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久万町誌

一〇 海外移住

 明治元年のハワイ、及びグアム島渡航にはじまる日本人の海外移住は、同一八年、組織的に再出発したハワイ移住を中心に、アメリカ・カナダ・豪州へと拡大し.明治三二年に、はじめてペルーへの渡航開始となった。やがて、アメリカ・カナダおよびオーストラリアの日本人入国制限となり、ハワイがアメリカに合併されて同様の制限が加えられたのは日清戦争から、日露戦争にかけてのころである。
 明治四一年、ブラジル移住が始まり、第一回七八一人が出発した。これが有名な笠戸丸である。
 そのころペルーの移住者は六三〇〇人に達していた。なお昭和四二年は、ペルー移住がはじまって六八年、ブラジルは五九年に当たる。
 戦前の昭和一六年末で、南米移住者の総数一四万四五○○人・内訳は、ブラジル一九万人・ペルー三万三〇〇〇人・アルゼンチン五四○○人・チリ・ボリヴィア・パラグアイ等五○○人内外であったが、戦争で一時中断されることになった。
 戦後の復興安定とともに移住事業も再開され、昭和二七年一〇月、神戸移住斡旋所が開設され、ブラジル・アマゾン移住五四名が初めて出発、その後、南米各地との外交交渉も進んで、全国的に移住事業が進展したのである。
 愛媛県においても、農村二、三男対策、人口問題等から海外移住事業を積極的に取りあげ、県職員を現地調査に派遣したり、昭和三四年には久松知事も現地視察を行って、県下に現地の報告や、移住の普及を行ったりした。
 久万町でも、昭和三一年旧父二峰村農業委員会、(会長横田村長)が、移住推進協議会を組織し、続いて、久万町・川瀬村も郡内各町村と呼応して、移住に取り組んだが、三四年の町村合併により、全町的な移住推進協議会を編成・農業委員会・農業協同組合長・公民館長・婦人会長・青年団長が委員となり、啓発・移住計画・財産処理・予備登録・送出斡旋等を行い、町役場は、海外移住奨励条例を設けて、助成金を交付することにした。
 啓発については、高知県大正町の助役を中心とする集団移住者の山脇某が帰国の機会をとらえての現地報告会、県の職員による映画会・説明会等を各地域で催した。
 最初は、独身者の雇用移住が次第に自営移住となり、家族あげての移住へと進展した。
 昭和三五年には、日野町長が仲人役で、役場職員が移住青年と結婚、渡航したこともあった。
 また、移住開拓資金の確保については、財産処分と、移住振興会社の一戸五〇万円融資の利用を行わせたり、移住者の出発前に財産処分の資金が間に合わぬ時は、農協で立替融資をした場合もあり、神戸にまで出かけ出航見送りも行った。
 こうして、昭和三六年末までに、三九戸、二七四人の移住実績となった。
 昭和三八年九月、日野町長は、全拓連南米調査四二名の代表に加えられ、四〇日間にわたり、南米各地の移住地を訪問、激励するとともに留守家族からの伝言、手紙を、久万町移住者に手渡したが、移住者は出身地の町長訪問を大変よろこぶとともに、開拓基礎の見通しのついた各自の模様を郷土の人たちに伝えてほしいという強い要請もあった。
 帰国後、町長は移住留守家族や町民にスライドと講演で現地の報告会を催した。
 しかし、昭和三五年以降における我が国の経済成長による、人手不足、あるいは現地の受け入れ体制、経済状況などの関係もあって、農業移住は、中断しているが、昭和四一年度末における戦後移住軒は中米一五六五人、南米六万八二九一人となっている。
 なお、今後における移住は現地からの要請もあり、国の方針からも従来の農業移住民から技術移住民へと変わりつつある。
 ともあれ、久万町から送り出した三九戸、二七四人は、もう営農生活の基礎も固まって明るい前途を約束された者が多い。
 久万町からは、昭和三六年一二月に海外移住者として送り出したのが最後となった。
 我が国では余剰労働力の対策として、海外移住施策を進めてきたが、工業化の進展や経済成長によって、国内雇用は増加し、農村からの人材確保によって工業化を一層進めることになった。
 久万町からの移住者の中には、帰国した人もいるが、大半は現地で農地を広く所有し、現地の人を雇って農業経営を拡大している人や、養鶏業、農機具及び自動車工場、レストラン経営などそれぞれに成功している。また、最近では現地で生まれた子供たちが立派に後を継いで家業に励んでおられる様子も、一時帰国して河野町長に報告があるたびに承知することができるわけである。最近では年間一世帯か二世帯の方が帰町され、移住当時から変っている久万町に驚いている。

久万町海外農業移住者一覧表(昭和30年~36年)

久万町海外農業移住者一覧表(昭和30年~36年)