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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)近世経済の発展と廻船活動の展開

 ア 廻船活動

 江戸時代の商品経済流通は、巨大な消費都市の江戸、「天下の台所」と呼ばれた大商業都市の大阪を二大中核地として発展した。幕府天領からの年貢米(御城米(ごじょうまい))の江戸廻送、諸藩の年貢米(蔵米(くらまい))の大阪・江戸廻送、各城下町の消費物資、各地の諸産物品等の大量輸送は、全国的に廻船による海運活動と海上交通を発展させた。
 従って、近世の海運活動と海上交通は、米の輸送に始まり、幕藩体制の整備と近世経済の発展に連れて、全国を網の目のように結んで発展してきた。特に、西日本の諸藩にとっては、大阪の蔵屋敷に年貢米を輸送する「大阪廻米」が重要であったから、瀬戸内海航路の役割が一層重視され、大阪が近世海運の一大中心地となった。
 近世に海運活動と海上交通を発展させた要因としては、造船技術(船大工技術)の進歩が大きい。中世の船は、順風時には「ごさ帆」「むしろ帆」で帆走したが、それ以外は水主による櫓櫂(ろかい)によって航行したので、多数の水主を必要とした。
 近世に入って物資の大量輸送の必要から、櫓中心の船から木綿帆を中心とした帆走専門の船へ発展してきた。近世前期の船型は、羽賀瀬船(はがせぶね)、北国船と呼ばれた廻船が日本海海運の主力をなし、千石積から千五百石積に及ぶ大船も建造されたが、これらの船も帆走性が悪く、櫓による航行を主としたため、やはり多数の水主を必要とした。
 近世中期以降、全国的に廻船の主力となって活躍したのは、弁才船(べざいせん)とよばれた船型であり、その特色は帆走専門の船で水主など漕ぎ手を少なくした省力型であった。はじめのころは、二百石積から五百石積級の小廻船として瀬戸内海中心に発達し、やがて造船技術上の木割技術の進歩によって、千石積、二千石積以上の大型船となった。
 この船型は俗に千石船といわれ、大量輸送の経済性や帆走能力が優れていたので、従来の中世的な羽賀瀬船、北国船などの大型船を駆逐して、近世海運の主力になった。
 寛文11年(1671年)河村瑞軒(かわむらずいけん)によって東廻り航路、翌1672年には西廻り航路が開発され、全国海運の画期的な発展を促進させた。一方、大阪・江戸間の南海路には大型弁才船による菱垣廻船(ひがきかいせん)や、享保15年(1730年)菱垣廻船から独立した樽廻船(たるかいせん)によって大量の消費物資が江戸に回送された。
 中でも西廻り航路の開発は、御城米輸送とともに、商品作物の進展による地方物産の全国的流通を促進させた。その代表が北前(きたまえ)船とよばれた廻船で、北海道から日本海の沿岸、更に瀬戸内海を経て大阪と結ぶ往復ルートに乗って活躍した。北前船の輸送品は、北海道からニシン粕・昆布・サケなどの海産物、大阪からは木綿・塩・砂糖・酒など多品目にわたった。北前船の船頭は、商品輸送のみならず自分で積荷の販売も行う買積船(かいつみせん)として莫大な利益をあげ、次の代には船主に成長する船頭も少なくないほどの繁栄ぶりであった。
  
 イ 島々の港湾の発達

 幕府公用船・外国使節船・大名船や城米船・蔵米船・北前船などの諸廻船が風待ち、潮待ちのため寄港する島々では、港湾施設の整備が進められた。松山藩の島本陣が置かれた岩城島では、18世紀中期ころ数回にわたり波止(防波堤)の築造や港の浚渫(しゅんせつ)を計画し、造船所も設置した。また、沖乗りコースの安芸国大崎下島の要港御手洗の対岸に位置している岡村の白潟(しらかた)港は、松山藩の保護によって発展した新興の港町であり、18世紀前半ころ波止、護岸工事が計画され、造船所も設置して多くの船大工が従事した。
 忽那諸島の津和地島では、江戸時代初期(17世紀前半)から港の東端に常夜燈が設置され、要路にあたる津和地瀬戸の航行安全を図った。津和地島では常夜燈の置かれた出崎を「燈篭(とうろう)が鼻(ばな)」「常燈鼻」とよんでいる。
 瀬戸内海の廻船業活動が発展するにともない商業町として繁栄した島々の港町は客寄せのため芝居興業、富くじ興業が行われ、茶屋、遊女屋などの遊興施設が設置された。島々の宝くじ興業は、18世紀半ばから「干鰯頼母子(ほしかたのもし)」の名前で津和地島において行われ、岩城村、岡村(白潟)、伯方島(伊方)などで開かれた。また遊女屋は津和地島・安居(あい)島・弓削島等に置かれたが、斎灘における風待ち港として栄えた安居島では古老の話によれば昭和初期まで存続していたといわれる。
 なお、岩城島の海駅としての繁栄ぶりは、岩城八幡神社の玉垣に刻まれた寄進者の中に岩城近辺のみならず、兵庫・大阪・江戸日本橋に及ぶ問屋商人が名を連ねていることからもうかがえよう。
  
 ウ 島々の海運活動

 以上見てきたように、島々は瀬戸内海の海上交通の大動脈に位置していたため、廻船活動をはじめとして海港活動、商業活動の要地となり、瀬戸内海はもとより全国各地との交流を拡大した。
 忽那諸島の廻船活動は、中島町誌によれば「1反の畑では食えぬが、1反帆の船なら食える。」ということわざがあるほど、粟井村をはじめ大浦、畑里、熊田、二神、元怒和などの各村において発達した。島々の廻船は、イサバ、チョキなどとよばれた数十石積から百石積程度の中・小型廻船が主であり、瀬戸内海一円から土佐・紀州・九州方面にかけて割木・松葉束・木炭・酒・活魚等多様な商品輸送と取引を展開した。18世紀末期から19世紀初頭における中島地方各村の中・小廻船を主体とした海運活動の実態をみれば、このような小廻船は、千石船のような大型船よりも運航面で小回りがきき、船の接岸や建造も容易なため、島々の海運活動に適していたといえよう。
 今日、中島町粟井にある桑名神社の絵馬堂には海上安全祈願のため、廻船業者が奉納した約40枚の船の絵馬が掲げられて、貴重な海事資料となっている。その中には江戸時代に日向(宮崎県)・大阪を往来して大きな利益を上げたバイ船(買積み船)や大正時代の西洋型帆船などが生き生きと描かれ、粟井村の良港を中心として積極的に展開された海運活動を物語っている。
 江戸中期から後期にかけて瀬戸内海の島々や沿岸地方では、人口の増加が多く見られ、特に、島々の増加が著しかった。このような人口の増加を支えた島々の経済的・社会的要因は、綿作などの商業的農業、手工業(木綿加工業)、塩田経営業、海運業、漁業など瀬戸内海の生産経済と商業流通の発展に伴う労働力の需要にあった。江戸末期の島々における出稼ぎ労働の実態をみれば、特に岩城村では他国に出稼ぎに行っている者270人中、226人が船稼ぎ(海運関係)に従い、操船技術も高く信用された。生名村も他国出稼ぎ者56名が全員船稼ぎであり、島々の生活が海運活動と密接に関連し、積極的に海に進出した人々の姿がうかがえる。また、大三島、岡村島、大島、弓削島などの芸予諸島や忽那諸島においても船稼ぎ、大工稼ぎ、桶師(おけし)稼ぎ、日雇い稼ぎなどの他領稼ぎ、領内稼ぎに多くの貧農や2、3男層が従事し、増大する島の人々の生活を支えた(⑰)。
  
 エ 島々の地場産業の発展と海運活動

 瀬戸内海の沿岸や島々における地場産業(地方物産)の発展にともなって、地域の生産経済・商業流通と直結した小型廻船や作業船が発達した。
 古くは芸予諸島中心の塩を運んだ塩船に始まり、江戸末期から昭和にかけて越智郡桜井と並び称された大島椋名(むくな)の椀船(わんぶね)(漆器行商)、睦月島と野忽那の縞売船(しまうりぶね)(反物・雑貨行商)、中島の牛船などが有名であった。また、地域によって船の名称や取り扱い物資・品目に相違があるが、土木建設用の石船・上船・泥船・砂船(塩田用の入り替え船)・五平太(ごへいだ)船(石炭船)・石灰船・農業用の肥(こ)え船・藻(も)船(肥料用の海藻)・農船・炭船(木炭船)・芋(いも)船(さつまいも船)・薪(まき)船・水(みず)船(飲料水運搬)・酒船・活船(なません)(活魚運搬)など多種多様な船が瀬戸内海から全国各地にわたって活躍し、それぞれの地域経済を支えた。
 特に、石船とよばれた石材運搬船(主に50石積み~100石積み程度の船)は、瀬戸内海の島々で多量に採掘された花崗岩などの石材を各地に運送した。古くは慶長7年(1602年)、藤堂高虎による今治築城工事をはじめとして、瀬戸内海沿岸や島々各地の新田の干拓、塩田の築造、港湾築造、道路・水路・池堤工事など土木開発に活躍した。
 また、五平太船とよばれた石炭運搬船は、江戸時代後半(文化・文政期以降)から瀬戸内海各地の塩田における製塩用燃料として利用されるようになった石炭を北九州の若松港や山口県の宇部方面から運んだ。このようにローカル色豊かな呼称と機能をもった船が島々を中心に活躍し、更に、明治時代に入ると近代産業の進展とともに、ますます活動の幅を広げ、多様な海運活動を展開する基盤となった。