データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)幕藩体制の確立と海上交通の発達-幕府公用船、参勤交代による瀬戸内海交通の発達-

 近世初期の瀬戸内海の海上交通は、まず、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、瀬戸内海に海駅を設け、大量の海上輸送を図ったことにより促進された。
 その後平和が訪れた瀬戸内海の海上ルートは、芸予諸島や忽那諸島などの島々を重要な中継地として発達した。
 瀬戸内海の航路は、古来の山陽道南岸に沿った「安芸地乗(あきじの)り」と四国北岸沿いの「伊予地乗り」が基本ルートであった。江戸時代になると幕府公用船、参勤交代船、商品輸送の諸廻船の発達によって、瀬戸内海の中央部の最短コースを航行する「沖乗り(おきのり)」(中乗り)コースが一般化した。
 松山藩では、沖乗りコースで航行する幕府公用船、参勤交代船のために忽那諸島の津和地島に松山藩の「御茶屋(おちゃや)」を設置し、幕府役人、外国使節、諸大名などの接待に当たらせ、通行上の便宜を図った(写真1-2-8参照)。津和地島は、周防国大島の加室(かむろ)から斎灘をへて安芸国大崎下島の御手洗に至る沖乗りコースの中間点に位置し、しかも津和地島には東南に向かって半月形に開いた海浜に港があり、「潮待ち」「風待ち」の海駅として天然の良港であった。元禄4年(1691年)、江戸幕府のオランダ使節に随行して津和地島に立ち寄った長崎オランダ商館付きの医師ケンプェルは、その時の様子を紀行文「江戸参府紀行」の中で次のように記している。
 「2月20日(旧暦正月23日)火曜日、朝早く風なく天気静かで、櫓をすすめて我等は欲するままの方向に船を進め得て、沖の家室(かむろ)に達す。およそ人家40。正午頃津和地に達す。島には一つの湾がありて東南に開け、岸は半月の如き丸みをなしたり。二百戸ばかりの人家あり。舟人のため安全なる港の用をなす。その後の山は階段状に山の頂まで一段一段の畠に耕したり。
 午後に至り軟風起こりければ、帆をあげて安芸国の海岸にある蒲刈(かまがり)村に至る。夜に入りて数里を経て有名な御手洗港に至り、ここにて多数の船の間に入りて暗夜に錨(いかり)を投ぜり。(⑮)」
 津和地の御茶屋は幕府の正式な接待所ではなかったが、幕府公用船・外国使節船・大名船が寄港した際の接待役は、津和地をはじめ忽那諸島の島民にとって物心両面にわたり大きな負担であった。特に各浦方の農民・漁民は水主(かこ)役(船上労務の人夫役)などに徴発され、1回の接待につき百数十人から二百人近い人々と荷物や水運搬のため20~30艘の船が動員された。当時の接待御用と島民の動員の様子は、津和地に常駐し接待管理に当たった松山藩士八原(やはら)家が代々にわたって記録した御用日記「八原家(やはらけ)御用日記(⑯)」に克明に残されている。同日記によって一例を挙げると、明和5年(1768年)8月、長崎奉行一行が通行した際に動員された船は、奉行分か15艘、随行の勘定役と普請(ふしん)役分が14艘の計29艘で、漕(こぎ)船(荷物運搬)・水船(水積み船)・水先案内船・番船などを10日間で準備した様子が記されている。
 芸予諸島の岩城島は、津和地島と同様に瀬戸内海の「沖乗り」航路の要港として栄えた。すなわち、岩城島は、備後国鞆浦から芸予諸島を経て斎灘に抜ける最短コースに位置し、しかも風待ち、潮待ち港として天然の良港であった。松山藩は藩領の岩城島に参勤交代の中継的な海駅として島本陣(ほんじん)(大名宿泊所)を設け、島内の富豪三浦家(同家は新田畑の開発、塩田経営、廻船業、木綿取引等の多角経営で繁栄)を本陣島代官に任じ、管理に当たらせた。先述のケンプェル「江戸参府紀行」は、津和地島に続いて岩城島の村の様子と神社(亀山八幡神社と推定される)のことを記している。
 なお、後世、三浦家18代の当主三浦牧夫は歌人若山牧水の門人であった関係から、大正12年(1923年)に牧水が同家に滞留して、短歌を残しており、さらに昭和11年には吉井勇も立ち寄り往時をしのんでいる。今日、本陣三浦家の跡には、若山牧水や吉井勇の歌碑が立てられ、建物の一部は岩城村の郷土資料を展示した岩城郷土館として活用されている(写真1-2-9参照)。


写真1-2-8 津和地島お茶屋跡

写真1-2-8 津和地島お茶屋跡

温泉郡中島町津和地。平成3年11月撮影

写真1-2-9 岩城郷土館(本陣三浦家跡)の歌碑

写真1-2-9 岩城郷土館(本陣三浦家跡)の歌碑

越智郡岩城村。平成3年12月撮影