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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(8)農業は自然との共存

 越智郡島しょ部を代表するミカンの島、上浦町にも、若い労働力の流出は免れない。この傾向は、ひとり上浦町だけの問題ではなく、今農業全体を覆っている霧のようなものであり、単に農業サイドだけの努力では、早期解決は難しい。それに島しょ部という立地条件が、今の若い世代になかなか受け入れられないで、学校卒業後は島を離れるケースが多い。とくに若い女性の島外への就業は、島に基盤を置いて生きていこうとする若者たちにとっては、「結婚難」という生活の基本的な問題にまで及んでいる。
 上浦町における平成2年の総人口は4,512人であり、40年のそれと比べるとおよそ70%にまで減少している。基幹的な農業従事者の数も、ミカン価格の暴落を境に減り始め、就農する人々の高齢化も一般的な風潮である。平成2年の基幹的農業従事者のうち、60歳以上の占める割合は58%にも達し、今改めて、担い手対策が云々されているところである(表3-1-16参照)。
 この厳しい現実に目をそむけることはできない。されど島々や農業に明るい展望が開けないかというと、そうではない。
 一つは、本四架橋今治・尾道ルートの完全開通である。大三島橋や伯方大島大橋の開通によって島々を陸で結ぶ路線はほとんど確保できた。そのことが瀬戸内の島々の個別感や距離感を取り除き、接触の機会が多くなるにつれてこれまで以上に融和の気持ちが生まれつつある。一番心配の種であった病気などの緊急時に際しても、交通の利便性がそれをほぼ解消してくれている。島の人たちは語る。「本当に便利になってきた。これまでならば、泊まりがけの仕事だった松山などでの会合も、日帰りで十分間に合う。」「これで今治・大島間の橋ができあがり、多々羅大橋が完成すれば、すべてが陸続きとなるので町にも若者が住みつくようになるだろう」このルートの完全開通を待ち望む声や期待が、ひしひしと伝わってくる。
 農業情勢も、いつも霧の中ばかりではない。取り組みの方法によっては、水準以上の所得をあげることが十分考えられる。このことについて**さんは、「少量多品目の時代と言われているから、かつてのミカンのように一局集中というわけにはいかない。たとえばミカンの安いときにはイヨカンが、イヨカンの不振の時にはハッサクでというように、品種の幅を広げて栽培し、何かが落ちこめば、他のもので補うという経営に弾力性を持たせることが必要」と語る。また、とくに力を入れたい事柄として「その地域の顔になるブランド品を育てなければならない。量よりも質重視という流通環境の中にあって、その地域に合った、それに最もふさわしい作物を育てることが、優れた商品作りへの近道」と説く。
 そういえばハッサクは、上浦町の特産に育っている。「ハッサクの売れ行きが悪くなっても、瀬戸内のハッサクは全国一の品物だから、どこにでも通用する。大切に育ててほしい」と中央市場関係者の評価は高い。今から130年ほど前(1860年)に因島で生まれ育ったこの果実は、やはりそのふるさと芸予諸島の風土が一番よく似合っているのかも知れない。
 **さんは前述のように、ハッサク・イヨカンを柱に、数種類の果樹を組み合わせた経営を行っている「昨年は9月の台風で、これはもう駄目だと思っていたら、残った果実は、思ったより高価で取り引きできた。農業とは、ある面では自然まかせでもあるので、人間の力の及ばないところがある。」さらに「欲を言ったら切りがない。今の私の経営では、十分な所得とまではいかないが、生活には事欠かない。少々収入が足りなくても、ふところの深いところが農家の良さではないか。」とのこと。
 **さん夫婦は、地元の農協に勤めている長男の**さんの家族と一緒に生活している。そして、**さんたちは、**家の跡継ぎとして家を守り、土地を守っていくことを心に決めている。
 **さんたちは今、古くなったハッサクを整理して、そこに再び新しいハッサクの苗を植え替えた。新しい世代へのバトンタッチの準備である。彼は言う。「若い者のために、そして孫の将来のために…。」

表3-1-16 上浦町基幹的農業従事者数

表3-1-16 上浦町基幹的農業従事者数

「農林業センサス」の結果による。「愛媛の農林業(愛媛県発行)」により作成。