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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)農業後継者としての道すじ

 昭和50年代に入ると中島町の農業にも、いろいろの変化がみられた。これまでの温州ミカンに偏っていた経営から、伊予カン・ネーブルなどの栽培比率を高めて、価格や労働のバランスを保とうとする動きである。大浦地域でも、傾斜地の山畑には温州ミカン、平坦地には伊予カンなどの計画が立てられ、それぞれに改植が進められていた。
 この中で**さん親子が考えたことは、「中島の立地条件に一番ふさわしい柑橘は、やはり温州ミカンであり、今は価格が低迷しているが、いつか再び温州ミカンの時代がやってくる。それに期待して、これに主力を置いた経営を続けていこう。」と、意見が一致した。
 中島町全体で、品種更新がどんどん進んだ現在でも、**さんの家での方針には大きな変化がなく、温州ミカンの収穫量は、中島町内でも指折りの農家の一つに数えられている。昭和54年には、国の政策として「温州ミカン園転換促進事業」が打ち出され、県内でも品種更新が積極的に進められている段階にあるだけに、農業後継者の集会に出席した**さんに向かって、彼の友人は「お前は、温州ミカンを5万kgも作っているというが、何を考えとる。」と指摘した。近所の人からも「安いミカンを作っても、つまらんじゃろが。」との声を聞いた。それでも彼は「あと10年もすれば、日本の食生活に合った、温州ミカンの時代がまたやってくる。」と言い続け、最近やっと、その見通しが明るくなってきたとのことである。
 この期間を、成り行きまかせで待っていたわけではない。**さんは結婚後、青年団を退いて農業後継者の組織に加盟していた。中島町の協議会長や、県連絡協議会の理事に選ばれたこともある。この活動を通して、県内各地域の青年農業者と知り合うことができ、その交流を通して、優れた産地にも足を踏み入れた。父親からは「また後継者の会合か、今日はどこ行きか。」と叱言を言われるくらい、度々家を留守にすることがあった。あるとき、中島町の農業後継者協議会で研究活動発表会が開かれ、父親の**さんが、たまたまその会議に出席して若者たちの活動報告を聞いたことがある。若い農業者が抱く、中島農業の未来像の発表であり、経営や技術の研究実績であった。その後父親は、息子の後継者活動への参加に注文を付けたことは一度もない。
 **さんは、「みんなで集まると、よく遊びもしたけれど、視察や勉強会もあって新しい技術の導入に役立つことが多かった。同じ農業者仲間という、共通の悩みや楽しみもあって、今でも連絡を取り合いながら、お互いの情報を交換している。」と語る。そして**さんのミカン園では、これらの情報をもとに、地域の人々とも結び合って、先の見通せる新しい農業への取り組みを進めたいとのことである。