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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)親子で活躍する渡海船主

 **さん(昭和4年=1929年生まれ、61歳)越智郡伯方町有津在住
 伯方町有津港内には、写真3-4-11のように小型渡海船専用桟橋があり、有津地区の渡海船として活躍している正島丸と栄俊丸が常時利用している。ここでは、正島丸の船主である**さんからお話を伺った。

 ア 渡海船の開業

 **さんは、奥さん(昭和9年生まれ)と長男(昭和35年生まれ)の3人家族である(次男は大阪で就職)。**さんの父親はかつて貨物船の乗組員であり、母親は有津で小売店を開いていた。**さんも28歳ころまで貨物船に乗り組んでいた。昭和22年に**さんの母親が亡くなったので、父親は貨物船に乗船したり、また船を降り店を見たりする生活となったが、やがて親子で渡海船を始めるようになった。
 「渡海船を始めたのは私が28歳の時(昭和32年)で、父と一緒に乗りました。父とは2年間ぐらい一緒に乗りましたが、その後は新婚早々の家内と乗り、20年間以上夫婦で一緒にやってきました。しかし、家内が体調を悪くしたので数年前から息子とともにやっています。そのころ息子は大阪の大学に在学していましたが、大学を卒業して手伝うようになりました。息子が結構一人前の仕事をしてくれるので、ありがたいことです。私の場合、幸い後継者に恵まれましたのよ。
 昭和32年に始めたころの船の名前は現在と同じ「正島丸」で、12.3tでした。正島丸の購入価格は当時で数十万円ほどで、購入資金は主に知人からと農協の融資でまかないました。船は現在の船が4隻目で7年前に宮窪町余所国(よそくに)の渡辺造船所で建造してもらいましたが、今でしたら数百万円かかるでしょうな。7・8年に1隻ずつ船を替えたことになりますか。やはり、荷物が多く積めるように船を大きく、エンジンを強くしたいから船を替えてきました。
 父と私が渡海船を始めた理由は、店もあったため自分の家から通ってできる仕事が良かろうということと、そのころは渡海船が一種のブームであったし、また日本の経済が上向きで人や荷物の動きが活発であったので、十分採算が成り立つであろうという見込みを持ったからです。特に、ここ伯方には塩田や造船所など地場産業が盛んでしたから。目下のところ、渡海船としての経営は一応安定しており、やはり渡海船を始めて良かったと思います。」

 イ 渡海船の運航について-夫婦で二人三脚-

 「私と家内と二人で20年間近くやってきましたが、かつては法規上、乗組員の資格は船長、機関長の二人必要でしたので、二人で伯方の船舶職員養成講習会を受講して資格をとりました。渡海船では一人が舵をとり、もう一人が荷物の様子や客を見ることが大事な仕事ですから、家内も舵をとりましたよ。現在は法的に小型船舶操縦士の免許を持つ一人で済むようになりました。渡海船ではだいたい夫が船長、妻が機関長というのが多いです。息子の出産のときは、私の父が家内に代わってピンチヒッターとして船に乗ってくれました。しばらくしてから家内は子供をおんぶして船に乗ったりしましたが、子供が2歳ぐらいになってからは、父が家で世話をしてくれました。
 最初の船は12tぐらい、ディーゼルエンジン10馬力で、今治まで約2時間ぐらいかかりました。今の船は19t(20t以上は日本国籍として登録が必要となり、法的規制で検査が難しくなり、20t未満の船を購入した。)8ノットの速度で、今治まで1時間半ぐらいで行くようになりました。
 船の航行は右航優先で、その他に来島海峡を東西に航行する船に対し、南北に航行する船が義務船で、回避義務があります。港でも出航船の方が入港船より優先権があります。順潮のときは沖から今治港へ直行し、逆潮のときは海岸沿いに行きます。東風(こち)が吹くときは吉海町回りで今治へ行きます。季節的には冬は日が早く暮れ寒さがきついので、やはり辛いですな。
 船の修繕や整備については、昔は年に数回『船たで』を砂浜でやっていましたが、今は宮窪町の余所国の造船所で年1回の船底手入れ、2年目に中間検査、4年目に定期検査をやります。自動車でいえば車検に当たりますかなあ。手入れいかんでは木造船の方が鋼船より寿命が永いですよ。」

 ウ 渡海船の業務活動と経営

  ① 注文、集配業務について

 「地元の小売店がそれぞれ電話で直接今治の仲買人に注文します。また、地元の店から前の日の売れ具合によって、私方に朝早く電話で注文があります(有津、木浦で3店ほど)。注文依頼の商品は主に生鮮食料品(野菜、肉、魚など)が多いですよ。今治には各商品に応じて仲買人がおり、野菜だけでも十数軒ありますが、昔からの永い付き合いで、この商品はこの店でと得意先の仲買人が決まっています。
 私たちは朝7時20分に有津港を出発して9時前後に今治港につきます。停泊中に仲買人たちがバイクや軽トラックで品物を運んで来るのを待ちます。荷物が到着次第、順次船に積んでいきます。今治出発は12時10分前後で、14時に有津港に帰り、その後18時ぐらいまで配達をやります。生鮮食料品を先に配達しますが、事業所などは17時に閉めるところが有りますので急いで配達します。配達の荷物の割合、大体小売店8割、個人が1割、事業所が1割ぐらいでしょうか。小口の仕事では、依頼された薬を病院に取りにいったりしますが、200円から300円で受け取りを引き受けるのですから、便利といえば便利ですよ。」

  ② 運賃・運送費

 「お客さんの運賃は片道400円です。乗る人はお年寄りがほとんどで、足腰が悪く病院通いの人などですが、船室で寝転んで行けるし、バスからフェリーへと乗り替えもなく、運賃も高速艇やフェリーより安いので毎日数人の利用客が有ります。以前は荷物よりお客さんの方が多かったですよ(写真3-4-12参照)。
 荷物の運賃は、ミカン箱程度のダンボール1箱で150円くらい、箱の大きさ・重さにより200円~300円くらいで、その時の荷物の程度で値段を決めます。段ボール箱を船一杯積もうとしたら、400から500箱位積めるけれど、平常は100箱程度ですかなあ(写真3-4-13参照)。有津からの往きの荷物はほとんどありません。現在は農産物(ミカンなど)の集荷は農協がやりますから。」

  ③ 営業時間と利益について

 「渡海船を始めたころは年中無休で、しかも夜は7・8時ころまで配達をやっていましたが、現在は日曜・祝祭日は休みます。台風とか濃霧など気象の悪いときも休みます。昔と違って、店や事務所が17時には仕事を終えて閉めますし、日・祝祭日は休みますから、私たちも仕事を休むようになりましたのよ。それ以前は、例えば、2の付く日、すなわち、2日、12日、22日とかいうように休みを取ったりしたもので、時代が変わりましたなあ。また、以前は今治を14時に出発しよったんですが、今は12時すぎに今治を出発します。早く帰って17時までに配達せにゃならんからです。昔、今治港での停泊時間が長かったのは、配達時間の制約がなかったからですよ。運賃の受け取りはその都度現金払いが多いのですが、月1回とかまとめて受け取る場合もあります。
 渡海船を始めたころは、荷物が小口で運賃も安く、乗客中心であったので忙しかったですが、それほど利益はなかったですよ。現在の方が荷物の種類や量も多くなったので、始めたころよりは利益があるのではなかろうかと思います。」

  ④ 他業種との競合について-フェリーと宅配便

 「渡海船の経営のうえで大きな影響を受けたのは、やはりフェリーです。かつては渡海船も鋼材や建築資材など大きい荷物を運んだけれど、現在はそのような大きい荷物はフェリーに積むので、そちらに取られてしまいました。だからリフトやクレーンが必要なほどの大きい荷物は現在積んでいません。フェリー就航以前は、例えば島で家を新築する場合、建築用資材を渡海船で運んだから、家の新築があると結構忙しかったですよ。
 次に受けた影響は宅配便です。現在伯方に入っている宅配便は、クロネコヤマトや福通、西濃など8社あり、直接トラックで乗り込んでくるので影響は大きいです。
 海上タクシーも伯方に4社ありますが、こちらは人の輸送が中心ですので、それほど影響はありません。海上タクシーのなかった以前は、急病人を今治へ運ぶため夜中に渡海船を出すことも多かったですが、今は海上タクシーが運んでくれますから。」

 エ 地元における付き合いについて

 「地元有津での付き合いについては、夫婦とも船に乗っていたので昼間の付き合いはできなかったけれど、夜などはできるだけ付き合いに参加しました。有津小学校のPTAの役員も10年ぐらいやりましたが、仕事の制約上、比較的やりやすい監査などをやりました。年1回のPTA総会のときには、乗船を人に代わってもらって出席しました。夜間の会合には努めて出席するように心がけました。
 今治の小型機帆船組合の役員もやらせてもらいました。県や海上保安庁、海運局等の会合にも出席し、協議内容などを組合員などに知らせるのが役目でした。」

 オ 渡海船の今後の課題

 「渡海船の今後の見通しは、なかなか難しいですが、やはり後継者の問題です。私の場合、後継者に恵まれましたが、後継者がいないと人を雇ってやらなければなりませんし、また、新たに資本をだして渡海船を開業する人もいないでしょうから、後継者がいなければ渡海船をやめざるを得ないでしょう。
 伯方には3隻の渡海船がおり、なんとかやって行けるのは、伯方にはかつて栄えた塩田をはじめ、その後盛んになった海運業と造船所というしっかりした地場産業があり、他地域からも従業員が来ておりますので、地域に購買力と消費力が相当あるからです。私たちがやって来られたのも、日本の経済が向上してくるにつれて発展してきた地元伯方町の活力のお陰です。従って、地元の良いお得意先の確保が大切です。何と言っても地元の人たちとの信頼関係なしに渡海船をやっていけませんから、信用が大切です。」
 以上、**さんのお話を伺って、渡海船は地域に根ざし、地域に生き、地域とともに一心同体で歩んできたことが、ひしひしと伝わってきた。ともすれば、渡海船が減少していく厳しい現状の中で、大三島大橋、伯方・大島大橋が架橋された現在でも、伯方町において上記のような形で、3隻もの渡海船が活躍しているのである。

写真3-4-11 有津港の渡海船専用桟橋

写真3-4-11 有津港の渡海船専用桟橋

平成3年10月撮影

写真3-4-12 正島丸より下船する乗客

写真3-4-12 正島丸より下船する乗客

平成4年1月撮影

写真3-4-13 積荷を下ろす

写真3-4-13 積荷を下ろす

平成4年1月撮影