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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)海中タンク・横穴水平ボーリングの魚島

 魚島村は燧灘の中央部に位置する内海の孤島である。人が住んでいるのは魚島と高井神島であるが、どちらも山が高く面積が小さい上に、お碗(わん)を伏せたような島であるから、雨が降ってもそのまま海に流れこむため、島に水を貯える力が小さい。表土で覆われているのは50cmくらいの厚さで、その下層は岩盤かそれに近い層になっているので、なおさら土中に水を貯えておくことが難しい。

 ア 井戸掘りの昭和史

 太平洋戦争が終結した昭和20年ごろの魚島には、村有井戸11基、個人井戸20基、表流水を貯めて使用していた所が2か所、水源と名のつくものは計33か所もあった。
 しかし、1か所の井戸で湧出する量は0.5t程度で、その上塩分が濃い井戸も多いため、水量とともに水質の面でも困っていた。
 昭和27年に簡易水道ができたが、島が小さいため、貯水用のダムも800tくらいの小さいもので、1週間に1回か2回の給水、それも2時間程度の時間給水しかできなかった。
 昭和42年より45年まで、住民の強い要望によって毎年井戸が掘られ、その数は23基に及んでいる。個人が生活用水、ノリ加工用水のために掘った34基を合わせると実に57基になる。既設の井戸と合計すると90基の井戸が魚島にできたことになる。
 個人井戸は動力ポンプによる揚水を認めているが、村有井戸には動力ポンプの設置が禁じられている。水枯れを起こすからである。それでも、ツルベから手押しポンプには変わった時代といえる。井戸を備えている家庭も、動力ポンプで水道と同じように水は出せても、塩分のあるところが多いので、依然として飲料水には困っていた。

 イ 米のように美味しい水を

 「昔は米の御飯をいただくことは年に数回しかなかった。それ以外の日は麦飯です。米の御飯であればそれだけで美味しかった。魚島村にも、米のように美味しい水が出るようにして下さい。」と当時の婦人会長さんが「お茶の間懇談会」で陳情している(「島に生きる(⑩)」より)。
 昭和48年、政争の地魚島村ではじめて無投票当選を果たした村長さんの水対策は、まとめて次のようになる。

 ① 貯水施設の建設
 海岸に近い配水池2か所(50tと30t)へ径75mmの配管を引く。延長296mの配管工事が昭和50年3月に完了。

 ② 給水船の入港
 昭和50年4月18日、三原市より初の給水船が入港。貯水タンク及び村有井戸へ配水。

 ③ 海中タンクの建設
 漁港の修築事業の一つ埋立用地と貯水タンクを抱き合わせ、前例のない海中タンクを建設。昭和50年5月、港内に260tの貯水施設ができる。これによって、1週間に2日は確実に給水できるようになる。
 さらに、昭和51年3月には、鉄筋コンクリート3階建ての集会所が埋立て地に完成した。勿論その1階は海中タンクで、400tの貯水が可能となり、合わせて660tの海中タンクは、住民一人当たり1.5tの水を確保でき、週4日の給水ができるまでになったのである。

 ④ ジャンボ井戸
 給水施設は660tまで可能になったが、1t当たり400円の水は決して安くない。取水設備の整備が急がれ、島内に20本のジャンボ井戸を掘る。井戸を掘り、その底からさらに横穴を掘って取水範囲を広くする。縦穴と横穴のボーリングという魚島で初めての井戸であり、直径が4mほどもある。同時に井戸5基の工事も行って、日産40tの貴重な水を、どんな渇水期にも得られるようになった。昭和53年4月からは、水をほとんど購入しなくても完全給水ができるようになったのである。
 「私が昭和49年から水を確保するために投資した金額は1億2千万円ですが、小さい島で水に不自由させないためには、少なくとも1戸平均百万円の施設をしなければならないと思っています。魚島村の世帯数は約200戸ですから、最低2億円の設備投資が必要で、これからも水の確保のため約1億円の取水工事を、何らかの形でしなければと覚悟をきめております。」と村長さんは語っている。