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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)大山祇神社と宮浦の祭礼行事

 大山祇神社と宮浦の人々の生活の間には、切り離せない密接な関係がある。この項では特に(他地域と比べ)古来からの伝統が残っており、当屋(とうや)制(祭祀(さいし)の当番)等の集落の結び付きを示す祭礼行事に焦点を絞って、宮浦の生活文化を考えてみたい。宮浦新地の部落総代の**さん(大正12年生まれ)、宮浦上条部落総代の**さん(昭和3年生まれ)、**さん(昭和2年生まれ)及び大山祇神社禰宜(ねぎ)**さんの、お話と頂いた資料をもとに、以下にまとめていきたい。

 ア 大山祇神社の祭事暦

 大山祇神社の主な祭事をまとめると、以下のようになる。


    1月1日       歳旦(さいたん)祭          
    1月7日       生土(しょうど)祭、福木(ふくぎ)神事
   旧4月22日~24日   例大祭(れいたい)(春の大祭)[講社(こうしゃ)大祭、大市(おおいち)]           
   旧5月5日       御田植(おたうえ)祭[無形民俗文化財一人角力(ひとりずもう)]            
   旧8月21日~22日   産須奈(うぶすな)祭[神輿渡御(みこしとぎょ)、獅子舞] 
   旧9月9日       抜穂(ぬきほ)祭[無形民俗文化財一人角力]
    6月27日       全国鉱山工場安全祈願祭
    12月1日       同上            
    12月31日       大祓(おおはらい)祭


 上記の祭事の中で宮浦集落の人々と関係が深いのは、例大祭、御田植祭、産須奈祭、抜穂祭である。例大祭は春の大祭と呼ばれ(江戸時代から)多くの露店・興行が開かれ、聞き取りによれば、つい数十年前までは、宮浦周辺十数kmの海岸を、大漁旗やのぼりを立てた船が埋めつくし、多数の参拝者が来ていた。前述のように参道商店街の人々にとって、春の大祭の利益は大変大きいものであった。しかし(宮浦を含め)大三島の集落は、この例大祭の祭事や興行そのものには、特には参加しない。この行事は江戸時代の藩の政策から発展した一面が大きく、島内の人々の関与が江戸時代には少なかった(或いは禁じられていた?)ためではないかと思われる。
 御田植祭と抜穂祭は、豊作祈願と収穫感謝の農耕神事である。この神事には島内の各集落から人数を出し行事を実施する。御田植祭では、毛槍(けやり)や鉾に守られた神輿(みこし)三体が、本殿から神社境内入り口の御桟敷(さじき)殿に渡御し、豊作祈願の神事の後、一人角力が奉納される(ただし現在は伝承者が高齢のため中断している)。最後に手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)、白装束(しろしょうぞく)に赤だすきの早乙女(さおとめ)16人(島内の小学生女子)が斎田(さいでん)に入り、柄振男(えぶりおとこ)・田男(たおとこ)の指導で雅楽にのって苗を植え、神輿が還御(かんぎょ)して行事が終わる。抜穂祭も式次第は大体同一であり、抜穂乙女16名が1人当たり12本の稲穂を抜き、神饌(しんせん)として神に奉納する。この両行事は貞治(じょうじ)3年(1364年)の記録があり(⑨⑩)、600年以上の歴史がある。農耕にとって重要な神事であるので、神社内の行事にとどまらず、島内の各集落が中心となって参加しているのであろう。
 現在の大三島特に宮浦において、最大の祭礼行事となるのが、旧暦8月21日よりの産須奈祭である。他の集落は産須奈祭の1~2週間ほど前に、集落としての秋祭りを行ってから、この祭礼に参加するが、宮浦では集落の秋の祭礼と兼ねて行い、地区の氏神の祭りとしての役割も果たしている。そこで次に産須奈祭の祭祀組織と行事内容を聞き取りをもとにまとめ、大三島と宮浦の地域社会のあり様を考察してみた。

 イ 産須奈祭の祭祀組織

  ① 部落総代としての役割と産須奈祭実行までの手順

 「部落総代は、上条・下条・新地に各一人で、宮浦で合わせて3名おります。区長または氏子(うじこ)総代とも言います。総代としての役割は、地域住民の要望(特に道路や下水道整備)を聞いて、町役場との連絡調整をすることと、一年中の種々の祭礼行事を実施していくことです。その中でも産須奈祭が最も重要な仕事になります。
 産須奈祭の実施の前に毎年以下のような手順を踏みます。」


   宮浦の上条(120軒)、下条(100軒)、新地(250軒)の三総代が、各地区の意見をまとめて、話し合いで祭り行
   事を決定する。[祭りの20日位前]
                    ↓
   宮浦の三地区の総代が大山祇神社を訪問して、今年も産須奈祭の御奉仕をしたいとの要望をし、神社の了解を得る。
                                               [祭りの20日位前]
                    ↓
   台集落の総代に来てもらい、行事内容について相談し実施を決定する。[祭りの20日位前]
                    ↓
   島内の宗方・浦戸(うらど)・口総(くちすぼ)・野々江(ののえ)・台・宮浦・明日(あけび)・大見(おおみ)・肥海(ひが
   い)・瀬戸・甘崎・井口(いのくち)・盛(さかり)の各集落の総代さんに(集落の位置については前掲図3-3-10参照)大山
   祇神社に集まってもらい、今年の産須奈祭に供奉(ぐぶ)してもらえるかどうかをはかり、来訪の了解を得る。
                  [祭りの2週間ほど前に会合があり、1週間前位に各集落からの参加の通知がある。]
                    ↓
   各集落の準備に基づいて「お旅(たび)」決行(集落内の各組長に連絡して、事前に役割分担は決める。)

  ② 宮浦の継獅子

 「産須奈祭では、宮浦の継獅子(つぎじし)の行事があります。これは約700年前に一遍上人(いっぺんしょうにん)が大山祇神社に来られた際に、村人が動物のいけにえを献上していたのを止めさせて、始まったものだとされています。『継獅子』は今治市や越智郡の陸地部に広くあるようですが、宮浦のそれは二人立て・二頭で、(他所と比べ)最初の天狗(てんぐ)の口上や、獅子とともにお多福(たふく)と猿が一緒に舞い、舞とおはやしが中心となることに特色があるようです。今治方面の三人立てのような華麗でアクロバット的な継獅子に比べ、より古風な形を残していると言えるかもしれません。
 獅子舞いの人員構成は、現在は15人でそれぞれの役割を決めています。昭和30年ころまでは24人でしたが、過疎化のため現在のような形になりました。また人口減と高齢化で、大人が中心であったものが、天狗・お多福・大太鼓が子供の役割になりました。
 なお継獅子の構成員には、新地の人は一人も入っておりません。新地の同級生が『わしらはなんで獅子をやらしてくれんのじゃろう。寂しうていかん。』と言っておりましたが、これは昔からの慣習で、継獅子が江戸時代に新地町ができる前から始まっておったからじゃなかろうかと思われます。お田植祭と同じく600年以上の歴史はあるでしょう。
 継獅子の稽古(けいこ)については後で話すとして、継獅子の演目は次のようになっています。

   1 天狗口上(天狗が獅子・お多福・猿を連れ、口上を述べる)
   2 天狗口上後の獅子の地舞(じまい)(二人立てでなく地表でやる)
   3 継獅子(獅子・お多福・猿が下台の上に立つ)
   4 継獅子の状態でのはやしと舞
   5 狂舞(継獅子が終わり最後の地舞)

 役付けとしては、昔は上条・下条の総代が世話人となり、他に上条11人、下条11人の役員を出し、2週間前より上条・下条に分かれて稽古をします。1週間前になると宿元(やどもと)(当宿(とうしゅく))に役付け全員が集まり、稽古は毎晩大山祇神社拝(はい)殿前で行うようになります。しかし十数年前に宮浦継獅子保存会を結成してからは、保存会の者が役員をしております。」

  ③ 宿元(当宿)と各組の役割

 「先に話しましたように、継獅子は2週間前から稽古に入ります。そこで祭りの1月前に宿元(当宿)を決めて、宿元にあたった家は獅子の練習をするお世話をし、食事等も出して接待するわけです。宿元の決め方は、上条と下条の持ち回りでして、例えば今年は上条の順番ですと、上条では6つの組のどれかに各戸が所属していますが、6組が順番で宿元を担当するようになっており、その年の順番の組内の中の1軒が宿元になるわけです。そしてその家に総代が頼みにいく形をとります。1週間前に『宿入り』をし、その日は大山祇神社から神官が来てもらって、お払いをし、宿元は酒や料理で役付け人をもてなします。その後宿元で稽古をし、それから神社でも行います。さらに再び宿元に帰って茶菓子の接待を受けてから解散です。稽古を毎夜5日間宿元で行い、祭りの2日前に『張物(はりもの)』として宿元に集まり、獅子の飾りつけ等、朝から祭りの準備を行いますが、宿元は昼夜の料理賄(まかない)をします。祭り前日には『本慣(ほんな)らし』として、夕方全員が祭りの正装で神社に集まり稽古をした後、宿元は茶菓子の接待をします。これらの接待費は町全体で集めますが、それでも大変な世話であることは変わりありません。
 また祭り当日の、『お旅』(神輿渡御(みこしとぎょ))前後の宮浦における役割は列次(表3-3-7参照)のためのものです。分担は組長だけのもので、組長には全員何らかの役割があるわけです。組長以外に各組で、高張(たかは)り提灯(ちょうちん)1名、神輿守2名、弁当係1名を出します。また祭りの前に宮浦の各戸から1,500円の弁当代を徴収し、2,000人分のおにぎりを『力(ちから)めし』として当日に男性のみで作ります。上記の役割や準備は、大三島各地から供奉のため集まってくれる他の集落の人々を接待するためのもので、宮浦の集落としては、『獅子』や『だんじり』などが祭礼に参加するんです。あれこれの準備を含め、産須奈祭は本当に宮浦あげての行事となるわけです。」

 ウ 産須奈祭の日程

 昭和30年ころまでは、弓削・岩城・生名・関前・伯方等の越智郡島しょ部各地も、この『お旅』に参加していたということであるが、今は島内の集落のみとなり、年配者は残念がっている。しかし全島あげての一大行事であることに変わりはない。江戸時代以前は、大三島から今治市の「大山祇神社別宮(べっく)」まで渡御していたと伝えられている。平安時代よりこの「お旅」が行われてきたとされ、貞治3年(1364年)の記録もある。しかし「産須奈祭」が現在のような形で、島内各村(集落)が実施主体となって行い、秋祭りとしての色彩が濃くなってきたのは、惣村の自治が発達してきた室町時代から江戸時代の時期にかけてのことであろう。また神輿は、鎌倉後期の作で重要文化財の指定を受けている物を使用してきたが、現在は昭和40年に新しく作られたものを使っている。

 エ 神社祭礼と宮浦の関わり

 「旧暦5月5日の御田植祭は、毛槍を持つ奴や田植えの早乙女は小学生にやってもらいます。当日は島内の全集落の総代さんが集まりますが、総代以外の者は特に集まることはありません。旧暦9月9日の抜穂祭は、島内の全総代の主催で行い、神主さんにお願いして奉仕していただく形をとり、神社に初穂料も納めます。これは神様に収穫の感謝をするのですから、当然かもしれません。
 また旧暦8月1日の神社の阿奈波(あなば)神社(宮浦港を囲む御串山の突端にある神社)例祭の日に、御串山の中腹にある『宮島さん』と『えびすさん』(漁業に関わる神)の祭りを、宮浦新地が独自にやっています。これは港の発展をはかる意味を持っております。他には6月27日と12月1日の鉱山工場安全祇願祭にも、宮浦の三人の総代は出席するようにしています。
 昭和30年ころまでは『虫送り』の行事が盛んで、大山祇神社の神火を虫送りの火として持ち帰る人が多かったです。土用の日、遠く松山・北条の方から来る人もたくさんおりました。今も土用には行事をしていますが、農作業の形が変わってしまったので減少しましたですね。」

表3-3-7 神輿渡御(お旅)列次

表3-3-7 神輿渡御(お旅)列次