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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)機帆船の活躍-内航海運の主役

 第1章第2節で述べたように、第1次世界大戦後の瀬戸内海各地における重化学工業の勃興と綿工業を中心とした軽工業の発展の中で、大正末期から昭和にかけて帆船に焼玉エンジンを付けた機帆船が内航海運の主役として登場し、石炭輸送を中心に九州はじめ全国各地を結んで活躍した。
 島々における機帆船の移行について、大島出身の藤沢与平氏は、「帆船から機帆船に代えたのは昭和4~5年ころで、最初は造船所が1か所もなかった。そこで機帆船の発祥の地、淡路の福良で2本マストの250総tの船を造った。」さらに、「わたしら、九州の志布志、宮崎、細島方面から、帆船に木炭・材木積んでいきよった。年間8航海くらいで、これが石炭輸送船に変わってきた。機帆船に代えて小型になったが、阪神からここまでは雑貨輸送。エンジンや機械油がどうなるかもわからん。ほんとの素人やったが、しかし、先端を行ってよかった。わたしら津島(吉海町津島)ですが、当時としてはこの辺でも優秀な機帆船だった。」と往時を振り返って語っている(①)。
 しかし、昭和時代の内航海運を支えた機帆船も、歴史の激流にほんろうされ受難の時代を迎えた。すなわち、昭和12年(1937年)7月、日中戦争が勃発し、戦火の拡大とともに海運の国家統制が始まったが、特に、昭和16年の太平洋戦争勃発以降、戦時体制によって機帆船の軍部徴発が増大した。しかも、大型の優秀機帆船ほど徴用され、南方戦線の海域を主に北方海域や中国大陸方面において、大多数の船舶が船員とともに戦火の犠性となり、海底のもくずと化してしまった。
 昭和20年(1945年)8月、太平洋戦争の終戦までに喪失したわが国の船舶は843万tに及び、開戦前の保有船舶量に戦時中建造分を加えた全船舶量の約84%に達するという悲惨な結果となった。島々の機帆船も被害甚大であり、伯方町では戦前50~60隻ほど保有していたが、戦後帰島したのは3割に満たなかったといわれ、波方町でも140隻の機帆船が徴用され残ったのは22隻であった(②)。また中島町誌によれば、中島町においても終戦後の船主船長の船舶は4隻(石炭船2隻、雑貨船2隻)しか残らなかったといわれる(③)。