データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)漁村の成立と変容

 瀬戸内海の漁村には、近年の考古学の発掘調査の成果や平城京二条大路木簡の研究(①)から、伊予にも安曇部(あずみべ)に率いられる海人の住む海部(あまべ)郷・里の存在が確認されるようになった。
 一方、海部族を統率するものとして加茂の神人が存在するが、承平年間(851~957年)に編集された『和名抄』に、新居郡加茂郷と越智郡鴨部郷の地名が見える。寛治4年(1090年)の『加茂社古代庄園御厨(みくりや)(②)』の中に、伊予国宇和郡六帖網、伊予国内海の御厨の記録がみえる。90年後の鎌倉時代の始め、『加茂注進雑記』に加茂神社の荘園は、42が数えられているが、その内の16は瀬戸内海の沿岸にあった。伊予では菊万庄(きくまのしょう)(現菊間町一帯)、佐方保(さかたほう)(現菊間町内)の名前が見える。
 また、乾元2年(1303年)の『東寺領伊予国弓削嶋庄下地以下相分事なる和興状(③)』に、網場をめぐる争いの記録がある。中世末期には地漕網(葛(かずら)網)と言われる地曳網が発達していた。
 鎌倉以降の河野水軍、忽那水軍や、中世末から近世初頭の村上水軍の水夫として徴発されたであろう島々の漁民が、徳川幕藩体制下で藩主の参勤交代等の加子(水夫)として統制されてくる。寛文7年(1667年)の『西海巡見志(④)』は当時の漁村の規模を明らかにする貴重な資料である(表3-2-1参照)。漁村には、(1)古い起源を持つ漁村と、(2)近世以降に計画的につくられた漁村や、漁民の集団移住によって形成されたものとがある。また、(3)近世後期から明治初めにかけて、広島県の能地(のうじ)や二窓(ふたまど)や吉和(よしわ)、愛媛県の岩城を母村とする漁民が瀬戸内の島々や沿岸に定着して成立した漁村もある(⑤)。能地漁民は手繰網漁業を、二窓漁民ははえ縄漁業を、吉和漁民は一本釣り漁業とはえ縄漁業の漁法を継承してきた(⑥)。
 瀬戸内海の島には、漁業に生きている島もあれば、反対に海に背を向けた島もある。前面に豊かな漁場が存在しながら、なぜ海に背を向けているのか、今後の解明を待たねばならない。
 藩政時代から明治期にかけて、瀬戸内海の島々にも、イワシ地引き網やタイ網などの、資本と多くの労働力や協業を必要とする網漁業の発達も見られるようになった。一方、瀬戸の潮流を巧みに利用する一本釣り漁業やはえ縄漁業が発達しているが、これらの漁業は起源の古い漁村ほどその傾向が強かった。規模は家族労働で、零細ではあるが漁民の個人技を誇るものであり、その古い漁村の習俗は昭和30年ごろまで残っていた。
 第2次世界大戦後の漁業の民主化は、漁業権を漁業協同組合に所属させ、組合員に漁業権の行使を認めたため、今まで「海に背を向けていた島」にも漁業を営む「農民漁師」が生まれてくるようになった(図3-2-2参照)。特に、従来の遠浅海岸を利用したひび建てによるノリ養殖から、昭和35年(1960年)に始まったべ夕流しによるノリ養殖の沖合化が可能となり、これらの地域の漁業経営を一層進展させた。さらに、島の塩田跡地利用としてクルマエビ養殖が始まり(愛媛県では、昭和47年の伯方町北木水産が最初である。)、ノリ養殖やクルマエビ養殖を契機として、高級魚としてのタイやカレイなどの養殖が導入されつつある。養殖の経営形態は、ノリ養殖は自営漁業経営体で、クルマエビ養殖や高級魚養殖は会社や漁業協同組合経営が主体である。
 昭和30年代に入って、わが国経済の高度成長は、島からの急激な人口の流出をもたらし、その後も人口流出の歯止めはなく、極端な場合、長浜町青島のように小・中学校が廃校になったところさえある。漁業生産に力を注ぐ特定の漁村を例外として、漁業者の高齢化と漁業後継者不足は深刻で、漁村基盤そのものを脅かし、島の活性化にも大きな影響を与えている。しかし、このような厳しい状況下にあっても、永い伝統をもつ瀬戸内海漁業に命を賭けて頑張っている人々も大勢いることを忘れてはならない。

表3-2-1 西海巡見志にみえる島方の家数・舟数・加子数

表3-2-1 西海巡見志にみえる島方の家数・舟数・加子数

「西海巡見志(④)」より作成。

図3-2-2 自営漁業経営体のうち農家に該当する経営体数

図3-2-2 自営漁業経営体のうち農家に該当する経営体数

「第8次漁業センサス」昭和63年11月1日調査より作成。