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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)戦後の漆器行商

 **さん(昭和9年生まれ、58歳)
 **さんは、戦後復活した船による行商を、その消滅まで続けて来られた。長い歴史を誇る椋名椀船行商の消滅の経過をまとめてみた。

 ア 椀船生活の始まり

 「私の祖父は椀船の親方でした。明治12年の小学校の修学旅行で、祖父の6丁櫓の船で尾道まで行ったと聞いたことがあります。父は農業を受け継ぎましたが、私の叔父が行商を続けておりました。私は(新制)中学校を卒業して、叔父の船に乗るようになりました。祖父と私はよう似とると皆に言われ、私もその血を継いだのか商売が好きでした。叔父が頭(親方)で売り子として働きましたが、甥として早く独立させたいという気持ちもあってか、最初から仕入れ等も手伝わしてくれました。私もそれに応えようと、いつごろ景気がいいか等各地の売り先を一生懸命研究して、努力してきたつもりです。
 戦後すぐの時は、石鹸や衣料品を主に扱い、ワンピースとスーツの違いもわからんのに服地もたくさん売りましたよ。しばらくして漆器生産も復活し、当時渦浦農協の2階で『国際輪島漆器協会』という仰山(ぎょうさん)な名前で、行商人が年2回盆と節季に会合を開いて、売上げ高等を持ち寄って商売の研究をしてましたが、始めてちょっとの間に、20人ばかりの会員の中で、真中より上になった時はうれしかったです。16・7のころでした。
 叔父の船は15トンほどの焼玉エンジンの動力船で、上に屋形のついたものでした。行くのは山口県・広島県・岡山県等の海岸部が主で、場所によってはかなり山間部まで入りました。1回出ると40日ほど行商に回ります。1年で何回もそれを繰り返すわけです。戦前の売子のような3か月ほどの季節行商ではなく、ずっとやっていきました。親方が仕入れをして何割かの利益を取って売り子に渡し、販売させるやり方は昔と変わりません。
 昭和29年に20歳で、小型船舶操縦士の免許を取り、自分の船を買い独立しました。船の名前は三宝丸で、屋号は祖父のものを受け継ぎ、タ。(カネタマル)でした。売り子は自分の親戚ばかり4人です。29年当時で漆器行商の船は、私と叔父の船を含め4隻でした。また商業会にいつも集まるのは24・5人ほどだったと思います。船にできるだけ帰って泊まるようにしてましたが、長くかかる時は1泊もしました。だいたいは積み込んどった自転車で回り、一山二山越すことは当たり前でした。米は積んでいきましたが、昔のように船中で全部自給するのでなく、港々で買物はしよりました。」

 イ 商売方法

 「桜井の漆器製造元で仕入れをしました。そこでは桜井漆器だけでなく、紀州塗・堅地・渋地・半田・輪島塗といろいろ取り揃えてもらい、私等にとっては重宝でした。これらの漆器の種類は素人目で一見しただけではわかりません。輪島塗の高級品と、機械化して大量に作る塗物でも、ちょっと見ただけでは私等でも区別がつきにくいです。そこにつけこんでだます商売人もおりましたが、しばらく使えば品の善し悪しはわかります。特に私の場合なじみの得意先ばかりでしたから、私はそのようなことだけはしませんでした。とにかく商売には誠意が一番大切です。品物は輪島塗も扱いましたが、桜井・紀州塗が主でした。
 一商で3~5万円の金が動きました。40日間で大きな商売が4~5軒あり、それらは節季払いが多いですが、収入の中心は頼母子講によるものです。頼母子講は、10~20人くらいでだいたい月々やるようにしてました(ただし戦前の年3回程度に比べ期間が短い。)。最初に町内会長さんや組長さんのところに何日もお願いに行ってその人らを中心に講を作ることが多かったです。いつも10ばかりは講を持っとりました。とにかく高価な品物なので、気長に話をして相手に納得してもらうことが大事です。夕方相手方の手のすいとるころに行って、夜中の1時2時まで話し込むことがしばしばでした。」

 ウ 行商の消滅と行商への思い

 「昭和30年ころからプラスチックの漆器まがいの品物がどんどん出始めて、昔のように家で大きな祝い事をすることも少なくなり、販売額がどんどん少なくなってきました。1日の売上げが1,500円ほどの菓子器くらいしかない日もあって、昭和32年まだ若かった私の職種の転換期だったんですね。この30~35年頃に椋名での漆器商はばたばたと止めてしもうたです。生活そのものが変わってきたからしょうがないことかもしれませんが、寂しかったですね。
 おかけで郵便局に24歳で勤めるようになり、地域の世話役もするなどして、今は退職、趣味を生かして自分なりの人生を送っています。しかし今でもよく行商してる夢は見ます。退職したらもう一度商売をしたいと思ったこともありました。本当に商売が好きだったのですね。自分が精一杯やり通せず、行商を中断しなければならなかったことが、今の私の心残りです。」