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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)昭和を生きた島の女性の生活史

 **さん(大正11年生まれ 68歳)、**さん(大正15年生まれ 64歳)
 島にいる60~70歳代の女の人たちは、ほとんどの人が島で生まれ、島の小学校に通い、小学校を終えると紡績工場か子守奉公で島を出た。娘時代は都会で生活し、年ごろになると島の男性と結婚するため帰ってきた。結婚し、子供を産み、主婦として働き、老後を迎える。これが、青島の女性の一般的なライフサイクルであった。
 **さんも**さんも、ともに島で生まれ育ち、島を出て、結婚のために島に帰った女性である。現在**さんは主婦であるとともに、青島公民館の婦人部長として、**さんは主人と共に今も漁に出るし、婦人副部長として島の諸行事にも参画している。戦前・戦中・戦後を漁師の妻として、母として生きてきた生きざまをうかがった。

 ア 水汲みのこと

 小学校時代は電気もありませんでした(青島に電気がついたのは昭和23年9月10日からである。その当時は自家発電で、点灯時間は日没後午後9時までと、朝は5時に点灯し日の出までであった。四国電力による送電が開始され、終日点灯が可能となったのは、昭和46年8月26日である。)。
 小学校は複式学級で先生が3人いた。おもちゃなどは4年生ごろから自分でお手玉や人形を作って遊んでいた。小学校6年が終わってから1年間は赤城先生(庄屋の奥さん)から裁縫を教わった。午前中は家の手伝いをして、午後から学校の裁縫室で習っていた。
 そのころ家の手伝いでは、毎日妹と一緒に井戸から水を汲み、階段になっている石段の道を担い棒で家まで運ぶのが日課であった。水の問題については結婚してからも苦労した。子供が大きくなるまでは水汲みは嫁の仕事であった。風呂の水も全部井戸から汲み、水桶を肩に乗せて担い、風呂に入れていた。朝起きると、まず一番の仕事は水を担うことから始まる。風呂に一杯の水を溜めてからでないと、山にも畑にも行けなかった。洗濯は自分の家で洗って、すすぎは井戸に下りてしなければならなかった。本当に難儀でした。
 天水利用はあったけれども、溜める容器がないから雨が降ったときだけ、風呂に溜めたりするけれど、雨がやんだら井戸まで行かねばならない。学校の下の井戸が島全体の共同井戸で、炊事用の水であった。後の13の井戸は塩分が混ざっていて炊事用には使えない。共同井戸は1年中水が切れるということはなかった。昼は井戸に鍵がかかっていて、勝手に汲むことはできなかった。井戸番のオバさんがいて、島内を4地区に分け、共同井戸の水を汲む順番を触れて回っていた。2、3日に1度の割でこの井戸の水を汲むことができた。各家では水瓶を常備して飲用の水を溜めていた(青島が離島振興法の適用を受けたのは、第6次の昭和32年8月14日である。昭和52年度の離島振興事業として簡易水道事業に取り組み、翌53年5月に完成した。水は対岸の長浜より町営連絡船で運び、島の貯水タンクに揚水して各家庭に送水された。お盆のように島外から帰る人によって通常の島の人口の3倍にも増加する時は水不足となるが、昔のことを考えれば、今は水の問題も一応解決した。)。
 この他、子供のころの手伝いでは島のイモ掘りがあった。サツマイモの収穫が始まると、学校は昼までで、山の畑に行って親が掘ったサツマイモを寄せ集めるのが仕事であった。子供のころのつらい思い出としては、第1は水汲み、第2はイモ掘りの手伝いであった。その他にも家の掃除、庭掃き、仏前のお供えなどが子供の仕事であった。

 イ 島を出て働く娘時代

 **さんは15歳(昭和12年)の時、叔母がいたこともあって、松山に子守奉公に出た。友達の中には今治の紡績工場に行った人もいたが、母親が松山の方がいいというので松山にした。当時は「口入れ屋」さんがあって、就職の世話をしてくれた。私の荷物は人力車に積んで運んでくれた。その時、母親と叔母から「どんなに難儀でも半年間は帰ったらいかん。島の人から、あの子は辛抱がないと言って笑われる。」と言われた。島に帰ってくるのは正月と盆の2回だけだった。私が奉公したのは松山の柳井町の歯医者さん宅の子守で、給金は月平均5円であった。奉公の始めに5円はええ方じゃったと思う。奉公先から叔母の家を訪ねるときも、風呂に行くときも許可をもらって行った。
 当時は、同じ所に長く奉公していては月給は上がらなかった。世話してくれた口入れ屋に頼んで、別の家を世話してもらった。昭和15年まで松山に居たが、結婚のため島に戻る時には、月15円ほどもらうようになっていた。
 **さんは大阪の叔母の家の子守に行ったが、戦争が激しくなり一度島に帰り、西条の倉紡へ就職した。1年ほど勤めたが、からだの調子が悪くなって島に帰った。戦後になって結婚した。
 **さんは、親の決めた結婚で否応なしで、荷物は松山に置いたままの身一つの結婚であった。夜の結婚式の披露宴は、電気がなかったので、カーバイトのあかりのもとで行われた。3日目に歩きぞめの親類回りでは訪問先で、おはぎやイリ豆、下駄や草履を用意し、二の膳を作って待っていてくれた。
 **家に嫁いだ時は、両親と祖母、主人の兄弟の7人家族であった。私の子供ができて家族も増えたが、当時10人程度の家族が普通であった。弟たちは、学校を卒業して島を出ていくまでの2~3年は、夜は青年宿で宿泊していた。
 そのころ、風呂のある家は多くなかった。**さんの家には風呂があり、親類の叔母さんたちが子供連れで風呂に来ていた。そのたびに予備の水を補給し、炊かなくてはならなかった。嫁として最後に入るころは、湯の量も減っているし、湯もぬるくなっていた。

 ウ 子育て時代

 **さんは結婚して男4人、女2人の子供を産んだ。子供たちは尼崎や東京に出て、長男は尼崎で鉄工所を経営をしており、女の子は呉や新居浜に嫁いで、孫も12人になった。
 **さんは男1人、女3人を産んだが、男の子は死亡し、女の子は浜松や神戸に嫁いだ。孫は9人いる。
 **さん宅では祖母が元気で、子供の世話をよくしてくれた。母は畑仕事が好きでよく山へ出かけていた。嫁の私は水汲みや炊事、洗濯が仕事であった。結婚して何年もたたないうちに、綿糸のイワシ網がナイロン網に切り替わった(昭和32年イワシ揚繰(あぐり)網2統をナイロン網に転換)。ナイロンだから網は破れないのでイワシがとれてとれて、イワシの製造に朝起きて足を汚すと、夜までごはんも立って食べていた。ちょうどその時はお腹も大きいのに休むこともできず、イリコ製造場へ出て働いていた。晩になってやっと仕事から解放されて家に帰り、風呂で足を洗っている時陣痛が起こって、5分もしないうちに赤ん坊を産んだ。
 当時のイワシ網は組合経営(昭和15年より)で、イリコ製造は各戸にイワシが配当され加工に従事していた。ナイロン網に転換されてから共同で製造した方がよいという言うことになり、島の東の弁天崎を埋立て、その広場を加工場と干し場にした。しかし海がしけた時は、ここに船を着岸させることができなかった。そのため1か所での製造方式をやめ、イワシの配分が多かったので、浜の何箇所かに製造所を造って、3人から5人が組になって仕事をした。朝まだ日が昇りきらない早朝から、晩遅くまでてんてこまいの忙しさであった。今考えて見ると、よくぞ一人で子供は育ったものだ。育てたのではなく育ったのだと思う。主食はイモとイリコ、ミソでもなんでも食べて学校へ行けと言ったものです。
 長男が中学校を卒業した昭和28年当時の島の人口は800人台を維持していたが、島で漁師をしていてもだめだということで、同級生たちは島を離れていった。息子は長男ということで父親の漁業を手伝っていた。島を出た同級生のことが気になり、焦っているようで、悩んでいることは私にも分かっていた。
 長男が外へ出るためには、父親が船の機械を使うから、嫌でも私が長男の代わりに沖にでなければならない。一本釣だけなら主人一人でも漁はできるが、タコ縄や手繰網を操業していたので主人一人ではできない。私の父親の時代は、機械船はなく押し船(無動力船)だから、男の人を雇ってタイをひいていた。私は子供の時から船に乗ったことがないので思案した。長男が悩んでいる様子を見ると、子供のためなら私か船が乗ろうと決心した。長男は中学校を卒業して2年後に神戸の方に就職した。長男も今は50歳となり、尼崎で鉄工所を経営している。
 青島で女性が船に乗るようになっだのは戦後である。それまでは男漁、女耕の半農半漁の島であった。若者の島外流出で夫婦で漁業をするようになった。64歳の**さんは建網やサヨリ網に現在も出漁している。

 エ 島の食生活

 戦前から島では麦飯が主食であった。押し麦ではなく丸麦を炊いていた。一度煮沸させ、沸騰させてふたをして30分から1時間蒸しておくと押し麦のようになる。その後米を洗って、麦1升に米2合半を入れてよく混ぜて炊いた。混ぜ麦飯は良い方で、戦時中など畑でとれたカンコロイモ(サツマイモを薄く切り乾燥させたもの)を麦の中に入れて食べていた。温かい時は甘味もあって食べられるが、冷えた後はお茶も通らなくなり食べられなかった。麦と米の混合比率が5対5になったのは、子供が島を出て家族が少なくなってからである。
 台所の燃料が薪からプロパンに代わったのは、昭和50年代の初めごろである。初めのうちは、プロパンを置くと爆発するというので買うのを見合わせていた。しかし、山に薪をとりに行かねばならないし、時には薪を買わねばならない。使って見ると炊事が能率的で便利であることが分かって、急速に普及した。プロパンガスの後に灯油風呂が普及し、最近では電気器具の炊飯器も普及している。燃料といえば、風呂やかまどの焚き付けにするスクズ(松葉)を山に取りに行っていた。島には組合の山(共有林)があり、西風が吹く夜は、スクズがよく落ちるので、夜も落ち着いて寝られなかった。朝早く組合から「山の口が明いた(スクズ搔きをしてよろしい)。」と連絡があり、島中の女性が山に入ってスクズを搔いた。スクズを束ね、オイコで家まで運ぶのも主婦の仕事であった。

 オ 今を生きる

 昔の漁業と麦とイモの自給生活時代と今の生活とは比べようもないほど、生活水準も向上してきた。イワシ網があった当時はイワシはよくとれたが、経済面ではよくなかった。イワシ網が無くなって、主人と一緒にタコ縄でもうけたと言っても、子供が大勢いれば出費も多い。
 今は二人だけの生活になって、食料費も衣料費もあまりいらない。島には店屋がないので、週に1回くらい長浜へ買い出しに行く。島の魚と野菜の生活で贅沢もすることなく、生活費はあまりかからない。島の大部分の人が年金をもらっており、漁業収入は多くないが生活には不自由していない。
 医療面では、島の診療所で保健婦さんが親身に相談に応じてくれる。医療費も無料であり、ちょっとした病気は長浜の病院へ行き、手術などの場合は大洲の病院へ行く。緊急の場合は、島の人に頼めば船足の速い漁船で20分で長浜に着く。
 島の生活で楽しいことは、建て網組(**さんの場合)で費用を積み立て、年1回温泉旅行にでかけること、島外の子供や孫に会いに行くこと、また、島ではみんな身内みたいなもので、朝連絡船が出航する前に港へ出て、集まった人々と世間話をするのも楽しみの一つである。
 正月2日には組合の前でもちまきをする。3斗(45kg)くらいもちをつき、もちをまく、これは釣り組や建て網組の漁師が必要経費をだす。女の人は全部集まっても30人もいないが、もちをまくのは男の人で、拾うのは女の人である。一人の人が100個くらいは拾っている。もちを拾うという楽しみもあるが、正月に島中の人が出て、お互いに新年の挨拶を交わすことの雰囲気が何とも言えず良いものである。
 お盆には里帰りで、島の人口が3倍くらいにふくれ上がり、島全体に昔の面影を再現する。盆踊りは帰って来た人の踊りの着付けを手伝うのであまり楽しいとは思わない。島で育った子供たちは盆踊りはできるが、孫たちになると踊れない(青島の盆踊りは昭和40年3月29日 愛媛県無形文化財指定、8月14日はその年の死亡者の霊を供養するための「亡者踊り」と、15日は大漁を祝う「大漁踊り」を踊る。せっかくの伝統のある島の盆踊りも後継者不足で、特に「口説き」のできる人が少なくなってきている。)。

   〇青島公民館の主な行事

     3月21日 島四国 お大師さんの前だれ掛け
     7月   海水浴場の浜掃除
          海水浴・臨海学校の宿泊客の世話(廃校となった小学校を開放)
          島民大会(長浜町長、同総務課長、同教育長、漁協組合長などと島民の話し合い)
     8月   盆前の墓掃除
     8月21日 料理講習会
     9月15日 敬老会(婦人部21人による舞踊のカラオケ)

 島の人々は漁に出ない人もほとんど早寝早起きの習慣が身についている。今も漁に出ている**さんの場合、夜の8時には寝て、朝は4時に起きる。5時前には組合へ出て、釣った魚を出荷するため集まった人たちと、世間話に興ずるのが楽しい。島を出ている子供たちもそのことはよく知っていて、電話は夜の8時までにかけてくる。**さんは家の近くで、家庭菜園程度の自家用の野菜を作っている。家の掃除を済ませ、お昼まで畑仕事をし、主人が昼に沖から帰って昼食をとり、また出漁したあとが私のくつろぎの時間となる。横になってテレビを見たり、うとうとして、2時30分になると青島丸が長浜から帰ってくるので、ぼつぼつ港に出てみようかと用もないのにひとりでに足がむく。磯物であるヒジキ、テングサ、ニナなども女性が採取する。みそは今でも自家製である。島の麦と他所の麦とは味が違うように思う。サツマイモと自家製みそは息子たちの所に宅配便で送っている。最近は魚も送れるようになった。
 今の島の人たちは、自分の子供は島外に出ているので、呼び寄せて一緒に生活しようと言ってきている。そんなことで島から年寄りが一人抜け二人抜けしてきている。健康で自分で働ける間は島にいて、他人に迷惑を掛けなければ島にいたい。今の最高齢者は97歳の**さんで元気である。

 力 三無しに頑張る保健婦さん

 **さん(昭和25年生まれ 41歳)
 **さんは福井県芦原町出身で、地元の高校から高等看護学校を卒業した正看護婦の資格を持つ保健婦さんである。元来、海が好きであった**さんは、高看卒業後大阪に出たが、休暇を利用して2年続けて沖縄に旅行した。石垣島で台風で足止めされた時、出会った人が**さん(元教員・美術の先生)であった。この先生も退職後自分の棲家を探しに石垣島に来ていた。3日間ほど足止めされて先生といろいろの会話があった。その後先生から手紙が来て、四国の青島という所で看護婦を探している。知り合いがおれば紹介してほしいとのことであった。海の好きな**さんは早速青島に来て見た。独身で身軽な**さんは直ちに勤務を承諾して来島した。身分は長浜町職員で保健婦である。昭和53年4月1日に赴任して13年目を迎えた。
 **さんの正直で直情な性格は、最初の間島民から誤解を受けたりしたこともあったが、今では一番島の空気に溶け込んでくれた人として島の人々から信頼されている。島の診療所には、長浜より週1回医者が来島する。**さんは月1回、事務連絡のため長浜に出向いている。診療所では医師の指示に従って、島民の保健相談や生活指導に従事している。島民の保健相談は腰痛や高血圧の事例が多い。
 13年も離島の保健活動を続ける**さんは、青島について次のように語ってくれた。「私は島の自然環境に惚れている。新鮮な海の幸、山の幸を自分の労働で手に入れることの喜びは何物にも変え難い宝物である。さらに島の人々の人情も大変こまやかで厚い。島の人は穏やかである。一度島を出て外部の空気を吸ってから帰島しているから、言葉づかいも柔らかである。」**さんは船外機付船を所有し、休みの日は沖に出て魚を釣ったり、夏は海に潜って磯物を採取する。山の畑で野菜も作る。島の人と同じ生活である。仕事を抜きにして、**さんには親戚がいないから、いざというときの助けを親兄弟に求めることはできないが、反対に身軽く動くことができる。青島に13年間、保健婦として島の人々と生活をともにしてきて、「島の人には、肥満な人のいないこと、髪も黒く禿げの少ないこと、老人性痴ほう症の人のいないことの三無しの島である。過疎の島にあって保健上胸を張って誇れることである」と話された。これは島の環境の良さ、子供の時からの食生活(麦、イモ、イワシ、ヒジキを常用してきた)、太陽と潮風のもとでの漁業と山の畑での労働、動ける間は働くという労働意欲と、子供をあてにしないという独立心が、三無しを作り上げた要因であろう。**さんに拍手を贈り、一層の健闘を期待したい。