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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)戦前の漆器行商

 ア 椀船の思い出

 **さん(大正12年生まれ、68歳、現吉海町立郷土文化センター所長)聞き取り
 **氏は父・祖父が椀船行商の親方であった。椀船行商の経験者がほとんどいない中で、以前から行商に関する伝聞をまとめられ、また直接に両親の行商を見聞してこられたことで、貴重なお話を伺うことができ、その内容をまとめてみた。

  ① 椀船行商の内容

 「椀船は、9トン程度の帆船で、後に櫓がついていました。昭和に入ってしばらくすると動力船が多くなり、機帆船になってきました。昭和10年ころで5隻くらいあったでしょうか。船主を船頭と言い、親方として船舶、積荷(漆器)、航海費(食費その他の生活費を含む)を負担し、売り子とかしきを乗り組ませて商売しました。だいたい1隻に売り子が5人くらいでした。かしきは1人で皆の食事の世話をし、3年で売り子に昇格します。
 行商期間は旧暦の2月から4月、8月から10月までで、前者を春上下(はるじょうげ)、後者を秋上下(あきじょうげ)と言いました。行商先は、私の父の船は安居島(あいじま)・長浜・三机(みつくえ)を経由して、佐賀関(さがのせき)・臼杵(うすき)・佐伯(さえき)と主に大分県の方に行っていました。祖父は佐賀県の呼子(よぶこ)まで行っておったりしたようです(図3-3-30参照)。それぞれの船頭(親方)に縄張がありまして、他の船では宮崎・鹿児島、佐賀や長崎・五島列島に行く船もありました。たまに縄張を荒らすのがおって、得意先に品物を売られたと父が憤慨していたのを聞いたことがあります。得意先がだいたい決まっていますので、各港々にも倉庫を借りて、かなり長い間停泊し、その聞売り子は荷を持ってあちこちに商売をしに行くわけです。朝出て夜中には帰って船で寝泊まりします。仕入れ値に対してのおよそ5割増し分を親方の利益として売り子に渡し、それ以上の代金で売ったお金が売り子のもうけになります。およそ仕入れ値が10円であれば15円として売り子に渡し、売値は30円くらいだったでしょうか。大正から昭和にかけては、これ以外に『送り荷』と言って、宿に直接品物を送り陸路で行商をする人も十数名おりました。」

  ② 行商の組織と生活

 「親方は行商から成りあがってきた人が多かったです。どちらかというと漁家出身の人が多いようで、鰯網の網元から親方になった人もいました。難船したり代金の回収ができなかったりするなど危険な面もありますから、安定を求める農家の気質に合わんのじゃないでしょうか。江戸時代からの商売ですので代々行商をやる家というのも決まってきとりました。漆器は高価でしかも仕入れはすべて現金ですから、親方にはかなりの資金がないといけません。売り子を選ぶ際には、必ずしも親戚関係だけでなく、まじめで信用の置ける者を選んでおったようです。昭和初期で椋名に5人兄弟がおったら、一人は農業、一人は漁業、後の三人はそれぞれ塩田、杜氏、行商の道に入ったと考えてもらったら、それほど間違いはないでしょう。
 出船(出港)の時は船主(親方)の座敷で宴会をやって出ました。東風(こち)の吹く日に(九州に行くのに都合がいいので)出て、乗組員の親戚縁者がこぞって浜に並んで、船が波方の千間磯(せんげんいそ)の先で見えなくなるまで、航路の安全と旅先の無事を祈って見送りました。入り船(帰港)になると、家族全員が出迎えて、帰って2回目に算用酒(さんようざけ)というのをやります。これは売り子間で集まって帳面とそろばんで各自の売上げを出し、親方は食費と元手を抜いてお金を売り子に渡すものです。その後は酒が出て宴会になります。正月2日には乗(の)り初(ぞ)めをし、その時も親方が売り子を招いて宴会をしますが、この時ばかりは親方が売り子に酒をついで回ります。盆の15日も同じです。
 行商にでない5・6・7月、11・12・1月は、売り子らは農漁業をしたり、杜氏(とうじ)等で出稼ぎに行きます。親方は山に行って割木(わりき)を作ったり、みそ・しょうゆを作って、船に積み込めるようにして、次の行商の準備をします。米は小作人が持ってきてくれます(戦前に椋名の人の村外土地所有は25町歩に達したとされる(㉕))。それらの薪・みそ・米で航海中は自給するわけです。またこの時期に親方は仕入れ先に行って商品を選びますが、その後和歌山の黒江から、稲荷(いなり)丸という大船が商品を椋名に運んできます。海岸の砂浜に次々と商品が置かれ、その上に各親方の屋号をつけたむしろをかぶせます。荷が来たということになれば、売り子の家族も総出で、親方の倉庫に荷を積み重ねていきます。動力船の時代になると、航海士の免状を持っているので、この時期に石炭船や雑貨船として若松・尾道・大阪等を回る船主(親方)もおりました。
 行商中の売り子の服装は、筒袖(つつそで)に股引(ももひ)きで、荷ない棒の両端にタンバ(竹の皮で作った箱)をつけて、その中に漆器を入れて売り歩きました。親方も売り子も村内の零細な農漁家に比べ、生活は豊かでした。売り子で資金を蓄えて田畑を買う人も多かったですし、親方になった人もおりました。特に親方の家は、上がり框(がまち)や鴨居(かもい)も大きく、他の家はあら壁造りですが、白壁塗の家を皆持っとりました。親方の家については、今でも屋号を明神(みょうじん)丸の○○、幸徳(こうとく)丸の○○等、船の名前で呼ぶことが多いです。私の家は宝栄(ほうえい)丸でした。鹿児島方面に行っておった船も多く、椋名では西郷(隆盛)さんや別府晋介の書や、あちらの槍・刀や生活用具を持っとる人が結構居ます。そのような九州とのつながりは椋名は深いようです。」

  ③ 太平洋戦争前後の行商とその消滅

 「昭和15年ころから、徴兵・徴用によって人と船舶を失い、漆器生産地も職人と原料の不足から生産困難となり、椋名の行商は自然消滅していきました。戦後再び漆器行商は復活しましたが、プラスチック製品に押されて昭和30年ころにほとんど行商は消滅してしまいました。船主だった**さんは鋼船を購入して海運業に転進し、**さんは大分県臼杵に、**さんは呉の仁方に、桜井漆器の製造元に養子に行った**さんの弟の**さんも高松に、それぞれ家具や室内調度の店を持ったと聞いております。かつて行商で繁栄した椋名も、今は静かな半農半漁の村となって現在に至っております。」

 イ 宮崎での生活=戦前戦後の陸路漆器行商

 **さん(明治43年生まれ、82歳)
 **さん(大正6年生まれ、75歳)聞き取り
 お二人は、幼少時より隣同士で仲が良く、戦前から「送り荷」と呼ばれる陸路行商をやってこられた。その宮崎県での行商の内容と日々の生活について、聞き取りを元に以下にまとめてみた。

  ① 戦前の商売

 「子供のころ(大正年間)には椀船が10隻あまりはあったでしょうか。瀬戸内海周辺を回る船もあり、九州の西(大分・宮崎・鹿児島)を回るのは3隻ほどだったと思います。私は高等小学校を卒業してから、父と一緒に『送り荷』で行商を初めました。20歳(昭和4年)で結婚し、宮崎県の国富(くにとみ)町(図3-3-32参照)に定着して商売をするようになりましたが、夫婦で下宿住まいというのも困るので、家を持ちまして結局6人の子供もそこで育ちました。そのころは『送り荷』をする者が20名近くおったと思います。九州の人は格式を重んじるので、何ぞ祝い事等のある時に最低一揃い(膳と椀、刺身皿、木皿)の膳がないと恥をかくと言われ、10人前を一組として最低の単位で売りました。椀だけの10人前が(昭和5年ころ= 1930年で)12円ほどです。先生の月給が40円、米の1俵の値段が10円の時代です。全部を買い揃えるのは大変じゃから、今年は膳、来年は吸い物椀というように揃える家が多かったです。親戚の多い家は30人前は揃えました。
 高価な買物なので、各村ごとに頼母子講(たのもしこう)を作って年に2・3回会を開き、そこで順番に購入してもらうようにしてました。10~15人ばかりの頼母子講を30ばかり持ってましたか。例えば10人の講でしたら、皆が20円ずつ出し合うと200円になり10人前の膳一揃いを買えます。くじで順番に品物を手に入れ、10回やると全員が品物を手にすることができるわけです。最初に品物を得た人も最後まで20円のお金は払い続けるわけで、要するに今の月賦と同じことになります。頼母子講は定期的に金が入って来るのでありがたかったです。現金でなく貸付けが主で、たばこ収納や秋の収穫時の節季払いも結構ありました。私が主に扱うとったんは紀州物(黒江塗)で、福井の若狭塗(わかさぬり)や桜井漆器も含めた標準的な品です。輪島塗となるとその10倍くらいしますかな。半季毎に和歌山の問屋を通じて、塗場で直接品物を見て仕入れました。
 米を現物でもらって、それを売ってさらにもうけることもありました。戦前の商売が順調なときには、農家から金の代わりにもらった『もみ』のままの米が200俵ほど倉庫に山積みにしとりまして、米の仲買の人が『米価が上がってきたんでそろそろどうですか』と言われて売って、椀でもうけ米屋でもうけしよるようなもんでした。
 売り子を2人雇っとりましたが、売上げは私が稼ぐのが主でした。8トン貨車一杯積んでそれを全部売ったら、もうけが当時で千円くらいになりましたか。1年で千円はもうかりよりました。『国富』の家を600円で買いましたが、1年間は300円で十分な生活ができた時代です。仕入れ値の3~4倍では売れて、正月までに集金を済まして、春は碁を打って遊んどりました。家の回りはお医者さんが多くて、昼日中からその先生が碁を打ちに来て集会所みたいになっとりました。奥さんが『あんた、もう帰らんね』と怒鳴りこんできて一騒動起こったこともありました。『椀屋さん』『椀屋さん』と呼ばれて大事にしてもろうて、今考えたら夢のような時代でした。
 戦争が激しうなって漆器の生産もできんようになり、昭和16年ころ(1941年)に椋名に帰りましたが、徴兵逃れで一時兵器工場に行きました。昭和19年(1944年)にとうとう召集になり満州(中国東北地方)に行き、敗戦でシベリアに抑留されて、復員したのは昭和22年です。帰ってみたら1升50銭の米が200円になっとって、今浦島みたいなもんでした。戦時中は私も居らず、それまでの財産も衣服も全部売ってしもうて、妻はずいぶん苦労したようです。」

  ② 戦後の商売の変遷

 「私の祖父は船を持って鹿児島の方まで行っておったようですが、体を悪くして止め、父はずっと売り子で苦労しました。私も高等小学校を卒業してから椀船の売り子をするようになり、最初の半季の売上げが800円で親方に褒められました。しかし食費や元手を抜いたら、そう大きいもうけにはなりません。物資不足になってから今治で店員を数年してましたが、昭和16年に戦争が始まると志願して兵役に入り、19年の末に満期除隊しました。
 昭和25年に小さい頃から大事にしてもろうた**さんのいる宮崎で行商をするようになりました。佐土原(さどはら)市(図3-3-32参照)に家を借りて、妻も連れていきました。**さんのころと違うて、仕入れ値の5割増し位でやらんと売れず、仕入れは現金で高価な物ですから、ずいぶんと苦労しました。それでも商売が好きであったし、父が売り子で苦労しとるのを見とるので、店を出して独立し売り子も雇わず何もかも一人で必死に品物をはかせる(売りさばく)毎日でした。節季の秋口や年末の頃は集金であっちこっち回って、家に帰るんが夜中の1時2時ということも多かったです。品物を買うてもらうために、いりもせん鶏を高い値でようけ(たくさん)買うて、数十羽ほど家にいつもおりました。
 漆器はとにかく高価なものですから、店でなんぼ待っても売れませんし、『お椀いりませんか、そうですか』言うて引き下がっておっては、一つも売れません。とにかく粘り強く相手の顔色を見て売り込むことが大切で、九州ではすぐお茶をだしてくれますが、それで話しこんで安手の箸も50~100本ほどあげて、よく親しくなってから初めて商売ができるようになります。そうなったらその家がだめでも、親戚や近隣で祝い事のある家を紹介してもらうようになりました。漆器の見本をタンバに入れて、最初は自転車で後には単車で走り回りました。昭和50年にこちらに戻って農業をするようになりました。」
 「戦後の物資がない時は、雨傘や石鹸の卸しと小売をして生活しました。そのうち世の中が落ち着いてきて、昔のなじみの問屋に連絡すると、品物を送ってくれるということで、再び漆器行商をするようになりました。しばらくして、店も出しました。昭和30年過ぎには宮崎でもみかんを植えるようになりましたが、みかん栽培の技術は愛媛の方が進んどりまして、(宮崎で全く使っていなかった)ピストル式の動力噴霧器を製造元から直接購入して分けてあげたり、剪定(せんてい)のしかたを教えてあげたりしました。人の喜ぶようなことをしてあげないと、商売もうまく行かないものです。
 60歳になった昭和40年過ぎに、長男に店を譲って椋名に帰りました。今長男は宮崎で家具商として店を続けております。もう40年ころには九州でも、家に親戚一同を何十人も招いて祝い事をやることなど非常に少なくなってきました。商売を止める時、記念に商売品の屠蘇器(とそき)や本膳(ほんぜん)一式を持ち帰りましたが、今は私等でもあまり使うことはありません。高価なものは別ですが、現在のように家庭で種々の行事をすることがなくなると、我々のような漆器行商が消えていくのも時代の流れでしょうがないことです。」

図3-3-30 **家の行商範囲(大正~昭和初期)

図3-3-30 **家の行商範囲(大正~昭和初期)


図3-3-32 宮崎周辺要図

図3-3-32 宮崎周辺要図