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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(3)大師伝承

 ア 弘法大師伝説

 四国遍路の原形は、弘法大師信仰の形成によって、次第に整えられていったものと考えられるが、この弘法大師信仰をより普及させ、またその普及を裏付けるものとして、各地に伝わるさまざまな大師伝承がある。
 宮田登氏が「日本の伝説の主人公のうちで、弘法大師ほど人口に膾炙(かいしゃ)した存在は知らない。弘法大師ほど民衆に親しまれた高僧は他に居ないだろう(①)。」と述べているように、弘法大師が各地を巡遊して歩き、村々の住民のために様々な奇跡を示したというような内容の大師伝説は、日本各地に広く伝わり、人々の信仰を集めている。そして今日も四国遍路をする人々は、「弘法大師のおかげ」を念頭に「同行二人」の旅を続けているのである。
 弘法大師が日本列島をくまなく歩き、様々な伝説を残すことになったのは、空海が死なずして仏となり衆生を救うという弥勒信仰に基づく入定信仰に起因すると考えられるが、実在の空海は、伝説の弘法大師に結びつく要素を数々もっている。
 例えば、山本和加子氏は、その要素を次のように紹介している(②)。

   ○ 空海の人柄が、天皇・貴族・民衆それぞれを差別しなかったこと。高僧であるが優婆塞(うばそく)も体験し、人間平
    等観を持っていたこと。
   ○ 天皇の病気を直したことから、医術にもたけていたと思われたこと。
   ○ 満濃池を完成させたことで、水不足を解消すると思われたこと。
   ○ 日光・伊豆あたりを巡行したことで、巡行する大師のイメージができたこと。
   ○ 空海しかわからない密教の奥義で、印を結べば仏が現れて奇跡がおこると思われたこと。
   ○ もう一つ何よりも強力な条件は、弥勒菩薩や観世音菩薩・薬師如来・地蔵菩薩という民衆に親しまれた仏よりも、弘
    法大師は仏に匹敵するくらいの力をもちながら、この世に実在した人間であったことにより、いっそうの親しみが持て
    たこと。
   ○ 四国とのつながりは、大師が讃岐出身であったこと。優婆塞時代、阿波の大滝岳と土佐室戸崎で勤行したこと。

 大師伝説のモチーフは、大師が諸国を巡遊し、村人たちに様々な奇跡をなしたいわゆる不思議の旅人についての物語を中心とする。しかし、今日各地に伝わる大師伝説は、内容的には様々である。それを宮田登氏は次のように5類に分類している(③)。

 第1は、神樹由来型である。これは箸立伝説または杖立伝説の一部がこれに属する。村にあるこんもり繁った古木の由来を説くために作られたものである。
 箸立伝説は、旅僧が村を通りかかり、そこで昼食をとる。その時使った箸を地にさしたのが成長して大樹となる、といったモチーフである。その旅憎がダイシであり、樹種に杉や松、柳など多い。その木を箸杉とか大師杉と名づけ、神聖視するのである。
 また杖立伝説は、やはり旅憎が村を通りかかり、小休止する。その時手にしていた杖を置いたり、さしたりしたのがそのまま成長して大樹になる、というモチーフである。
 第2は、弘法清水型である。かつて水の乏しかった土地にある泉・井戸の由来を語る伝説で、全国に普及している(写真1-1-14)。
 弘法清水型について、宮田氏は柳田国男氏の分類を紹介している。それは10類に分類されるという。

   ○ 弘法大師が巡錫の際、水がなくて困った所で、杖で地を突いて教え、また自ら井戸を掘った。
   ○ 水を所望して、水が不自由なのを知り、錫杖(しゃくじょう)で地を突いた。
   ○ 独鈷(とっこ)(真言密教の修法に用いる用具)で地を突いた。
   ○ 弘法大師に差出した水が、あまり水色がよくないので、良い水を出す。
   ○ 大師が老婆に乞うと水が無いため一度は断ったが、大切な水一椀を与えると、大師は杖を地に立てて水を出した。
   ○ 弘法大師が機を織る女に水を乞うと、女は遠方から汲んで来て呑ませる。大師はお礼に杖を突いて清水の出るところ
    を知らせる。
   ○ 弘法大師に水を与えた所には杖で突いて水を出し、与えなかった所には水がなく、また渇水となる。
   ○ 水が生ぬるいとか濁っているといって与えなかったので渇水となる。
   ○ 機を織り、あるいは洗濯していて、口実を設けて与えなかったので、水が減じたりなくなったりする。
   ○ 米の磨水、洗濯水、白水などを与えたため水が濁りまた白くなる。

 第3は、禁忌食物型である。秋の収穫物についてダイシの奇蹟が行われたことを示すものである。畑作物に関するものと果実に関するものと魚類に関するものに分けられる。例えば、大師の旅僧が村を訪れ、村人に畑の芋をくれと頼む。与えるのが惜しいので、この芋は固くて食べられないといって断ると、旅僧は去ってしまい、その後この村の芋は石ころのように固くなってしまうという類の話である。
 第4は、大師講型である。旧11月23日夜から翌24日にかけて行われる大師講についての伝説の骨子はだいたい次のようなものである。この夜、ダイシ様が村を訪れる。そこで各家々では、小豆粥・団子・大根・蕉(かぶ)などを供える。この供物にはさらに栗・桃・萩などで作った大小不揃(ふぞろ)いの箸(はし)を供える。この夜はダイシは必ず雪を降らせる。これは巡歴のダイシをもてなすために、食物を盗みに出た老婆の足が不具であるので、ダイシがその足跡を隠すために降らせた雪だといわれるという類の話である。
 第5は、奇蹟強調型である。これに属するものは2要素に分けられる。一つの要素は第1~第4型のどれかに入るが、奇蹟がことさらに強調されている。もう一つの要素は第1~第4型のいずれにも属さぬ別要素であり、村を襲う災害の救済に対し、ダイシの奇蹟が強く説かれている。

 こうした大師伝説の原形(本質)はどのようなものであったか。この点について宮田登氏は、「日本には、神の御子=ダイシが、各地を巡行し、時に奇蹟を行うといういわゆるダイシ伝説は古くからあった。だがこれは、日本固有といった性格のものではない。神の遊行と奇蹟は、諸民族共通の最古の物語の形式なのである。ただ日本で神という場合、ヨーロッパのそれとはかなりの相異があることは周知のとおりである。遊行する神は人格化され、卑近的存在と認められ、不思議な見知らぬ旅人として描かれている。(④)」と述べ、大師伝説には、神の子=ダイシが各地を巡行し、時に奇蹟を行うという日本古来のダイシ伝説がその根底にあると、柳田国男氏の論考を基にして指摘している。
 さらに宮田登氏は、「大師という場合、その多くが弘法大師に収斂するとはいうものの、そうでない場合もある。その理由は先学の指摘するごとく、大子のダイシ(柳田国男氏は神の子の意味で大子と呼んだのがのちにダイシとなり、仏教の大師に結びついたと推定している。)に相当する貴い人なら誰でもよく、したがって仏教上の高僧なら誰でもが該当することになるからだ、ということになる。しかし明らかなことは、弘法大師を除いた大師たちには、信仰圏に裏付けられた地域性が存することである。(⑤)」、「ダイシという場合、大師だけにこだわる必要はない。つまり仏教上の高僧・聖と同義なのである。したがって僧正や上人も当然そこに入ってくる。また聖徳太子も仏教の祖師的存在であることは周知の通りである。(⑥)」、「各々の宗派の立場で、宗祖・高祖をダイシ伝説に吸収させることは、一応認められることである。そうすると、真言宗の信仰圏がすなわち弘法大師となるわけである。ところがダイシ伝説で大師を弘法大師とする地域が、全体の約7割を占めるが、これは真言宗地帯をはるかにオーバーすることになる。弘法大師に限っていえば、決して宗派性だけにとらわれることはできない。たしかに真言宗の村に弘法大師の来訪は語られるが、天台宗・禅宗などの地域でも、やはり弘法大師は通行して奇蹟を行っているのである。したがって何らか別の要素から、宗教性を超越させる因由(いんゆ)を見付けださなくてはならない。(⑦)」と述べ、弘法大師伝説が他の大師伝説と異なり、宗派を超越して日本全国に伝わっている点を指摘している。
 それではこうした弘法大師伝説が、宗教性を超越して全国に伝承していった因由はどこにあるのだろうか。
 それは、第1に、弘法大師伝説を日本全国に伝播していった人々がいたということであり、第2に、弘法大師自身の本質に有する庶民性にあったのではないだろうか。
 その第1については、前節で整理したように、大師伝説の主な伝播者は、弘法大師入定信仰の普及に大きな役割を果たした高野聖の類と推察される。
 宮田登氏が、「人々が苦しみ悩む時は、村を訪れそれを憐れみ助ける。社会が何か追い詰められた時には、踊念仏を流行(はや)らせ、苦悩のはけ口を与え、一種の催眠術的伝道をやってのけた。人の嫌がる死者供養を率先して行ない、怨霊の崇りを鎮めたりもする。弘法大師を背後にかざしたこれら高野聖は、実に仏教の日本化の一翼をになう重要な意味をになっていたといえるだろう。(⑧)」と述べているように、高野聖の類が日本全国を歩き廻り、弘法大師信仰を普及させ、弘法大師伝説を伝えていったといえよう。
 また第2の弘法大師の庶民性について宮田登氏は、「現在全国津々浦々に分布する大師伝説は、柳田国男が指摘したように、大師以前の大子すなわち神の長男たるオオイゴという神格=祖霊に対する信仰が祖型にあるとしても、この大子が、ほとんど大師に変えられ、しかも弘法大師そのもの、あるいはその分身として崇められるに至った信仰的要素は、12世紀末から15世紀にかけて高野山に大きな比重を占めた弥勒下生信仰、そこから派生した大師の入定、復活信仰を背景として形成されたものなのである。大師信仰がこのように歴史と民俗の交錯する場に展開してきたことは、とりもなおさず大師の本質にある庶民性によるところが大きいことはいうまでもないだろう。(⑨)」と指摘している。
 武田明氏は、「四国巡礼の風習の起こりを考える時にはこの根強い大師信仰を無視することは出来ない。大師に関する伝説・大師巡遊の信仰については四国地方だけに特に濃厚に残存しているとは言えないかもしれないが、大師の誕生の地であるためと四国八十八ヶ所巡礼の風習のために日本国内の他の地方とはやや異質のものがあるようである。(⑩)」と指摘している。そして、大師伝説は、四国においては四国らしい発達を遂げていったとして、その特質を4点挙げている。

   第1は、札所寺院に付着しているものが多い。これは四国八十八ヶ所を開創したのが弘法大師であると言う伝説からこれ
  らの札所寺院に付いて発生したものである。そしてへんろ道と言う札所と札所との間をつなぐ路のかたわらにも多くの大師
  伝説が出来ている。また大半の札所寺院には大師自刻と伝えられる仏像があって弘法大師が巡歴して来たことを強調しよう
  としている。
   第2は、四国地方の大師伝説は他の地方にくらべて話の筋書の種類が多い。
   第3は、大師の霊験を説こうとするものが多く、信仰の対象としようとしている。
   第4は、他の地方で見ればその主人公が大師以外の人のものも多いが、四国地方ではその主人公の大半は弘法大師であ
  る(⑪)。

 以上、弘法大師伝説について、宮田登氏と武田明氏の論考を中心に整理してきたが、弘法大師伝説の庶民性は、人々をして大師信仰をより身近なものとならしめ、特に弘法大師ゆかりの地である四国においては、実在した弘法大師の事跡として信仰しようとする傾向が次第に強められ、四国八十八ヶ所を巡る四国遍路の形成を促す一つの要因になっていったものと考えられる。
 この大師伝説と四国遍路の形成との関係については、真野俊和氏が、「影のごとく遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかは明らかにされていないが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。(⑫)」と指摘しているように、大師伝説と諸国を遍歴する大師の姿は、同時期に出現した観念と考えるべきであろう。

 イ 右衛門三郎発心譚

 四国における弘法大師をめぐる大師伝説は数多く伝承しているが、その中でも右衛門三郎発心譚(えもんさぶろうほっしんたん)は、四国遍路の元祖とも称されている伝説である。この伝説については、各論者がそれぞれ示しているが、ほぼ同一の筋書であるので、真野俊和著『旅のなかの宗教』の記述を次に紹介しておきたい。
 
   右衛門三郎はもと伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった。しかしその人柄は天下無双の悪
  人、樫貪放逸の者であったという。ある日彼の屋敷の門前に一人の旅の乞食僧が立ち、一鉢の食を乞うた。もとより強欲非
  道の三郎のこととて、一文の喜捨にすら応ずるはずもない。だが旅僧もまたそれから七日の間、門前に立っは同じことをく
  り返した。そしてついに八日目の朝、僧がやってくるのを見るや、三郎はいきなり僧の差し出す鉄鉢を奪いとり、地面にた
  たきつけた。鉄鉢はたちまち八つに砕け、八方に飛び散っていった。ところがどうしたことか翌日から八日間にわたって、
  三郎の八人の子どもたちは次々に原因不明の高熱を発し、手あての甲斐もなくあっけなく皆死んでしまった。
   八人もの子どもをなくしてはじめて己れの悪業を知り、また無常を感じた彼は、さてはかの乞食僧こそ弘法大師であった
  かと、罪を謝すべく僧のあとを追って旅に出るのであった。けれども再び乞食僧にめぐり会うこともできず、故郷を捨てて
  四国路を巡ること二十度、そして二十一度めの遍路の途中、ここ阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、彼はついに老
  いと疲労のために倒れてしまったのである。今まさに息を引き取ろうとしている三郎のもとにかの乞食僧、実は弘法大師は
  ようやく姿を見せた。そして大師は三郎の罪を許し、また最後の願いごとがあれば何なりと聞き届けようと約束する。三郎
  は大いに喜び、ただひとつ伊予の国主河野家の子どもとして生まれかわりたい願いのあることを語り、ついに息をひきとる
  のであった(⑬)。

 またこの話には幾つかの後日談がある。一つは弘法大師が三郎をその地に葬り、そこに大師持参の杖を立てると、杖はやがて成長して大きな杉の大木になったという話である。またもう一つの話は、三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。ある時河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、あけてみると「右衛門三郎」の文字が読め、人々はこの子が右衛門三郎の後身であることを知ったという話である。そして前者の話は、現在も番外霊場の杖杉庵(じょうしんあん)(写真1-1-15)に、阿波焼山寺伝説として伝承されており、後者の話は、松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている(⑭)。
 右衛門三郎の伝説の筋書きは以上のようなものであるが、この話が四国遍路の元祖と言われる所以(ゆえん)にはいかなる要素があるのか。
 この点に関して真野俊和氏は、右衛門三郎発心譚には、大師伝説の勧善懲悪的な性格で語られるモチーフと杖立杉型の伝説を内包していると指摘するとともに、乞食僧=弘法大師の果たしている役割に注目し次のように述べている。

   三郎の非道な仕打ちに対する飛鉢の霊験と懲罰、彼の改心に対してあらわされた杖の成長という霊験と河野家への生まれ
  かわりという恩寵と、物語のなかで大師の登場はこの二つの局面にのみ限られているということである。三様の世界を順次
  めぐり歩く三郎が、ひとつの世界から他の世界に身を移そうとするとき、かならずその場に出現するのは、弘法大師なる超
  人間的な霊威をもった存在である。しかもその世界の転換は大師の強大な霊力の発動によってはじめて可能になるものであ
  る。大師はここでいわば媒介者としての役割をきわめて有効に果たし得ているのである。こうした大師像のありかたはむし
  ろ、四国霊場にたびたび見出すことのできる霊験譚、ことに治病にまつわる霊験譚の構造を規定するともいえよう。四国霊
  場をめぐる大師と右衛門三郎とのからみあいというテーマは、現実には「同行二人」の思想、すなわち遍路は常に大師と二
  人連れであるとの観念となってあらわれてくる。(中略)遍路のあとになり先になり、見えかくれしつつ常に遍路とともに
  歩き続ける大師のイメージが、四国遍路には常に潜在している(⑮)。

 要するに、この右衛門三郎発心譚は、大師伝説の一般的なモチーフを持ち合わせながら、四国遍路において今日でも内包する信仰的な要素をも持ち合わせており、その故をもって四国遍路の元祖と称されている所以があるのではないかと考える。
 しかしながら、この伝説はいくら勧善懲悪と言っても、弘法大師の所業は酷すぎるのではないかという考え方が一方にはある。このことは、江戸時代に『四国徧礼霊場記』を著した雲石堂寂本のような心ある真言宗僧侶を大いに悩ませたものであった(⑯)。
 この点について、宮田登氏は、「水を出さなくしたり、芋や果物を食べられなくしたりするのは、どうも弘法大師の所業に似つかわしくないのではないか。(⑰)」と述べ、それは「元来人間の幸不幸は神の摂理、神から見て、人の行為の正不正が判断されるという考え方が、古風な日本の思考ではないだろうか。(⑱)」と指摘し、大師伝説の原型である神の御子=大子のなせるわざとみる柳田国男説にその根拠を求めている。
 また宮崎忍勝氏は、「高圧線に触れると即死するように、霊験力のある神ほど崇りも恐ろしく、効験も著しいという神話的思想の反映であり、『四国徧礼功徳記』の跋で比丘中宜の述べている、いわゆる『弘法大師の神化』をものがたるものである。(⑲)」と指摘している。
 次にこの伝説はいつごろから語られだしたものであろうか。この疑問について整理しておかねばならない。
 近藤喜博氏は、「右衛門三郎発心譚なるものは、さらに遡っては一体何処まで遡れるのであろうか。既に寛永15年の『四国霊場御巡行記』にその片鱗が見えていた。(⑳)」としながらも、見聞の範囲からではあるが、石手寺の永禄10年(1567年)4月の『板書』(刻宇)に多少の異説を交えるがこの説話が記載されているとしている。また石手寺の文明13年(1481年)の棟札に、「石手寺本堂」とあり、石手寺が安養寺から石手寺と改名した背景を踏まえて右衛門三郎発心譚を考えると、この伝説は文明13年までは勿論(もちろん)、さらに遡らせることの可能性も存在するであろうと指摘している(㉑)。
 しかし、こうした伝説は、宮田登氏が、「いうまでもなく伝説は歴史的事実ではない。それは信仰的事実である。それは時代を経て語り継がれて行く間に、さまざまな混淆と交流の現象が生じる。ある時代にある歴史的条件が加わることによって、その内容は大きく変化する。柳田国男の言葉を借りると、『伝説の合理化』であり、それは土地ごとの伝説の管理が、率直で何も知らない古老の手から少し歴史的知識を持ち、推理をする人の手に移ったことを示している(㉒)。」と述べているように、「伝説の合理化」によって伝説は時々に変化するものであり、その起源をたぐることは極めて困難なことではないか。
 近藤喜博氏も、「右衛門三郎伝説成立の要素を、鎌倉時代以前に認められるかもしれぬが、ここでは問題の提起に留めたい。一面この発心譚は、古い姿の四国邊土・邊地とのかかわりよりも、邊土・邊路を踏へつつ、中世期に整備の八十八ヶ所の遍路・遍土へと移行してゆく上に、この発心譚の成長を捉える方が、或いは本来なのだと思われなくもないらしい。(㉓)」と述べている。
 
<注>
①宮田登「大師信仰と日本人」(和歌森太郎編『弘法大師空海』P79 1984)
②山本和加子『四国遍路の民衆史』P35~36 1995
③宮田登『ミロク信仰の研究』P111~124 1970
④前出注③ P110
⑤前出注③ P126
⑥前出注③ P127
⑦前出注③ P129
⑧前出注① P84
⑨前出注① P131~132
⑩武田明『巡礼の民俗』P29 1969
⑪前出注⑩ P69~70
⑫真野俊和「四国遍路への道」(エヌエス出版会『季刊 現代宗教』P117 1975)
⑬真野俊和『旅のなかの宗教』P84~85 1980
⑭前出注⑬ P85~86
⑮前出注⑬ P92
⑯前出注⑬ P89
⑰前出注① P103
⑱前出注① P103
⑲宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』P158 1985
⑳近藤喜博『四国遍路』P118 1972
㉑前出注⑳ P120
㉒前出注① P85
㉓前出注⑳ P121

写真1-1-14 杖(じょう)の渕(ふち)

写真1-1-14 杖(じょう)の渕(ふち)

松山市南高井町。平成13年2月撮影

写真1-1-15 杖杉庵

写真1-1-15 杖杉庵

徳島県名西郡神山町。平成12年11月撮影