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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)弘法大師信仰と入定信仰

 ア 弘法大師空海とその足跡

 四国遍路のおこりを考える場合、四国遍路が今日でも弘法大師が開創したという縁起によって成り立ち、多くの巡礼者が弘法大師を慕って四国の地を巡り、弘法大師をめぐる伝承が四国遍路の随所に満ちあふれている以上、弘法大師空海とその足跡を探ることは重要である。
 しかし、今日、弘法大師空海の正確な足跡を探ることは、宮田登氏が、「弘法大師の実伝記はほとんど正確さを期し難い。それは、生前の壮大な密教思想の体系を樹立した哲学者としての空海と、死後さまざまに語られた弘法大師伝の記録があまりにも懸け離れた内容を示すからである(①)。」と指摘しているように容易なことではない。
 空海の伝記について、五来重氏は、「弘法大師空海の伝記は、古来六百五十種といわれるほど多いが、そのほとんどが超人間的大師観に貫かれた、奇蹟に満ちた空海伝で、その真実を伝えるものは極めて少ない。これは真言宗教団ができたために、空海を偶像とする架空の伝記が多数できたからである。そしてその架空の伝記が、後世『御遺告(ごゆいごう)』と称して、空海直筆または弟子たちへ直授の遺言とされたため、空海伝は歴史性を失って伝説化した(②)。」、「空海伝の信ずべきものは、『続日本後紀』(承和2年3月21日条)の『空海卒伝』、俗にいう『大僧都空海伝』と、空海の青年時代の自叙伝『三教指帰』、および空海の詩文集『性霊集(しようりようしゆう)』のほかはない(③)。」と述べている。
 このように空海の伝記を正確に伝えることは難しいが、以下、和歌森太郎編著『弘法大師空海 密教と日本人』(雄渾社)、日本思想体系5『空海』(岩波書店)、瓜生中著『仏教入門』(創元社)などを参考に、その足跡を整理しておきたい。
 空海は宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡の地、現在の香川県善通寺市に生まれた(写真1-1-8)。幼名を真魚(まお)と称した。父は地方官吏であったと言われる佐伯直田公、母は阿刀(あと)氏であった。
 彼は少年にして学を志し、当代一流の儒学者であったといわれる母方の叔父阿刀大足(おおたり)について、論語、孝経、史伝の類を学ぶとともに、文章にも励んだという。
 その後天賦の才能を発揮しはじめた彼は、延暦7年(788年)、15歳(数え年、以下同じ)にして山城長岡京に遊学、18歳の時に大学に入った。学科は明経道で、大学博士の岡田牛養(うしかい)に春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)(中国の十三経の一つ『春秋』の注釈書)を学んだ。ところで、空海が大学に学んでいたころ、彼は僧某について虚空蔵求聞持法を学ぶことになった。彼は「大聖の証言を信じて」一心に修行に励んだという。そして修行を進めるうちに「谷はこだまし、明星があらわれる」などの様々な超自然的な現象があらわれた。そのため空海の「大聖」への信頼はいやがうえにも高まっていったという。以降、彼は修験道の仲間(優婆塞となって)に入って一層修行に打ち込み、やがて大学を退学してしまった。この若き空海の思想変遷は、24歳の時に著した『三教指帰』に克明に記されているが、この中で空海は、儒教・道教・仏教の三教の優劣を論じて、仏教が最もすぐれている教えであると主張している。
 こうして僧として生きる道を選んだ空海は、『三教指帰』を著してから7年後の延暦23年(804年)、31歳の時に唐に渡る。この間の7年間の彼の消息は謎に包まれているが、おそらく山岳修行を行いながら仏教の教理を修得していたものと思われる。そしてその間に密教の根本経典である『大日経』に出会ってこれを学び、一説には彼が人唐を志した真意は、『大日経』を学ぶためであったとも言われている。
 入唐した空海は、多くの人に出会い、さまざまな学問に触れた。特に中国の密教伝法第七祖、真言五祖の一人とされる青龍寺の僧恵果(けいか)との出会いは運命的な出会いであった。
 恵果は、玄宗皇帝(685年~762年)以来、三代の皇帝を帰依させた不空三蔵(705年~774年)の後継者であり、密教の正統を受け継ぐ高僧であった。空海に会った恵果は、彼の才能を見抜き、密教の秘法をことごとく伝えたという。
 そして、恵果から胎蔵界、金剛界の両部の灌頂(かんじょう)を受け、宗教伝法の第八祖となった空海は、在唐2年、密教の経典・法具・曼陀羅(まんだら)などの膨大な資料を持って帰国し、ただちに招来品のリストである『御請来目録』を朝廷に提出した。
 しかし、帰国後の彼は4年ほどの間、筑紫の地にとどまらなければならなかった。それは彼が留学僧としての所定の滞在期間を大幅に短縮して帰ってしまったからだといわれている。また、空海の入京を阻んだものには、大同2年(807年)の冬に起こった伊予親王の変も関係していたという説もあるが、いずれにしても彼は、大同4年7月まで京洛の地を踏んだ形跡はない。
 しかし、嵯峨天皇(786年~842年)の即位をみるに及んで、空海に京都人住の官符が発せられた。それは鎮護国家仏教に密教的要素を取り入れることは当時の時代の要請になっており、そのために空海は不可欠の存在だったからであると言われている。
 入京後の空海は、嵯峨天皇に重用され、会得した密教の知識を存分に発揮して仏教界に新風を吹き込んだ。そして鎮護国家の祈禱(きとう)などを行って名声を高め、高雄山寺を根本道場として活躍した。さらに弘仁7年(816年)には朝廷から高野山を賜り、弘仁10年にこの地を根本道場に定め、弘仁14年には東寺も賜り、高野山と東寺(教王護国寺)を真言密教の二大拠点として密教的鎮護国家仏教の実現へと努力していった。
 またその間、空海は、弘仁12年から讃岐国の満濃池の築造にかかわるなど農業施設の充実にも意を用い、朝廷の催す祈雨(きう)の祈禱なども行って名声を高めていった。また天長5年(828年)には、綜芸種智院を建立して文学や芸術を広く学ばせ、日本文化の向上にも大きな功績を残した。
 こうして数々の業績を残した空海は、承和2年(835年)3月21日、63歳で高野山で入寂(にゅうじゃく)した。

 イ 弘法大師入定信仰の形成

 弘法大師空海とその足跡を概観してきたが、歴史上の空海をいくら精密に掘り下げてみても、それだけでは全智全能の神のごとき救済者としての空海像は出てこない。
 五来重氏が、「弘法大師の偉大さは学問や博識や能筆にあるのではなく、庶民信仰の価値を認めたことである(④)。」と指摘しているように、弘法大師空海の偉大さは、日本における真言密教の開祖であり、庶民信仰の価値を認めた点にあり、庶民を引きつけてやまない信仰性にあったのではないかと考えられる。言葉を換えると、庶民は傑出した天才空海を信仰しているのではない。厄を除き、病を治し、幸を与えるという宗教的な要求を弘法大師空海に求め、その役割を空海に担わせているのではあるまいか。
 このことについて五来重氏は、「各宗の祖師とみなされる人はみな偉大である。しかしそれは人間としての偉大さなのであって、人間以上ではない。弘法大師以外の祖師は讃仰されるけれども信仰はされない。いっぽう、弘法大師空海は、人間以上の神性と霊性をもつものとして信仰されている。そこに両者の大きな違いがある。(⑤)」と指摘し、「弘法大師信仰は空海のあとから付加されたものといわざるをえないのであるが、それは空海の青年時代のひたむきな辺路修行や山岳修行などの宗教体験ゆえに、彼は他の宗派の祖師たちとちがった神性が付与されて、全智全能遍在、永遠不滅の信仰的弘法大師になった(⑥)。」と述べている。
 要するに、こうした弘法大師空海の偉大さをもたらす根源は、彼の豊かな宗教体験ゆえに後世付与されたとされる神性と霊性にあり、そのことはやがてその証(あかし)として、人定によって永遠に生きているという人定信仰を産みだし、庶民が信仰してやまない永遠不滅の弘法大師像を形成していったということである。
 弘法大師空海に対する信仰について白井優子氏は、「この信仰は、古代から現代に及ぶ、また、広域に普及した、多様な伝説を擁した信仰である。弘法大師は、真言密教の日本における宗祖であり、日本仏教史における代表的僧の一人である。この弘法大師に対する信仰は、仏教信仰に限らず、民間の様々な信仰と混合して、民衆の生活に浸透していった。中世以降は特に、生身を紀伊国高野山に蔵する人定大師として、その霊験を全国に及ぼしていった。(⑦)」と述べている。
 そして真野俊和氏は、「四国霊場が都周辺の、貴族を含めた一般民衆の間に知られるようになるためには、宮田登氏が述べたように『12世紀末から15世紀に高野山に比重を占めた弥勒下生信仰、そこから派生した大師の人定、復活信仰(⑧)』という思想史的流れが息づいていることを忘れてはならならない。(⑨)」と述べ、弥勒下生信仰とそこから派生した弘法大師入定信仰が四国遍路の成立に大きな影響を与えていることを指摘している。
 今日でも高野山では、奥の院の大師御廟への生身供(しょうじんぐ)(写真1-1-9)が行われており、多くの信者は、「ありがたや高野(たかの)の山の岩陰に大師はいまだ在(おわ)しまする」と弘法大師人定信仰を信じて、高野山に集まってくる。そして高野山では、弘法大師は、信仰する者の願いに応じてどこでも訪れるので、その御衣の裾(すそ)は1年で破れるといって、「お衣替」が毎年正御影供(みえいく)に行われている(⑩)。
 四国遍路において、「同行(どうぎょう)二人」と称して旅する人々は、お大師さんと一緒に巡礼していることを念頭に今日も旅を続けているのである。そしてどこかでお大師さんに出会って、己の肉体的あるいは精神的苦しみからの解放を乞い願っている。こうした巡礼を続ける遍路びとの信仰的よりどころは、まさにこの人定信仰に基づく弘法大師信仰に起因していると言っても過言ではないと思う。
 こうした面から、四国遍路の成立を考える時、この弘法大師人定信仰を解明することは極めて重要な意味合いを持っていると思うのである。
 以下、弘法大師人定信仰とその形成について整理を試みたい。
 まず、人定信仰とはいかなる信仰かということであるが、『日本宗教事典』によると、「入定」とは禅定(ぜんじょう)を修めることであり、すなわち宗教的な瞑想をすることであるが、いつしか永遠の悟りの境地に入り不死の生命を続ける意味に転化されたとある(⑪)。
 空海の人定について宮田登氏は、「弘法大師の入定が歴史的事実であることは、現段階では厳密には証明されていない。入定は、大師の歿後57年後に成立したといわれる『御遺告』の記事によっている。この『御遺告』自体の文献史料としての真偽が問題とされるが、ここではあくまで伝承的世界での信仰的事実として把握するので、成立の絶体年代については問題外となる。(⑫)」と指摘している。
 五来重氏は、人定について次のように述べている。

   空海の死は、『続日本後記』の承和2年(835年) 3月21日の条に記されたように、大僧都伝灯(でんとう)大法師位空
  海、紀伊の国の禅居に終る。(中略)嵯呼(ああ)哀しい哉。禅関僻在(ぜんかいへきざい)して凶問晩(おそ)く伝ふ。使者奔
  (はし)り赴きて荼毘(だび)を相助くること能はず。(中略)自ら終焉(しゅうえん)の志有り。紀伊国金剛峯寺に隠居す。
  化し去るの時、年六十三。とあって、終焉であり化去であり、荼毘に付されたと伝えられた。この勅弔書には東寺の学
  侶・弟子が関与していたであろうから、僧の死は当然火葬荼毘と考えられたのである。これは学侶には弟子といえども、
  空海の真意が伝えられていなかったことを思わせる。しかし空海は高野山で終焉する意図だけは、弟子に語っていたであろ
  う。空海はすでに山岳宗教の「入定」の伝統を知っていたので、高野山の山岳宗教を支える山人集団に、自分の死を「生け
  る者として」入定形式で葬ることを遺言していたものと推定される。したがって、土葬がおこなわれたのであるが、この
  入定が表面に出たのは示寂後百三十三年後の康保5年(968年)に、伝記不詳の真教によって書かれた『金剛峯寺建立修行
  縁起』からであった(⑬)。

 また、藤井正雄氏は次のように述べている。

   弘法大師は承和2年(835年)3月に高野山で没し、火葬に附せられ葬られたことは『東寺観智院文書』や『続日本後
  紀』などの文献によって知られるように、厳然たる事実である。弘法大師は入滅したのではなく、身心静止の状態になって
  瞑想に専念して弥勒菩薩の出現を待っているのだという入定伝説は、『日本紀略』に現れている。すなわち、入滅後八十七
  年目の延喜21年(921年)に空海に対して弘法大師の諡号宣下(しごうせんげ)があり、観賢(かんげん)(853年~925年)
  がその勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山奥の院の廟所の扉を開けたところ、大師の顔色は生前とかわらず、長く伸びて
  いた髪をそり、すでに朽ちていた衣を賜衣に改めたという話を載せている。各地の名山霊場を歴訪して修行を積み、その効
  験によって神秘力を体得しようとした山林修行時代の空海像は、すでに民間にあって、弥勒下生(みろくげしょう)信仰が
  盛んであり、民衆のメシア待望がそのまま古代からの神の遊行信仰と重なって映ったのであった(⑭)。

 真野俊和氏は、入定信仰について次のように説明している。

   承和2年(835年)死期の迫っていることを悟った空海は弟子たちを前にして、「吾れ入滅せんと擬するは、今年3月
  21日の寅の刻なり」と、日時まで予言したと伝えられる。そしてさらに「吾開閇眼の後には、必ず兜率他天(都率(とそ
  つ)天)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍す可し。五十六億余の後には必ず慈尊御共に下生し、祗候して吾先跡を問ふ可
  し」と言ったとある。釈迦の入滅後、五十六億七千万年ののちに弥勒菩薩は仏となってこの世界に下り、あまねく衆上を救
  うという、いわゆる弥勒下生信仰が仏教にはある。反対に、下生までの長い時間を弥勒菩薩は都率天で修行に励んでいると
  されるが、自らの死後都率天にのぼっていこうとする信仰を上生信仰という。空海の先のことばはその上の上生・下生の信
  仰を表明したものである。だから空海の死は、彼が亡くなって間もなくの頃はまだ単に滅とか入滅ということばでよばれて
  いた。また上生信仰も平安時代の中頃までは、一種の浄土信仰として密教の行者や法華経の行者たちの間でつちかわれてい
  た。ところが空海の死後だいぶたった頃になると、彼の死を入定と呼んで神秘化しようとする傾向があらわれてくる。入定
  とは本来禅定に入る、すなわち宗教的な冥想を修するという意味であったが、いつしかそれが、永遠の悟りに入ること、さ
  らには不死の生命を得ることの意味にかわっていった。つまり空海は死んで天上にのぼってしまったのではなく、弥勒菩薩
  が下生してくるまでの間、高野山奥の院の大師御廟(写真1-1-10)のなかで生きながらに永遠の冥想に入っておられると
  いうのである。これがいわゆる大師の入定信仰で、古いところでは藤原道長が弘法大師が入定したさまを見たと『栄華物
  語』では伝えている。さらにそこから発展して、大師は高野山の入定所におさまっているのではかならずしもなく、常に生
  きて生活している我々の間を巡錫しておられるという信仰をも生み出した(⑮)。

 さらに人定信仰形成の時期について、白井優子氏は、弘法大師入定信仰が、現在も隆盛な大師信仰のもっとも中心をなす信仰であると位置付けて、「入定信仰は、10世紀末には原形が形成されて、11世紀には、弥勒下生信仰の流行と結びついて、完成されていった。(⑯)」と指摘している。
 また五来重氏は、「弘法大師の入定信仰は、高野山が京都東寺学侶の支配下にある間は、表にでなかった。それはひそかに山人集団の行人によって、永遠に生きる全智全能の神として奉仕されてきた。ところが、たびたびの荒廃から高野山を守った行人たちの実力がみとめられた10世紀末になって、人定信仰が表面化し、弘法大師の入定を主張する『金剛峯寺建立修行縁起』が行人によって作られた。これはまた修験道が真言宗のなかで独立性をもつ時期でもあったが、この入定信仰の勃興を機会に、高野山は東寺の支配から離れて、独自の発展をとげるようになったのである。このようにして山岳宗教のなかで、現在も生きていると信じられる弘法大師の入定信仰が成立した。(⑰)」と述べている。
 なお、入定信仰形成の背景について白井優子氏は、「平安時代において、弘法大師空海によってもたらされた真言密教は、盛んに行われ、時代の一主潮となった。しかし、真言宗より遅れて積極的に密教を導入した天台宗が、法華信仰・浄土信仰を中心に、貴族社会に浸透していった。特に、10世紀中頃以後に展開してきた浄土信仰の、京洛を中心とする汎階層的な流行は、その教学の中心である天台宗-叡山を、時代信仰の中心とさせるに至った。そのような平安中期以後の真言密教劣勢のなかから、高野山金剛峯寺(写真1-1-11)を中心とした、弘法大師信仰が展開し、院政期に入ると、法皇の参詣を得るような、高野山霊場を形成していった。このような弘法大師信仰は、その信仰の中心として、大師人定信仰、高野山納骨浄土信仰をもっている。そしてこれらの中心となる信仰は、中世以後の弘法大師信仰展開の基礎となるものである。(⑱)」と述べている。
 新城常三氏は、「高野山が先に『弘法大師留身入定説』を提唱し、その後『納骨霊場』を喧伝したのも、地理上の、悪条件を克服し、真言内における一山の地位向上を図り、かつ貴族の関心と信仰とを引き寄せ、さらには参詣者を誘致しようとした意図にもとづくのであろう。『弘法大師留身入定説』とは、弘法大師が今なお、高野山に生存するとの説で、すでに大師寂後、間もなく提唱されたらしく、延喜21年(921年)、醍醐天皇は、夢想により、衣一襲を空海廟に賜っている。その後、真言宗の発展に伴い、この『弘法大師留身入定説』は、高野山をして宗内の聖地化たらしめ、大師を慕う道俗を招き寄せるに大いに役だったのである。(⑲)」と述べている。
 以上、弘法大師入定信仰の形成について、各論者の論考を抜粋してみたが、それを整理すると次のようになる。
 入定とは、禅定を修めることであり、すなわち宗教的な瞑想をすることであるが、いつしか永遠の悟りの境地に入り、不死の生命を得ることの意味に転化されていった。そして、この入定という考えは、弥勒下生信仰の流行と相まって次第に信仰化し、10世紀末には弘法大師入定信仰としてその原形が形成され、11世紀には完成していくというのである。
 こうした弘法大師入定信仰の形成は、空海が真言密教の開祖であり、青年時代から豊かな宗教体験によって培ったゆえに後世付与された神性と霊性を兼ね備えた人物であるとの信仰もさることながら、高野山がこの弘法大師入定信仰を通して、真言密教の普及を図るための手段として入定信仰の普及に努めたこともその要因として考えられている。そして各地に普及していった入定信仰は、弘法大師信仰をより深化させ、その後の四国遍路の形成や普及に極めて大きな影響を与えることになるのである。

<注>
①宮田登『ミロク信仰の研究』P133 1970
②五来重『空海の足跡』P62 1994
③前出注② P63~64
④前出注② P190
⑤前出注② P189
⑥前出注② P87
⑦白井優子『空海伝説の形成と高野山』まえがき P3 1986
⑧宮田登「大師信仰と日本人」(和歌森太郎編『弘法大師空海』P132 1984)
⑨真野俊和「巡礼」(桜井徳太郎編 日本民俗学講座『信仰伝承』 P129 1992)
⑩前出注② P75 1994
⑪疋田精俊「寺院の機能―密教系」(小野泰博ほか編『日本宗教事典』P253 1985)
⑫前出注① P134
⑬前出注② P89~90
⑭藤井正雄「祖師信仰」(小野泰博ほか編『日本宗教事典』P344 1985)
⑮真野俊和「旅のなかの宗教」P80~81 1980
⑯前出注⑦ P455
⑰前出注② P93~94
⑱前出注⑦ まえがき P3
⑲新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P15~16 1988

写真1-1-8 七十五番善通寺

写真1-1-8 七十五番善通寺

空海誕生の地といわれている。平成12年9月撮影

写真1-1-9 御膳を運ぶ高野山奥の院維那(ゆいな)

写真1-1-9 御膳を運ぶ高野山奥の院維那(ゆいな)

毎日二度奥の院の大師御廟にお膳を運ぶ。平成12年11月撮影

写真1-1-10 高野山奥の院大師御廟

写真1-1-10 高野山奥の院大師御廟

平成12年11月撮影

写真1-1-11 高野山金剛峯寺

写真1-1-11 高野山金剛峯寺

平成12年11月撮影