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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)島々がたどった柑橘栽培への道

 瀬戸内の島々における、ミカン栽培の歴史は古い。
 大三島の大山祇神社に伝わる古文書『三島文書』によると、すでに450年前の室町時代には、この地方でミカン作りを行っていた記録があり、同じ島内の上浦町井口の菅氏宅の庭先にある小ミカンや、隣の島の吉海町名駒の小ミカン園は、樹齢500年から300年と伝えられ、県の天然記念物に指定されている(写真3-1-4参照)(②④)。
 商品作物としての温州ミカンが導入されたのは、中島町では明治5年(1872年)大浦の篤農家森六太郎によると言われている(明治20年という説もある)。彼は木綿縞の行商にも携わっていたので、各地の状況に明るく、ミカンの有利性を見込んで、和歌山県から苗木を取り寄せ、傾斜の緩やかな水はけの良い畑を選んで植え付けたのである。
 越智郡の島々では、関前岡村島(関前村)の桧垣信庸が明治4年(1871年)に、盛口村(上浦町)の松岡梅吉は明治17年(1884年)にそれぞれ苗木を取り寄せ、ミカン作りを始めている。とくに越智郡の島々では、同じ芸予諸島に属し、早くからミカンの島として知られていた広島県豊田郡大長村(現豊町)に影響を受けることが少なくない。大長のミカン農家は、明治の初めころから「渡り作」と呼ばれる方式で、近くの島々の土地を買い取り、ミカン畑を開いて、今でいう通勤農業を行ってきた経緯があり、大長に近い関前村のミカンの4分の1は、こうした人たちの入作経営によって栽培されている(②)。本県側の農家も、同じ芸予諸島の近隣関係や婚姻の影響もあって、県境をまたいで島々との交流も多く、先進事例の習得や情報交換には事欠かなかった。このように瀬戸内海の島々は、明治、大正、昭和にかけて除虫菊、葉タバコ、ショウガなど、島に根づいた商品作物との栽培調整をくり返しながら、徐々に畑作中心の経営から柑橘産地としての実力を蓄えていった。そして戦中、戦後の食糧難時代を別格とし、ミカン栽培に本腰が入ってきたのは昭和25年(1950年)ころからであり、昭和30年代の発展期を迎えてさらにピッチが上がった(表3-1-9参照)。
 忽那諸島の中島町は、温州ミカンを中心に面積が拡大され、図3-1-3のとおり昭和25年(1950年)の367haに比べると、昭和35年(1950年)には636haに、さらに昭和45年(1970年)には1,280haに増加するなど、10年を単位にほぼ倍増、倍増の比率で伸びてきて、とくに阪神市場をメインとした出荷体制でミカン王国を築いた(①)。
 越智郡の島々での本格的なミカン作りが、中島農業に一歩先を譲っていたのは、それなりの理由がある。すなわち宮窪町や吉海町は、一般にもよく知られた「宮窪杜氏」の出身地で、県内外への出稼ぎに出る人が多い。また地元には、大島石の切り出し作業や、昭和34年(1959年)まで続いた津倉塩田の浜子、上浦町では盛口の船員従事など、常に身近に現金収入の道が開けていたことなどがあげられる。また大正期から作られていた除虫菊や葉タバコなど換金作物の栽培が継続中であり、果樹への転換を遅らせていたことも考えられる。従って、ミカン栽培に本当の力が入ってきたのは、昭和35年(1960年)ころからであり、初めは、温州みかんが中心であった。
 昭和30年代における「ミカン、ミカン」の全国的な大合唱は、年を追って生産量が増え続け、昭和43年(1968年)には、全国の温州ミカン生産量は235万tと200万tの大台を越した。また、本県の生産量も38万tに達し、この年初めて静岡県を抜いて全国のトップ産地に躍り出たのである(図3-1-4参照)。

写真3-1-4 愛媛県指定天然記念物(上浦町の小ミカン)

写真3-1-4 愛媛県指定天然記念物(上浦町の小ミカン)

平成3年10月撮影

表3-1-9 越智郡島嶼部果樹面積の推移

表3-1-9 越智郡島嶼部果樹面積の推移

「愛媛県市町村別統計要覧(⑪)」より作成。

図3-1-3 中島町の果樹栽培の推移

図3-1-3 中島町の果樹栽培の推移

「愛媛農林水産 統計年報(⑩)」および「愛媛県市町村別統計要覧(⑪)」より作成。

図3-1-4 全国ミカン生産量の推移

図3-1-4 全国ミカン生産量の推移

「愛媛農林水産 統計年報(⑩)」および「愛媛県青果連30年の歩み(⑫)」より作成。