データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)修行者の遍路②

 (エ)番所のこと

 先に四国諸藩最初の遍路統制令として松山藩の番所を取り上げたが、このように諸藩では陸路の要所や国境・藩境の接所には検問所を設けていた。土佐藩では、これを道番所といい、また出入の船舶を検問する所を津口といった。高知城下には東方の松ヶ鼻、北方の山田橋、西方の思案橋の3番所があって、城下町出入を監視した。このほか国境におかれたものを境目番所、国境に近く領内要所におかれたものを内番所と区分してとなえる慣行もあった(㊲)。なお、遍路の出入口と定められていた甲浦(東股)番所(写真1-2-1)と松尾坂番所(写真1-2-2)とはいずれも境目番所であった。土佐藩の番所の数について平尾道雄氏は、「元禄年間36のものが天明年間にはついに86に達した。(㊳)」と述べているが、出入口を特定され遍路道以外の脇道通行を禁じられていた遍路たちにとって、関係する番所はわずかでしかない。
 阿波藩では、御番所・番手などといい、大別すると、境目・川口・遠見御番所に分かれる。遍路に関係するものとしては、境目御番所では讃岐境の大坂口・日開谷、伊予境の佐野口、土佐境の古目御番所があり、港に置かれた川口御番所には津田・北浦川口御番所などがあった。御番所の改め方、取り調べの要領は時代と場所によって異なったようである。藩政時代初期はキリシタンの入国や走り人(居村から無断で離散する百姓)の防止、他国者や他国に居住する阿波人の出入国に留意し、中期以後には虚無僧・乞食・流浪者などの取り締まり、後期には密輸品の監視が重視された(㊴)とある。
 真念の『四国遜路道指南』をみると、阿波で古目・さの(佐野)村・ひかひだに(日開谷)村の3か所、土佐でかんの(甲)浦・ふしごえ(伏越)・かうち(高知)城下・大ふか(深)原村の4か所、伊予でこやま(小山)・まき(槇)川村・宇和島城下入り口・同出口・東たゞ(多田)村・あさなみ(浅海)村の6か所、讃岐はなしで、合計13か所の番所が記されている。以下、記録に粗密があるが、このことについては、その後も余り変化がなく、文化元年(1804年)の『海南四州紀行』で9か所、文政6年(1823年)の『吉田搖泉四国紀行』で11か所、天保7年(1836年)の『四国遍路道中雑誌』でも11か所となっている(㊵)。
 土佐藩の歴史研究者である平尾道雄氏は、『近世社会史考』において、「山内氏の入国当時は、領民の動揺を防ぐ意味で、法制は長宗我部氏のものを踏襲することを旨としたので、当然この通行令もそのまま受けつがれたはずである。」として、長宗我部元親百箇条のうち、第二十三条の他国往来の許可制と七十四条の横(脇)道禁止令を挙げ、近世初期以来、往来の取り締まりが厳しかったことを指摘している(㊶)。
 また、土佐藩では、寛文3年の布令が道番所に指令された最初の遍路に関する規制令であると先述したが、翌4年5月の道番所への指令通行規則、元禄3年(1690年)のいわゆる「元禄大定目」のうちの「道番所定書」に同様のことが原則として定められ、施行された(㊷)。そのほか時に応じ、場所に応じて各種の規制が、取り締まりの第一線である道番所・津口に対して指令されていくのである。平尾道雄氏は他国往来の厳しさを示すものとして、「手抄」と題する葛目盛徳の追憶記の次の一節を挙げている。

   土佐の国東西(甲浦、藻津)の御関の外山分御境目に数十ヶ所の御関所を設け、番人をすえおき、自由に他国へ出る事
  も、他邦人を国内に入れる事も相成らず、厳禁なる御掟也。士格の者より下賤の者までも願ひなくて御関所通行相成らざる
  也。また辺路の者甲浦(東より入来るを順行と云)藻津(西より入来るを逆行と云)の両口より出入致し、これは札所ばか
  りにて高知城下へは入れることを制禁したるなり(㊸)

 宇和島藩では、寛文年間に「御番所掟」を制定し、天和2年(1682年)、元禄10年(1697年)、延享4年(1747年)などに一部改正した。元禄令・延享令ともに15か条前後から成る詳細厳重なもので、手形改めの厳正・欠落人の捕縛・他領からの穀物その他の商品の移入禁止・水汲(みずく)み以外の船乗りの上陸禁止などを特徴とした。また隣藩土佐・大洲との関係には特に気を遣っている。同藩の口留(境目)番所は陸地部に東多田・慳谷・小山・野田、海路は9か所、城下には樺崎川口・新町・佐伯町口・袋町堀末などにあった。遍路関係としては、土佐境の小山番所、大洲境の東多田番所がそれぞれ重要であった。小山番所の位置は松尾峠を下った小山本村字茶堂で、街道と庄屋宅の間を竹矢来で閉ざし、建物は平屋で奥12畳、取調べ所10畳の2室、世襲の下番人が常時詰め、番所役人は城下に居てときおり出張した。大洲藩の境目番所は、八幡浜道に関谷、宇和島街道に鳥坂番所があった(㊹)。

写真1-2-1 甲浦東股番所跡

写真1-2-1 甲浦東股番所跡

現高知県東洋町にあって、阿波との国境近くに設けられていた土佐藩の番所跡。平成12年11月撮影

写真1-2-2 松尾坂番所跡

写真1-2-2 松尾坂番所跡

現高知県宿毛市にあって、伊予との国境近くに設けられていた土佐藩の番所跡。平成12年11月撮影