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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)廃仏毀釈と札所②

 (ウ)香川県の状況

 香川県の廃仏の動きも比較的穏健だったが、その中で一時期、多度津藩の一部が、積極的に廃仏政策を押し進める高知藩に追随する動きを見せた。明治維新後に四国13藩によって結成された四国会議(金陵会議)において、明治3年(1870年)4月5日に廃仏毀釈の件が議題にのぼったことがある。その時出席していた多度津藩の儒学者伊東一郎は、後日、当時を回想して次のように述べている。「土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。殊に多度津藩は廃仏の模範たらんとする意気込みであった。尤もその時阿波藩は漸廃論と火葬廃止論を出した。(中略)この多度津藩の廃仏論も藩全体の意見ではなく、僅々二・三士過激派の主張した少数意見であった。斯く領内が騒動を惹起するようになると、多数党が承知しないので、結局廃仏論を撤回することになって無事落着した。(㉘)」すなわち多度津藩では、領内の寺院を一宗一寺にまとめようとしたところ各寺院が団結して反対し、さらに領内の信徒が不穏な動きを見せ始めたので、結局、廃仏政策を中止したのである(㉙)。
 廃仏毀釈によって大きな影響を受けた香川県の札所の事例として、六十八番神恵院と八十一番白峯寺を取り上げる。まず神恵院についてだが、もともとの六十八番札所は琴弾八幡宮であり、神恵院はその別当寺として君臨していた。かつて歴代院主は、外出の時には常に駕籠(かご)を用いるほどの羽振りであったという。神仏分離の際にはこの神恵院が六十八番札所となり、ちょうど琴弾八幡宮に神官が不在だったこともあって、社寺の間にトラブルなく円満に宝物類の配分などの分離作業も完了した。しかし一方、寺領寺財が制限されたことにより院主は生活に困窮し、やがて来客を泊めようにも布団の重ね一組もないほどになったという。神恵院は檀家を持っていないため、納経料のみを頼りに寺を維持したが支えきれず、ついに近所にある六十九番札所の観音寺の境内に本尊を移すことになった(㉚)。こうして観音寺の西金堂を神恵院本堂として、一つの寺院の境内に2か所の札所という他に類を見ない伽藍(がらん)配置が成立したのである(写真2-1-4)。
 また、八十一番白峯寺については、保元の乱(保元元年[1156年])に敗れ讃岐に配流されて亡くなった崇徳上皇の御陵と、上皇の神霊を祭る御廟である頓証寺殿(写真2-1-5)を代々管理してきた札所である。江戸時代には、高松藩の厚い保護も受けていた。
 ところが明治になって、それまで御廟に祭られていた神霊が、新たに京都に造営された白峰神社に移され、御陵も宮内省の管轄に移った。このことは白峯寺にとって大きな精神的打撃であり、さらに上知令による寺領没収の結果、残ったものは境内地及びその建物、什器(じゅうき)だけとなった。さらに明治6年(1873年)には、当時の白峯寺住職が自ら還俗して白峰御陵の陵掌に転じたため寺は無住職の状態となり、廃寺同様の有様を呈するに至った。明治8年、この状況に危機感を抱いた檀家信徒が新しい住職選定を県令に願い出て許可されたため、ようやく廃寺の危機は去ったのである。頓証寺殿をめぐっては、その後も明治11年に事比羅神社(現在の金刀比羅宮)との間で係争が起こっている(㉛)。

 (エ)廃仏毀釈の影響

 以上、四国遍路の札所と神仏分離・廃仏毀釈のかかわりを概観してきた。
 実際のところ、この歴史的事象に対して遍路の側がどういう影響を受けたかを数値的に知るデータは乏しい。ただ遍路を行う者にとって、札を納め参拝する対象そのものが消滅したことの精神的意味あいは、決して小さくなかったと推察できる。星野英紀氏も、史料が残されてなく詳細は不明としながらも、「一般論としては、四国遍路も神仏分離政策に大きな影響を受けたであろうことは想像に難くない。(㉜)」と述べている。
 もちろん札所の側からすれば、廃仏毀釈により甚大な被害をこうむったことは疑いのない事実である。しかしこの時、廃寺やそれに近い寺院が続出しながらも、八十八ヶ寺のサークルはかろうじて存続し得た。そして、やがてすべての札所がその活動を再開させることに成功したのである。

<注>
①前田卓『巡礼の社会学』P110~111 1971
②前出注① P120~121
③星野英紀「近代四国遍路と交通手段」(『大正大学大学院研究論集 第24号』 P322 2000)
④村田安穂『神仏分離の地方的展開』P1 1999
⑤辻善之助ほか編『新編明治維新神佛分離史料 第一巻総説編』P116 1984
⑥前出注⑤ P116
⑦前出注⑤ P120
⑧前出注④ P11
⑨近藤喜博『四国遍路研究』P90 1982
⑩平尾道雄『近世社会史考』P117~120 1962
⑪前出注⑤ P72
⑫辻善之助ほか編『新編明治維新神佛分離史料 第九巻中国四国編』P601~621 1984
⑬広江清「高知における明治初期の廃仏毀釈」(『土佐史談 復刻第38号』P21 1967)
⑭喜代吉榮徳『へんろ人列伝』P188~192 1999
⑮高知縣編『高知縣史要 全』P470~473 1924
⑯前出注⑭ P159~162
⑰小林雨峯『四国順禮』P59 1932
⑱伊予史談会編 『四国遍路記集』 P31 ・ 88 ・ 177 1981
⑲(島浪男『四国遍路 札所と名所』P129~137 1930)、(高群逸枝『お遍路』P86~87 1938)、(荒木哲信『遍路秋色』 P62~65 1955)、(西端さかえ『四国八十八札所遍路記』P152~153 1964)などに所収されている。
⑳小松町史編さん委員会『小松町誌』 P699 ・ 1478 1992
㉑愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 学問・宗教』P763 1985
㉒前出注㉑ P763~764
㉓西端さかえ『四国八十八札所遍路記』P224 ・ 231 1964
㉔浄瑠璃寺前住職 岡田章敬さん(大正5年生まれ)からの聞き書きによる。
㉕(前出注㉑ P760~762)及び(久門範政編『西條市誌』 P933~940 1966)による。
㉖前出注⑭ P191
㉗前出注㉑ P700 ・ 1457 ・ 1458 ・ 1473
㉘福家惣衛『香川県近代史』 P226~227 1959
㉙前出注㉘ P224~226
㉚観音寺市誌増補改訂版編集委員会編『観音寺市誌』 P307~308 1985
㉛前出注㉘ P228~234
㉜前出注③ P323

写真2-1-4 観音寺の境内

写真2-1-4 観音寺の境内

手前が六十九番観音寺本堂、後方が六十八番神恵院本堂である。平成13年1月撮影

写真2-1-5 崇徳上皇を祭る頓証寺殿

写真2-1-5 崇徳上皇を祭る頓証寺殿

八十一番白峯寺の境内にある。平成12年12月撮影