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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(7)曲がり角に立つ地域農業

 少なくとも、昭和40年ころまでのミカン栽培に不安を感じた農家はいない。「作れば売れる、売れればもうかる」のミカン景気は、農業構造改善事業などを背景に急ピッチで栽培が拡大されていった。そして、その結果が43年の暴落、ついで47年の暴落と続き、それまでのミカン栽培にかげりが見え始めた。
 **さんは「あのころから、朝のフェリーに乗る人が、どっと増えてきた。」と語る。それまでミカンに力を入れてきた人たちが、価格の暴落による収入減を補うためには、どうしても何かの仕事にありつかなければならない。ほとんどミカン一色に塗りつぶされてきた上浦町の農業にあって、ミカン価格の慢性的な安価は、これまでの生活パターンを崩さなければ、とても家計が保てなくなってくる。こんな思いが、ミカン農家をして、他産業への足を早める原因となった。
 幸か不幸か、このような事態に至ると、上浦町には手近な所に働き場所が多い。そのころ、まだまだ盛況であった造船業界や大島石の採石場など、フェリーを利用すれば、家からの通勤が十分できる範囲にある。芸予諸島のそのような就業構造が、上浦町の農家にも生活変化を起こさせていった。いったん農業を離れて給料生活に入った人たちが、再び農業へ復帰することは難しい。それを証拠に、就業先の造船業界が不振続きで失業者が多く出た。その中にミカン農家から転身した人も少なくなかったが、彼らが選んだ道は再就職へのコースであった。
 これは、農業を取り巻く情勢に明るい材料の少なかったことも原因の一つであるかもしれない。米の減反政策や農畜産物の自由化問題は、消費構造の変化や対外貿易のバランスへの対応という視点からとらえる側と、競争力の弱い農業生産へのテコ入れを念ずる側とでは論点が違う。しかし、いずれにしても、その渦中で生きていかなければならない農家にとっては、「どのようにすれば生活できるか」といった切実な問題があり、その選択の是非をここでは問えない。
 **さんが選んだ道は、初心の通り、「農業に生きる」ということである。町の農業委員やミカン出荷組合の役員でもあった**さんには、自分の経営もさることながら、上浦町や井口集落の農業の方向付けを、どのようにするかということが課題でもあった。そして、役場や農協などとも、何度も話し合いを重ねて、その将来方向を検討した。その結果、上浦町では、これまでの温州ミカン中心の経営から、伊予カン、ハッサクなどの晩柑を取り入れた経営に品種構成を行い、収入と労力のバランスを考えようということになった。その中でも、ハッサクは、上浦町の立地条件によく合った作物で、これを目玉商品に育てたいということなどが計画された(表3-1-15参照)。**さんも、それを推進する農家の一員として、作物の分散構成を図ってきた。彼の家で今栽培している作目は、飯米としての米25aのほか、伊予カン50a、ハッサク40a、温州ミカン15a、ネーブル10a、キウイ・フルーツ20aである。
 品種構成を進めた井口地域の**さんたち7人のグループは、新しい作物にも十分対応できるように、もう一度柑橘栽培の基礎から勉強をやり直そうではないかと話がまとまった。そのほとんどが50歳を過ぎているが、全員これまで、農業一筋に生きてきた面々である。そして昭和61年7月から、この7人の会員による「ミカン教室」を開いたのである。これまでの活動のように補助金などに頼らないで、必要経費は構成員が出し合っての自主運営を原則とした。毎月1回の定例会は、会員の圃場を巡回しながら相互に診断を行い、その対策を研究しあった。この定例会に毎回出席し、その指導に当たった県青果連の参与は、彼らの活動を評して上浦町の農業を守る「7人の侍」と名付けた。

表3-1-15 上浦町主要かんきつの栽培面積・収穫量

表3-1-15 上浦町主要かんきつの栽培面積・収穫量

「農作物調査」・「果樹生産出荷統計調査」の結果による。「上浦町の農林水産業(⑬)」および「愛媛農林水産統計年報(⑩)」より作成。