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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)牧畜の島からの移り変わり(忽那諸島)

 忽那諸島の農業にもいくつかの変遷がある。
 『愛媛県史・地誌Ⅱ(②)』および『中島町誌(①)』によれば、中島における農業の歴史には古くからの史実があり、骨奈島(現忽那島)に法隆寺の荘園が置かれていた天平19年(747年)や貞観18年(876年)の『三代実録』には、馬・牛の飼育に当たる官牧の島と記されている。当時の馬・牛の飼育頭数は、忽那島ではそれぞれ300頭前後で、毎年貢馬4頭、貢牛2頭を納めていたとあり、『廷喜式』(927年)にも、野忽那から馬6頭、牛2頭を毎年納めていた記録が残っている。
 また、中島町粟井の桑名神社(写真3-1-2)には馬頭大明神を、神浦の滝神社には牛頭大明神を、それぞれ祭っているが、『忽那島開発記』によると、それは1,100~1,180年前から祭神が始まったと記され、忽那島が古くから牧畜の島であることを物語っている。
 その後、藩政時代に入ってからも牧畜の飼育は継続した。そして、明和年間(1764~1771年)に、小浜村(現中島町小浜集落)の家畜商弥右ェ門が、和牛の仔出し飼育を奨め、それがきっかけで次第に和牛の生産が盛んとなった。山口県の大島や和歌山県の岩佐地方に中島牛の移出販売ルートが開かれたのも、このころである。
 明治の中期になると、この和牛飼育は乳牛飼育に置き替えられている。これは、中島での乳牛飼育が生乳や乳製品を売る酪農ではなく、伝統の和牛の仔出しを応用したもので、早く乳離れをさせた雌の仔牛を売るとともに、乳の出ている母牛を売るので利益の多かったことによる。
 大正の初めに、民間資本による「天神ミルク」会社が設立された。次いで大正11年(1922年)には、乳牛生産者400人の構成で「中島牛乳販売購買利用組合」を設立し、乳製品の生産を始めたものの、採算の問題や大資本との競争もあって成功しなかった。
 最盛期の牛の頭数は、明治11年(1878年)には和牛約1,183頭におよび、大正10年(1921年)には乳牛609頭で、温泉郡の83%を占めていたとのことである。この畜産飼育はほとんど一頭飼いのところが多く、大浜や小浜の農家では第一の副業といわれ昭和30年代まで続いたが、みかん景気の到来と共にほとんど姿を消した。
 一方、農作物は、コメ・ムギ・サツマイモ・マメ類など、島しょ部特有の自給色の濃い作物が中心で、畑作依存度の高い経営である。
 この中島農業に、銭の取れる新作物として「ショウガ」が導入されたのは、文政年間(1818~1829年)のことである。そのころ、陸地部の諸藩ではすでに、コウゾ・ハゼ・クワなどの換金作物を開墾地に植え付けて、収入の道を開くなど、中島農業を一歩リードしていた。このことは、当時の大浦や小浜地区が大洲藩に所属し、領主支配の下での養畜奨励は採草地を固定化していて、開墾などによる新規作物栽培への道が閉ざされがちであったことにも原因がある。
 とはいえ、ショウガ栽培と養畜との間には極めて密接な関係がある。つまり、ショウガ栽培は土作りが基本となるので、土がよく肥えていることが大切であり、他の作物よりも多くの堆きゅう肥(稲わらや家畜の敷わらなどの積み肥)を必要とする。この点、和牛の飼育はショウガ栽培にとって絶好の堆きゅう肥供給源であり、かつて全国的に名を知られた「中島ショウガ」の名声は、一方の中島農業を支えていた和牛飼育を土台に成立し発展したものと言える。
 中島のショウガはとくに品質が良いので、「種子用」としての需要が多い。明治に入ってからも年々増え続け、明治12年(1879年)には、当時の大浦村(現大浦集落)ではすべての農家でショウガを作り、その面積は17町歩(ha)に及んだ。
 中島町に一時代を築いたショウガ栽培も、大正8年(1919年)に土壌伝染性の腐敗病が発生して一円に広がり、連作のできない宿命から、その生産は次第に減少の傾向をみせたのである。それでも、江戸時代の末期から昭和30年代のミカンブームに至るまでの長い期間、中島農業を支えた商品作物として生き続けたことは、その適地性に加えて、農家個々の努力を見逃すことができない。
 タマネギもまた、中島農業の特産物である。「根の食べられるネブカ」として明治39年(1906年)から始まったタマネギ作りは、栽培の容易さもあって大正期に入ってから飛躍的に面積が増加し、中島町における大正11~15年(1922~26年)の5か年間の平均収量は70万貫(2,625t)にも達した。それまでの商品作物の柱であったショウガ作りが、腐敗病の関係から衰えを見せ始めていただけに、その収入減を補う期待の作物として栽培が定着したものである。
 除虫菊や葉タバコの栽培も、農業収入の増加を図る新作物として導入が試みられた。このうち除虫菊は、大正6年ころから昭和12~13年にかけて中島町へ入ったが、ちょうど柑橘栽培の第一次展開期と同時期であった。当時の柑橘栽培は、苗木の植え付けから収穫に入るまで6~7年もかかり、この間は労力や肥料農薬など資本投下するだけになる。また、ある意味では土地を休閑させることにもなる。これは耕作面積の少ない普通の農家にとっては大きな負担となるので、その軽減を図るために苗木と苗木の間に除虫菊を作り、収入減を補った。つまり、除虫菊はショウガ・タマネギに比べるとその収益には大きな開きがあったものの、ミカン類の間作として捨てがたい役割を果たしたのである。
 サツマイモも古くから作られているが、そのほとんどは常食としての自家用であった。販売を目的とした生産が行われるようになったのは明治に入ってからで、主に広島や阪神方面に出荷されていた。この販売方法は、ショウガを先例とした中島独特の「問屋制度」であり、この問屋を軸に農産物の集荷販売が行われてきた。その担当者はいわゆる商人ではなく、生産者の中から選ばれた地域の世話役が当たり、すべての交渉をつかさどった。
 問屋は、農産物販売代金の5%を手数料として徴収し、これを集落の収入に充てていたので、この財源が集落内の公共活動に大きく役立っていた。言ってみれば、この問屋制度は形を変えた共同販売組織であり、さらに後年の産業組合や農業協同組合の共同販売へと発展していったのである。
 小浜集落で任意組合員約100名による「小浜澱粉組合」が設立されたのは、昭和12年(1937年)である。さらに昭和16年(1941年)には、この澱粉組合が小浜集落へ経営移管された。また隣の大浦でも、昭和21年(1946年)にサツマイモ生産者を組合員とする澱粉工場が設立され、さらに上怒和、津和地、二神、宇和間にも次々と工場ができあがった。民間工場を含めて、まさに「澱粉産業」花形の時代を迎えていたのである(①)。
 このことは、終戦前後の農業が食糧難対策としてサツマイモの栽培を奨励し、その余韻がしばらく続いたことに原因がある。やがて、自由経済の復興や食生活の変化によって農産物の生産にも転機が訪れ、澱粉原料のサツマイモの確保も難しくなってきた昭和30年代後半ころからは、ほとんどの澱粉工場が戸を閉めることになった(図3-1-2参照)。

写真3-1-2 馬頭大明神を祭る桑名神社

写真3-1-2 馬頭大明神を祭る桑名神社

平成3年11月撮影

図3-1-2 愛媛県の甘藷作付面積の推移

図3-1-2 愛媛県の甘藷作付面積の推移

「農業の動向に関する基礎統計(愛媛県農政課)」および「農林水産省農林統計表」より作成。