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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)除虫菊花盛りのころ

 「除虫菊牛追う人の見えかくれ」、「島山の段畑うずむ除虫菊」(上浦町誌より)
 除虫菊の花咲くころ、瀬戸内の島々一帯の畑は、遠目には雪かと見まがうほど、白一色に覆われていた。大正から昭和の初めにかけて生まれ育った、この地方の人々にとっては、朝な夕なに見慣れた風景であり、その独特の強い花の香りをついて駆けずり回った山野には、少年の日の思い出がある。島の人たちは、この除虫菊を語るとき「キク」と短く呼ぶ。そして、その語韻に懐かしい親しみがこもる。
 除虫菊は、ユーゴスラビアが原産地で、地中海に面したダルマチア地方の山野に自生していた野菊の一種である。初めは鑑賞用に用いられていたが、ある家のお手伝いさんが枯れた除虫菊を捨てておいたところ、その回りで昆虫が何匹も死んでいるのを見つけ、以来その花の殺虫効果が研究されるようになったという。
 1950~1960年ころには、ヨーロッパやアメリカの各地で除虫菊の栽培が広がり、この花の子房に含まれているピレトリンを原料とした殺虫剤が、次々に開発されていった。我が国では、明治18~19年ころ除虫菊が輸入され、民間人を含めて数例の試作記録がみられるが、この中で、明治19年(1886年)にアメリカ系統の除虫菊種子を手に入れた、和歌山県の上山英一郎氏のまいた種だけが、日本の土に根をおろして実用栽培に成功したのである。除虫菊は、マーガレットによく似た白い花である。しかし花はそっくりでも、マーガレットには殺虫成分のピレトリンが含まれていないところに違いがあり、当時アメリカでは、除虫菊をインセクト・フラワーと呼び、日本では「シロバナムシヨケギク」と名付けられた(③⑦)。
 和歌山県から出発した除虫菊栽培が、広島県側の芸予諸島の島々を経由して、本県に取り入れられたのは明治30年ころからであり、折に触れて行き来の多い広島県側からの情報も伝わっていただけに、この換金作物に対する農家の関心は高かった。
 越智郡鏡村大見(現大三島町)の渡邊小三郎氏は、日露戦争に従軍の後、農業収入を上げるためにリンゴ・ミカン・除虫菊など、いろいろな作物を試作していた。ところが、ミカンなどの果樹類は、植え付けてから収穫するまでの期間が長いので、種をまいてから短期間で収穫できる除虫菊の栽培に中心を置くようになった。明治41年の実績では、除虫菊乾花の収穫量は1反歩(10a)当たり約33貫(124kg)、1貫の単価が3円で取り引きされていたので、反当たり粗収入は99円になる。ということは、その時点での麦の価格が一石(150kg)当たり5円であったので、換算すれば、約6反歩(60a)の麦作に相当する収益をあげたことになる。
 彼はその後、瀬戸内海の気候に適した早生系の新品種「大見早生」を育成して世に出し、その努力や功績がたたえられた(⑧)。
 盛口村(現上浦町)一帯も、大正初期から昭和の中期まで、ほとんどの農家が除虫菊栽培を取り入れ、多い農家は5~6反歩(50~60a)もの面積を作っていたので、収穫してから出荷するまでの花の調整作業が大変であった。刈り取った除虫菊をマンゴク(千歯)で花を落とし、これを露天で乾燥させる作業である。**さんの思い出の中にも、「この時期になると、空き地という空き地はもちろん、島の幅の狭い道にまではみ出してムシロ干しをするのである。ところが、雨がボロボロということになるとさあ大変。今手をつけている仕事の何もかも放り出し、何十枚にも広げたムシロ干しの花の取り片付けを急がねばならない。お年寄りも子供も、手伝える者は全員総がかりの大仕事であった。」と語る。
 価格の変動の大きさもまた、除虫菊作りの悩みの種であった。我が国の除虫菊栽培は、世界最大の需要国であるアメリカ市場の開発によって、飛躍的な伸びを見せ、大正8年には、世界総生産高の80%を占めるまでに発達したのである。その反面、同国内の価格変動と輸出量の増減が、逆に国内価格に反映して、除虫菊の価格が激しく揺れ動く要因となっていた(③)。
 除虫菊の取り引きは、商人や製造業、輸出業者の支配下に置かれ、そのうえ、乾燥した花は貯蔵力に富んでいたので、価格の激変に際しては、取り引き商人や企業家の格好の投機的材料になったこともある。このようなことから、除虫菊は俗に「きつね花」と呼ばれ、虚々実々の駆け引きが行われた時代もあったという。本県では昭和10年(1935年)の1,788haをピークに、昭和17年までは1,000ha以上の面積を保ち、全国でも屈指の除虫菊産地として位置付けられていた。しかし上浦町周辺での販売方法は、浜売りと呼ばれる商人相手の取り引きがほとんどであるため、価格の変動に対する生産者の思惑は、後手後手に回ることが多かった。
 変動する価格を安定するため、本県及び広島県の経済農業協同組合連合会では、その協力によって、昭和38年(1963年)から、あらかじめ価格を取り決めて栽培に取りかかる契約栽培方式を確立した。その結果、一時低迷しがちであった除虫菊栽培が再び上向きに転じたものの、そのころ急ピッチで高まったミカン栽培への動きは、それを上回り、瀬戸内海一帯に一時代を築いた除虫菊作りも、昭和45年くらいからその姿を見ることができなくなった。

写真3-1-6 除虫菊栽培の先覚者上山英一郎氏を祭る除虫菊神社

写真3-1-6 除虫菊栽培の先覚者上山英一郎氏を祭る除虫菊神社

広島県御調郡向島町八幡神社境内にて。平成3年12月撮影