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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(5)経営・生活権のバトンタッチ

 昭和57年における、**さんの柑橘生産量は111t、ついに大浦集落一の収穫をあげることができた。**さんが「どうせ農業をやるなら」と心に決めた、〝ミカン作りむら一番〟になった日である。「初めの基礎づくりのころは、働いて、働いて、働き続けた日もあるが、それでも働くことをつらいとか、しんどいとか思うことはなかった。家内も外へ出かけることが少なく、ほとんど二人でミカン山に出かけた。それ以上に義母も畑が大好きで、私の作業の片棒をかついでくれるくらいであった。息子も、私か何も言わなくても自分で農業を志し、すばらしい嫁も来てくれた。お陰で、家中が元気で働けたので、やっと自分の目標を達成することができた。」家族への感謝とともに、この時点で、そろそろ息子へのバトンタッチを考えるようになったと述懐する。
 そして、5年間の準備期間を経て昭和62年からは、母屋を**さん家族に明け渡し、両親たちは、これまで息子たちが住んでいた、同じ敷地内の別棟に移り変わったのである。また、これを機会に**さん夫婦に経営権と生活権が委任され、中島町で言う「亭主」の交代が行われたのである。若夫婦の結婚後10年目に当たり、その初めに父が提唱した「10年後は若い人たちは、自分たちの思い通りの生活を。」の約束の実現であった。さらに、父親が満60歳を迎えた平成3年8月には、相続に関する名義の変更を含めて、一切の権限が**さんに譲られ、ここに名実ともに新しい世代の農業経営主が誕生したのである。