データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)睦月島の歴史と行商①

 温泉郡中島町の一島である睦月(むづき)島は、行商の島として全国に知られていた。「睦月の縞売(しまう)り」と呼ばれた反物(たんもの)行商で、全国各地にその商売の手を広げたのである。北は北海道から、南は奄美(あまみ)大島まで、睦月の行商はその足跡を残した。最盛期には島の人口の3分の1が行商に出たとも言われる。そのような「行商の島」がなぜ生まれたのか、またどのように発展し、消滅していったのかをたどってみた。さらに行商の生活はどのようなものであったのか、行商により睦月の社会はどのような影響を受けたのかを、聞き取り調査に基づいて考えてみたい。

 ア 睦月島の風土と歴史

  ① 睦月島の位置

 睦月島は、松山市の北西約9km、高浜港より高速艇で15分の距離であり中島本島より約1km東に位置する。防予(ぼうよ)諸島、また歴史的には忽那(くつな)七島の一島である。瀬戸内海西部の中心近くにあり、後述するように江戸時代から現在まで、島の周辺は瀬戸内海の中心海運ルートとして利用されてきた。
 島の面積は約3.5km²で、集落は1箇所のみであり、若干の平地はあるものの、山がちで狭隘(きょうあい)な島の中に多数の人々が生活してきた。港や集落は、南に大きく開けている所に立地しているので暖かく、柑橘(かんきつ)栽培の適地であるが、そのため平成3年9月の台風19号の被害に見られるように、台風等の自然災害を受けやすい土地柄とも言えるのではなかろうか。行政区画としては、江戸時代には無須喜(睦月)村、明治22年に野忽那(のぐつな)村と合併して睦野(むつの)村となり、昭和35年に中島町と合併(⑪)し、同町の大字となった。

  ② 歴史と風上

 島には縄文・弥生時代の土器片も発見されており、古くからの住民の居住が推定される。                                   
 本格的な開拓は11~12世紀に忽那氏一族によって行われたようであり(⑫)、南北朝時代には、北条を拠点とする河野氏と忽那氏の争いで島が戦場ともなった(⑬)。江戸時代には大洲藩領であった。
 同じ忽那諸島内の他集落と、明治初期(明治11年=1878年の「風早(かざはや)郡地誌(⑭)」による)の戸数・人口や江戸時代の石高等を比較すると、農業生産の豊かな大浦、漁業収入のある津和地等に比べ、明治初期までの睦月は人口が多い割に狭小で(石高が少なく、漁船が少ない=漁業も盛んでないため)、生活の支えとなるものがあまりないことが見てとれる。このように狭小で農業以外に主産業もなく、厳しい生活を送っていた睦月島の人々の生活が、行商という生業を見出して大きく変わってきたのは明治の時代に入ってからである。
 ではなぜ、睦月で行商が始まることになったのであろうか。江戸時代の帆船による「沖乗(おきの)り」(瀬戸内海中央部を航行する)ルートの発展に対し、津和地島では参勤交代の御茶屋が置かれ商港として繁栄し、中島本島の粟井は天然の良港大泊を持っていたこともあり、廻船(=海運)業が江戸時代から盛んであった(⑮)。粟井や睦月は、(四国からの地方(じかた)航路も含めた)これらの主要海運ルートからややはずれるが、船舶の格好の避難所として「潮待ち」「風待ち」の場として利用されていった(⑮)。これらの潮待ちをしている船舶に、「沖売り」と称して食料品や薪及び手織の反物等を売りつけるようになったのが、睦月の行商の始まりとされている。第1章第2節の「島々の歴史的特質」で前述したように、19世紀以降には忽那諸島の各集落は(農業生産力が低い関係もあって)、牛船(うしぶね)・薪船(まきぶね)・芋船(いもふね)・炭船(すみぶね)等の名称で、(島の生産物を売却する等)小船による海運・商業活動が盛んであった。睦月の行商発展の背景となる状況があったわけである。

  ③ 睦月行商成立の背景

 明治以降に睦月の行商の本格的な発達が見られ、また睦月島(及び野忽那島)のみが行商の島として顕著な発達を遂げた理由はどこにあるだろうか。以下は推測であるが、一つは江戸時代末期から明治にかけての、伊予絣(いよがすり)を中心とした手織り反物製造の隆盛が背景にあると思われる。この手織り反物製造の発達は、愛媛県全体に見られたものであるが、人口の多い他町村に比べ、小村である睦月村の賃織(ちんおり)世帯数・機(はた)数・従業者数が、ひけをとらない高い数値であることがわかる。狭小で農業生産力の低い睦月・野忽那島にとって、手織り反物の製造が貴重な現金収入であったからであろう。自島で製造した反物を、自らの船により行商で販売することができれば、仕入れの費用も流通経費もいらず、高利潤を得ることができるわけである。しかも瀬戸内海中央部に位置することから、他地域への交通は非常に有利な立場にある。このことを「沖売り」を通じて一部の者が身を持って体得し、その高利潤に誘われ島内の多くの者が行商の生活に入っていくことになったと思われる。
 睦月・野忽那島で行商が発展し、忽那諸島の他の集落ではそのようなことが起こらなかったのはなぜであろうか。推測であるが、前述したように睦月島は狭小な中に人口が密集し、中島本島のようには十分な農地面積がない。しかも二神島や津和地島のような漁業収入に頼ることもできない。同じ「潮待ち」の寄港地としての粟井は、すでに前述のような特異な発展を遂げている。これらの他集落の人々は、行商のような不安定な生業に改めて進出する必要性を感じなかったのであろう。長い間多い人口と狭小な面積の中で生活に苦しんできた睦月の人々が、行商に生活向上の糸口を見つけたのではなかろうか。

 イ 行商の開始と発展(明治初期から昭和初期まで)

  ① 行商の開始

 前述のように、睦月沖で「潮待ち」をする船舶に対しての「沖売り」から睦月の行商は始まった。これらの船舶にたいし、野菜や薪炭及び「ニグロ染(ぞ)め」と呼ばれる手織りの反物を売るようになった。睦月の反物行商を縞売りと呼ぶのは、「ニグロ染め」(おはぐろのふしで染めた黒の織物)を含めた手織り反物が、縞模様(しまもよう)であることからきたとされる。
 このような沖売りの始まりは江戸時代末期からであることが、睦月島の楠家の慶応3年(1867年)の記載がある反物送り状から推測される。
 このような「沖売り」は明治末まで細々ながら残っていたと、聞き取りからも確かめられ、蒸気船に伝馬船で漕ぎ寄せて商売を行い、睦月よりはるか離れてから離船し、半日かけて漕ぎ戻った話しをよく聞いたとの事である。しかし明治20年ころを境として、伝馬船で瀬戸内海各地の島しょ部や沿岸を回り、数人連れで船を宿に行商を行うようになったようである(⑪)。この頃の行商は1か月程度で周辺地域を対象としたものであった。本格的な行商の始まりは明治10~20年の間と思われる。明治20年(1887年)ころには、睦月で親方15人、売り子60人を数えたと言われ(⑪)、上記のような形での行商が明治30年代初期まで続いた。

  ② 行商の発展(明治末期より昭和初期まで)

 明治30年代後半より昭和初期までは、行商者数や行商先の変化はあったと思われるが、行商形態は一貫していた。この時期の行商形態は、それまでの伝馬船に変わり、ある程度大型の帆船を使用するようになり、「縞売り船」と称して船で寝泊まりして行商をし、瀬戸内海に留まらず九州・山陰各地に進出していくようになったのである。
 この間の行商の発展を(「睦野村村会議案綴」の税務関係の資料より)睦野村の商業税納入者から見ると、図3-3-15の通りである。
 図では明治22年(1889年)で商業税納入者が(集落規模から考えても)91人と多く、この大部分が行商従事者であったと考えられる。また季節的・不定期な売り子を含めると実際の行商人数はもっと多いであろう。なおこの数値は睦月・野忽那両島のものであるが、野忽那の行商は昭和以降盛んになったことを考えれば、明治期の商業税納入者は睦月が大多数を占めるだろう。
 田村豊氏の「睦月誌」(明治42年発行)によれば、明治41年(1908年)において睦月島で「商業者鑑札ヲ有スルモノ百二十四名」「近次織物ノ小売二従事スルモノ著シク増加シ、ソノ数ホトンド二百名二近シ」との記載があり、上記図の数値と一致する。なお同じく「睦月誌」では、睦野村の商業者は353人(この数値は兼業者を含めたものであり、農業は1,982人、工業は489人である)とあり、職業別人口割合について「商業ハ睦月七分半、野忽那二分半ノ割合ナリ」との記述がある。これより考えると明治末期において睦月島の行商人数は、売り子を含め二百数十名程度である。
 図3-3-15から見ると、商業税納入者は特に大正年間に飛躍的に増加している。大正初期と大正末期を比較すると、倍増していると言っても過言ではない。この間の睦野村の人口は、(同じ村議会綴によると)明治11年(1878年)の2,044人が明治43年(1910年)には2,497人に達し、それ以降大正末期まで2,500人前後でほとんど変化していない。このことから、第1次世界大戦中(大正3年~大正7年=1914~1918年)の好景気の時期に、行商が著しく発展してきたことがわかる。
 次に大正9年(1920年)の睦野村の職業別人口構成を、国勢調査により見ると図3-3-16のようになる。
 図3-3-15と図3-3-16の大正9年の数値を比較するとほぼ一致する。農業との兼業による売り子等を入れると、大正9年(1920年)で睦野村の行商人数は三百名を軽く越すであろうと思われる。また図3-3-16より見ると、特徴的なのは工業における女子従業者の多さであり、これは前述の家内制手工業による織物生産に携わったものであろう。また女子の従業者も多く、これは明治期の田村豊氏の「睦月誌」とも共通し、戦後においても睦月の行商者の半数以上は女子であった。睦月の行商は女性が支えていたと言っても過言ではない(野忽那島の行商は男性中心であり、この点で大きな相違がある)。中島本島における聞き取り調査でも、年配者において睦月の女性は「やりて」であると評され、行商を通じて世間をよく知り稼ぎも多いことからか、「睦月女に○○男」と高く評価されていた。
 さらに昭和10年(1935年)ころの行商の全盛期には、臨時の売り子も含め500人近く行商に出たと言われている。睦月島の人口は1,500人程度であったから、人口の3分の1が行商に出たこと(⑪)になる。しかし、昭和5年(1930年)の国勢調査の業別人口構成では、商業従事者は132人(男57人、女75人)と、大正9年に比べ半減に近い数値であり、当時の世界恐慌(昭和恐慌)の影響を受けたものであろう。聞き取りによると、これは一時的なものでその後行商人数は回復したようであるが、景気動向の影響を強く受ける生業ではあった。

  ③ 行商船と行商先

 「睦月誌」によれば明治39年(1906年)においては、睦月の行商船(小型で近海を対象とするものは除くと)は十数隻であっただろう。聞き取りにおいては、昭和初期のころで船長6尋(ひろ)(=6間、約10m)が、行商船の標準であった(6尋船)。船幅は2間半ほどで、大人二人が横に寝て頭をまたがねばならない程度の幅である。当時は全て帆船であった。
 船には5・6人から、多い時には10人余り乗り組み、船主(せんしゅ)(船舶所有者)が行商の親方であり、操船もする。それ以外は売り子であるが、風が凪(な)いでいる時は櫓(ろ)で漕ぐ手伝いもした。船内にはカマド(カワラくどと称する)があり、また七輪・薪・米等を積み込み、炊事等日常生活のほとんどを船内で自給できるようにしていた。聞き取りによれば、昭和初期の全盛期に船数は30隻近くあったということである。船も8反船と呼ばれるやや大型化したものとなり、昭和7・8年以降に動力付きが多くなり、機帆船型の船が中心となった。このころには、10~20人近く乗り組むことが多くなってきた。
 行商先としては前述の「睦月誌」に「其(そ)ノ主ナル販路ハ東ハ大阪・和歌山・岡山・徳島・香川ノ各県ヲ通ジテ、北ハ山口・広島・島根・鳥取ノ各県二至リ、西ハ宮崎・大分・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島ノ各県二渉(わた)リ進ンデ朝鮮沿岸二至ル」との記述がある。また上記の文章に続いて「抑(そもそ)モ本島人ガ以上ノ如キ遠地二転々シテ容易二営業ヲナシ得ル所以(ゆえん)ハ、一八各自ノ所有船舶二一族又ハ知己ノ便乗シテ、少許(すこしばかり)ノ費用モテ任意ノ方向二至ルヲ得(う)」とあり、当時の船による行商の有利さを述べている。また睦月の**氏(大正9年=1920年生まれ、睦月在住で中島町教育委員長)に例示して頂いた、**家の行商船の行商ルート(大正~昭和初期)を地図上にたどったものが図3-3-18である。

  ④ 行商期間、行商形態、行商組織(聞き取りに基づいて)

 行商期間は、春は旧暦3月から7月まで、秋は9月初めから12月までで、それぞれ4か月間行商を行い、盆と正月の前後1~2か月を睦月で家族とともに過ごし、次の行商に向けての商品の仕入れや薪・米の準備、農作業の手伝いをする。
 船主(船舶所有者)が親方として、5~20人の売り子を船に乗せて、各地に寄港し行商を行う。親方の主要な仕事は、商品の仕入れと管理、及び船の操船と寄港地の選択である。親方・売り子の結び付きは親戚知人が主で、親方は仕入れ値の1割5分増し(3割程度の場合もあったと言う)程度で売り子に商品を託し、それ以上の売上げは売り子の利益となる。寄港地は親方が決定するものの、売込先は売り子の裁量(さいりょう)に任され、また親方自身も行商し、親戚関係が中心ということもあって、封建的な支配隷属(れいぞく)関係はほとんどなかった。旅費や食費及び船番の雇用賃は、人数分で頭割りしていた。親方は資力があり行商船を所有している者がなるわけだが、売り子時代のもうけ等で船を購入し親方になる者も多く、特定の人々が親方の仕事を独占しているわけではなかった。概して商売本位の、ある意味で民主的な組織と言えよう。
 戦前までは現金売りが原則で、下船後に売り子は徒歩或いは種々の交通機関を利用して、各戸を商売して回った。しかし宿泊は船に戻ることがほとんどで、これは生活費を少しでも切り詰めるためでもあった。昭和9年(1934年)ころで、売り上手な人で半期(4か月)で150円から200円、600反の売上げで、一般には80円から100円程度が、純利益として売り子の元に残った。
 行商の服装は、男はアツシの着物に紺色の前垂(まえだ)れ、女は絣(かすり)の着物に紺色の前垂れ及び脚絆・腰巻をしていた。足元はわらじで後に地下足袋になり、男女とも男物のコウモリガサを持っていた。昭和初期には、商品見本的な意味もあり、男は絹・毛織、女は銘仙(めいせん)を着て白足袋(しろたび)に桐下駄(きりげた)をはいて回ることもあったらしい。行李(こうり)を厚手の風呂敷(ふろしき)に包み担(かつ)いだ。男は40・50反、女でも30反ほどは担(かつ)いだとのことであり、30反だと20kg余りになり、これを担いで数十kmも歩くということは大変な仕事であった。

  ⑤ 行商品と仕入れ 

 前述の「睦月誌」により、明治41年(1908年)における睦月の行商者の売りさばき高を見ると、反物の総合計は305,700反であり、行商者を200人とすると、年に1人当たり1,500反を売ったことになり、(実際の行商期間は前述のように8か月で、船の移動日数を差し引いて)実働日数を200日とするとおよそ1人が1日当たり7・8反を売った計算になる。当時の取り扱う品物は、絣(伊予絣)と縞(模様の織物)が中心であった。絣は三津浜港から、当時生産の盛んであった三津(他に掘江、垣生が盛ん)の物を仕入れたと思われ、縞については自島生産の物も多い。しかしすでに明治末期には仕入れの8割を島外に依存している。
 他地方からの仕入れにおいて、睦月島と深い関わりを持ったのは広島の立石(たていし)商店と岡山の日下(くさか)商店であった。大正~昭和初期においては、仕入れの大部分を両商店に依存していたこともある。睦月の富田八幡神社の玉垣(たまがき)には、両商店の「昭和9年、壱百円奉納」の記載があり(写真3-3-22参照)、神社でも戦前の銘のある中では、ひときわ多額の寄進であり、当時の両商店と睦月の深い関わりをうかがうことができる。聞き取りによれば、他には八幡浜の酒六(さかろく)商店からの取引も多く、酒六の社長の娘さん(元参議院議員夫人)の名前は、取引の多いことから睦月の名を記念に取ったものとも言う。
 聞き取りによれば、取り扱う品物は明治大正期に絣・縞中心であったものが、昭和初期以降は銘仙・錦沙(きんさ)・更沙(さらさ)(カタツキ)等の絹織物や人絹(じんけん)、セル等の毛織物、ガス・織紺(おりこん)等の綿加工品等、高級品を含めた幅広い商品を扱うようになってきた。
 商品の仕入れは、盆正月前後に睦月に帰ってきた際に、直接問屋に出向き、商品を見て仕入れるようにしていたとの事である。出発の際には、縞売り箱に、2,000反程度を入れて船中に積込み、不足分は電報で前述の日下商店・立石商店等に注文し、寄港先に鉄道便等で送らせたとのことである。

図3-3-15 睦野村商業税納入者数の推移

図3-3-15 睦野村商業税納入者数の推移

「睦野村議会綴」(中島町教委蔵)より作成。

図3-3-16 大正9年睦野村職業別人口構成

図3-3-16 大正9年睦野村職業別人口構成

なお数値は本業者のみで、子供・老人等の本業なき従属者及び家事使用人は含まず。「国勢調査報告」により作成。

図3-3-18 睦月行商船の行商ルート(大正~昭和初期、**家)

図3-3-18 睦月行商船の行商ルート(大正~昭和初期、**家)

〔 〕が寄港・停泊地。

写真3-3-22 寄進記念玉垣

写真3-3-22 寄進記念玉垣

睦月當田八幡神社。