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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)息子は父の背中を見て育った

 息子の**さんは「僕は子供のころから、農業をするものだと思っていた。だから高校も、果樹科のあった愛媛大学附属農業高校を選び、そこを卒業した。」と言う。祖母の教えもさることながら、彼にとってミカン園は、幼児のころからの遊び場であり、その木陰が昼寝の場所でもあった。そしてつねに、父の背中を見て育った彼には卒業後の進路に、農業という職業を選択することに、何のためらいもなかった。ただ、高校を卒業してしばらくは、父の勧めもあって地元農協に勤めた経験がある。近い将来農業を継ぐことに変わりのなかった彼には、「どうせ2~3年の勤めであれば、背広の着れる役場のほうが格好良いと思っていた。ところが、連絡を受けて面接を受けに行ったのは農協だった。あとになってそのことを父に尋ねると、農協のほうが農業の仕組みを覚えるし、農家との顔見知りも多くなるので…。との返事であった。」と当時を振り返る。そして農協勤務の2年半の体験を「あれが、ものすごく役立った。元来中島の人たちは、自分の集落や周辺とは親しい付き合いがあるが、集落を離れたり、島を別々にする人々とはほとんど交流がない。農協に勤めていたお陰で、いろんな農家と知り合いになり、その後における情報の交換や、僕の青年団活動・農業後継者活動でも、すぐ友達付き合いができるようになっていた。」と話す。
 農協を退職して、いよいよ新しい農業者となった彼は、結婚するまでは青年団活動、結婚後は農業後継者協議会の活動に意欲を燃やした。同じ大浦集落の中には、若い仲間が30人近くもいるのに、青年団に加入している団員は、僅かに10人足らずである。加入者が少ないのは、その活動に魅力がないためであり、興味を持たせるために彼が提唱した活動は、「みんなで、一杯飲もうや。」ということから出発した。飲みながらの会を重ねるうちに、一人集まり二人集まりして、15人くらいにまでは増えてきた。それでも何かもの足りなさが残る。この若者の席に、女性の顔が揃わないのである。「それじゃ、女性に呼び掛けようや。」ということで、カクテルパーティやダンスパーティを開いた。バレーボールやソフトボールなども取り入れて、活動の幅を広げた。女性の両親の所へは、役員が出かけていって活動参加への了解を取り付けた。こんな**さんたちの努力が少しずつ実を結び、中島での若者の活動も次第に元気が出できたようである。
 そして、**さんと、妻の**さんが結ばれたのも、このような青年団活動を通しての意気投合による。
 新しい**さん夫婦の出発に際して、父親の**さんは次のような提案をした。
 「これから10年間は、家族みんなで同じものを食べ、同じように生活をしようではないか。10年過ぎれば、若い者の家族は、自分たちの思うような生活に入れば良い。それまでの辛抱だ。」と話した。そして10年間は、別棟に住んでいた息子たちの家族も、母屋の同じテーブルを囲んで食事を共にした。
 このことについて**さんは、「そのころ、核家族化の問題がいろいろ論議されていた時代であった。ところが、農家生活というものは、家族全員で力を合わせなければ、経営がうまく成り立たないことがある。それに孫たちができれば、いつでも、ひざに抱きあげることができるし、家族としての愛情も増してくる。若嫁さんには、窮屈な思いをさせたであろうが、初めのうちに、そのような家族環境を作っておきたかった。」と当時を偲ぶ。