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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)ミカン価格暴落への対応

 急速に発展したミカン農業にも、大きな転機が訪れたことは前にも述べた。昭和43年の価格暴落は、200万t突破という全国的な過剰生産ベースに加えて、品質の低下がもたらせた安価と推測されている。そのために品質向上に努力した翌年には、価格は再び上向きとなり、250万t前後の生産量が続く割合にはまずまずの価格で取り引きされていた。ところが、47年に至っては、ついに全国のミカンの生産量が350万tを超えるという大量生産時代に入ったのである。その結果、大消費地である東京市場の平均価格は、1kg当たり61円にまで低下して、農家や関係者に大きな衝撃を与えた。しかもこの暴落は〝うまいミカン作り〟の効果が現れ品質の優れている年であっただけに頭が痛かった。
 当時のミカン栽培を振り返りながら**さんは、「昭和43年の暴落の前年に大干ばつがあって、中島町のミカンに大きな被害がでた。ところが私の場合には、ミカン園の立地条件が良かったこともあってそれはどの被害を受けず、ほとんど平年に近い収入を上げることができた。43年・47年の暴落の時には、ちょうど若木の太り盛りでもあり、安値の分を量でカバーしてくれたので、生活に支障を起こすことはなかった。他の人に比べて、それほど深刻にならずに済んだのは、運が良かったように思われる。」と、語る。
 「10年間は百姓一本に打ち込む。」と宣言し、ひたすらミカン農業に全力投球を行った**さんも、およそ10年後の昭和40年・41年には、合併を終えたばかりの中島町農協、果樹生産部長に推され、農家の代表として生産販売や組織活動のリーダーを勤めたことがある。そのころ温州ミカンとともに、中島の特産に育てようと力を入れていた普通伊予カンの果実の成りが思わしくなくなってきた。5年間で倍増をもくろんでいた、農協生産部の計画も暗礁に乗り上げた形である。そこで、基本技術から研究を進めようと試験栽培に取りかかったところ、その翌年の42年には大干ばつの影響を受けて伊予カンの樹勢が弱り、このことが幸いして、伊予カンは再び実を付け始めたのである。つまり、早く実を太らせようとした農家の肥料の与え過ぎが、生長作用と生殖作用のバランスを崩し、不作の原因となっていたことがわかった。同じ柑橘類でも品種や系統が違えば、それぞれの個性があり、その特性を生かさなければ満足な成果が得られないことが参考になった。こんな体験や生産組織活動の交流を通して、**さんの生産技術や経営感覚がさらに磨かれ、不況に際しても動じない、強い何かを生み出していったようである。