこであった。これに字を書いたり絵を書いたりして作り上げる。字や絵はたこがよくあがるようにというので龍が多かった。たこ合戦にちなんでショウキ様の絵もあった。
  カルタ
 カルタ遊びは、子供とおとなでは違っていた。子供たちは主として「犬ぼうカルタ」おとなは「小倉百人一首」のとり合いである。正月前からはじめて、正月一か月間ぐらいは毎夜、隣近所から若衆や娘が一か所に集まり、カルタ会を催したらしい。金色夜叉の歌の文句に「カルタの会が縁となり」とあるように、若い男女の交際の場でもあった。