データベース『えひめの記憶』
四国中央市
紀井為一郎(1880〜1967)
明治13年~昭和42年(1880~1967)銅山川疎水功労者。明治13年3月2日宇摩郡川滝村(現川之江市)の資産家に生まれる。京都美術学校を経て岡山市で美術倶楽部を経営していたが、大正2年郷里に帰り、以後銅山川疎水の開設に心血を注いた。
水不足に悩む宇摩郡では安政年間(1854~1860)から疎水計画が立てられていたが、紀伊が乗り出したために計画は本格化した。ただ、彼の計画は個人企業の要素が強かったため挫折、大正13年以降は山中義貞・合田鶴太郎・森実盛遠らによって、公営による疎水実現運動が進められた。銅山川疎水運動の口火を切った紀伊も疎水組合や期成同盟会の常任幹事としてこれに参画、昭和28年には柳瀬ダム(金砂湖)が完成、翌29年には銅山川の水が法皇山脈中の隧道を通って宇摩平野へ流れ込んだ。なお、銅山川疎水は、発電用水・農業用水・工業用水として利用され、現在の伊予三島市・川之江市の発展に大きく寄与している。昭和42年2月24日86歳で死去。(『愛媛県史 人物』より)
①戸川疏水公園 四国中央市上柏町1273-2 |
②銅山川疏水功労者頌徳碑 四国中央市上柏町1273-2 |
③銅山川発電所前のある水車 四国中央市上柏町12731付近 |
④銅山川発電所につながる排水管 四国中央市上柏町12731付近 |
⑤紀伊為一郎翁頌徳碑のある風景 四国中央市上柏町乙155付近(四国中央市老人福祉センターのそば)) |
⑥紀伊為一郎翁頌徳碑 四国中央市上柏町乙155付近(四国中央市老人福祉センターのそば) |
⑦金砂湖 四国中央市金砂町平野山 |
⑧銅山川 四国中央市新宮町馬立(古野橋から撮影) |