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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)各県の遍路対策

 ア 遍路への対応

 (ア)『近世土佐遍路資料』から

 明治前期における遍路停滞の原因の一つとして、ここでは、地方行政機関による遍路の排斥政策とその影響を取り上げる。先に述べた神仏分離・廃仏毀釈の対象は札所を含む寺院だったが、こちらは遍路に対する直接的な政策であり、そういう意味では、この時期の遍路停滞についてより大きな要因となったと考えられる。
 明治維新後、遍路と地方行政機関とのかかわりはどうだったのか。それを知る手がかりとして、広江清氏がまとめた謄写(とうしゃ)版刷りの『近世土佐遍路資料』に、高知県における多くの事例が集められている。明治前期の〝遍路事件簿″とも言えるこの資料集から、幾つかの事例を拾ってみたい。(なお、以下に挙げる資料中の□は、広江氏があえて文字を抜いたものと思われる。)
 明治初めの高知藩では、遍路に対する従来の政策を踏襲していた。したがって遍路の出入りは東の甲浦口と西の松尾坂口に制限されたままであり、その他の国境を通るのはすべて不法行為であった。明治元年(1868年)の資料に見える遍路たちは、阿波の山間部を通って入国し袖乞(そでご)い(物乞い)をしつつ遍路を続けていたのだろう。捕まって杖打ち40回の体罰を受けたうえ、土佐中央部の立川口から伊予へ国外追放となっている。
 続いて明治2年と明治5年の資料を挙げる。
 前者については、遍路が長浜村(現高知市)で行き倒れになったという内容だが、これもまた不法入国だったようだ。この当時、遍路死は決して少なくはなく、『近世土佐遍路資料』にはそのほかにも遍路死の事例が幾つも挙げられている。後者は、3人の遍路が長浜村の神社において袖乞いでもらった食べ物を炊事したところ、火の不始末によって神社を焼失させたという内容である。この場合、本来は笞打ち40回の体罰になるところ、3人とも病人ということで追い払いの措置がとられた。遍路がこうした場所にたむろすることは問題になっていたようで、一宮神社(現在の土佐神社)から高知藩に対して、遍路が社内に勝手に泊まったり火を焚(た)いたりすることに対し立ち入りを禁じてよいかを問う明治3年(1870年)の伺書(④)も残っている。特に一宮の場合は、江戸時代末までの神仏習合の時期にはれっきとした三十番札所だったわけで、自然と遍路も集まりやすかったのだろう。
 続いて、明治元年と明治7年の資料に注目したい。この二つの事例は明確な犯罪行為である。前者は、霊場巡拝を理由に三度密入国を繰り返してはその都度追い払われてきた久□蔵という男が、再度高知県に入り込んで麦3升余りを盗んで売りさばいたり金1両3歩1朱を盗み取ったりしたため、杖打ち100回のうえ両腕に焼き印を入れて以後入国を禁じたとの内容である。また後者は、両親が病死し身寄りのなくなった喜□元□吉という男が遍路姿で効能のない丸薬を売ったため、懲役に科したという内容である。これらはともに、自らの犯罪のために遍路という習俗・信仰を利用したにすぎないが、結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになったと思われるのである。

 (イ)行政機関による対策

 明治3年(1870年)10月14日に、六十六部を禁止する太政官布告が出された。有力な回国巡礼である六十六部の禁止は、米銭などの施し物を乞う行為が禁止の理由として考えられ、その後の各地の巡礼対策に大きな影響を及ぼしたと推察される。続いて同月28日には普化宗(ふけしゅう)すなわち虚無僧(こむそう)が禁止され、明治5年11月9日には僧侶の托鉢(たくはつ)行為が禁止された。托鉢については、明治14年8月15日に制限付きでひとまず解除されるが(⑦)、近代国家をめざす日本の指導者層から見れば、袖乞いはもちろん托鉢についても物乞いをして歩く行為に変わりはなく、禁止すべき野蛮な行為とみなしたのである。こうした状況下で四国の行政当局は、遍路に対しどういう対策をとったのだろうか。
 まず高知県では、明治5年2月に、「遍路乞食体ノ者ハ所在村役人二於テ之ヲ国境ヨリ追放チ且ツ人民タルモノ総ヘテ右体ノ者へ施物等ヲナスモノアルヲ禁ズ」として、禁令を出した。
 すなわち第一点は、県内を徘徊(はいかい)する遍路・乞食体の者のうち印鑑を持たない者は、戸長以下が最も近い県境から県外に追放する、第二点は袖乞いをする者のために「窮民礼」を発行し、これを持たない者の物乞い行為を禁止するというのである(⑨)。ただ「窮民礼」とは、どこがどのようにして発行していたものなのかは不明である。
 また同じ年の秋、香川県では県当局から出された文章中に見える、托鉢・袖乞いに応じて施し物を与えた場合はその者の厄介に申し付けるという処置は、この当時各地でとられた方策らしく、京都府や埼玉県でも同様の事例を見出すことができる。明治5年6月の『広島新聞』6号には、埼玉県の農業某が食を乞うて来た者に施しをなし、かつ軒下に止宿せしめた廉(かど)によりその者を厄介として申し付けられたという事例が挙げられている(⑪)。
 明治6年4月及び11月、愛媛県からは二つの布達が出された。
 前者の布達では、家々の門に立って食を乞う行為は「野蠻(ばん)ノ弊風(へいふう)」、後生のためなどと考えて食物を与えるのは「姑息(こそく)ノ私情」であって「人民保護ノ障碍(しょうがい)タル事」と決めつけ、管内の区長・戸長に対し、その点、責任を持って人民に徹底することを求めている。もし遍路に食を与える者があれば、遍路を県外へ送り出す際の負担を申し付け、しかも与えた品物によっては厳しく取り調べを行うとして、布達を守らせようとした。
 しかし、その結果がかんばしくなかったのだろう。わずか7か月後には、後者の布達が出されている。それによると、一銭一飯といえども遍路物貰(もら)いに施しをする者に対しては、遍路を原籍に送り帰すための費用一切を負担させるのみならず、遍路が原籍のない放浪者であった場合は、その家に「附籍」を申しつけるというのである。前者のものに比べて文章全体にかなり強い調子が読み取れるし、その家の戸籍に入れさせるというのは、香川県の例に見られた「厄介」よりも厳しい措置である。
 同様の主旨の布達は、翌明治7年(1874年)3月12日にも出され(⑭)、さらに同年12月24日付の第166号布達でも「乞食物貰ノ儀二付善転々以来毎々相達候次第有之、猶又昨六年四月布達ノ趣モ有之候處自然等閑二相成此節往々徘徊致哉二相聞以ノ外ノ事二侯(⑮)」と述べて、去年の4月に布達を出しているにもかかわらず、早くも遍路を称する物貰いが徘徊していることを指摘、よそから来る遍路を追い払うことの必要性と施しを行う者への処罰を重ねて強調している。
 このように、何度も同じ主旨の布達が出されたこと自体、遍路に対して施しを続ける者が極めて多かったことを物語っている。布達の効果は一時的で、なかなか行政当局の意図通りにはならなかったようである。

 (ウ)民間による遍路排斥の動き

 以上見てきたように、四国各県の行政機関が強硬な遍路対策を取ったにもかかわらず、多くの人々によって遍路に対する施しは続けられてきた。しかし一方で、『近世土佐遍路資料』に見られたような盗みを行う遍路、ニセの丸薬を売りつける遍路などは地元民の眉をひそめさせたであろうし、結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになった。地方行政当局が遍路に対して強硬な政策をとった背景には、未知の人物が村に入り込むことによる治安悪化を恐れる地元民衆からの、一定の支持があったと考えられるのである。
 明治9年(1876年)、高知県日高村の植田直倍によって、大小区公撰民会に提出すべく一つの議案が作成された。その議案ではまず、「辺路物乞イ風体ノ者八時態二不都合ノ所業」とし、さらに「遍路風体の者たちもいったんは御布告(明治5年の禁令か?)で姿を消したが、また近ごろ各地にあらわれ始めている。彼らは村はずれの川原や堂社にたむろして、昼間は家々をまわって米や金を乞うては、ついでに家の中をうかがい、病人でもあれば占いや祈禱(きとう)などでとりいろうとする。また夜になると畑の作物を盗もうとする泥棒同様の者も少なくない。今後この五小区内ではそのような者たちをいっさい近づけないようにすれば、やがて自然と立ち退くだろう。」という意味のことを述べたうえで、最後に「禍ヲ招カサル先キニ安寧取締ノ覚悟肝要タルヘキ衆議希望シ候也」と結んでいる(⑯)。これなどは明らかに、農村共同体における治安の維持を求めた村民の側からの遍路排斥の動きである。
 続いて、愛媛県県(あがた)村(現今治市)における決議と愛媛県宮之内村(現東予市)の規約を取り上げる。
 県村の資料については正確な年代が不明だが、一連の資料とさほど変わらない時期のものではないかと思われる。これらはいずれも、行政当局の意を受けた村落共同体の指導者が主導した可能性が考えられるが、一方では、多くの村民からの同意を経たものと推測される。
 内容については、両資料とも「遍路乞食」にお金や食物を与えないように申し合わせたものだが、ともに遍路に対する警察の介入を積極的に求めている点が注目される。特に県村では、施しを行ったり宿泊させたりした者に対して、隣近所の者がその責任を問うて警察に引き出すとしたところが、また宮之内村では、違反者が弁償としての費用を出せない場合は力仕事を課すとしたところが特徴的である。なお、これらの決議や規約がどこまで厳密に守られたかについては不明である。

 イ 新聞紙上に見る遍路排斥論

 (ア)『土陽新聞』における遍路排斥論

 明治10年代半ばを過ぎると、維新の混乱が収まるとともに猛威を振るった廃仏毀釈の嵐も過ぎ去り、徐々に遍路が増えていった。しかし先にもあげたように、遍路の増加は、地域によっては大きな問題となっていったと予想される。そのことを端的に示しているのが、明治19年(1886年)5月9日・11日・12日の3日間にわたって高知県の『土陽新聞』に連載された「遍路拒斥すべし乞丐(きっかい)逐攘すべし」と題する、遍路を拒絶・排斥し物乞いを追い払うことを強く求めた長文の論説である。以下、高知県立図書館所蔵の『土陽新聞』と平尾道雄氏の『近世社会史考』を引用、参考にして、この論説について整理してみたい(⑲)。
 さてその内容だが、まず冒頭で「遍路乞丐拒攘論を持出さんと欲するの場合に切迫したるなり。」と述べてこの問題が緊急を要するものであることを訴え、「扨(さ)て此の遍路には相席に旅金をも携へ身成も一通整へて來るもあれども其れにしても真に祈願の為めに来るは少く。つまらぬ事にて來るもの多きことなり。其の大半は旅金も携へず穢き身成にて朝より晩まで他人の家に食を乞ふて廻り。巡拝も祈願も何んの其の主(もっぱ)ら事とするは四方八方を食ひめぐるに在り。」と、遍路の大半が、祈願のために高知県に来たのではなく、実質的には物乞いであるとする筆者の認識が述べられる。
 続いて遍路がやって来ることの弊害を3点挙げる。まず、「第一に甚だ危険なるは悪病の蔓延を媒介すること是なり。殊にコレラ病の如きは尤(もっと)も不潔に取り付き易き先生にして遍路の如き者が續々他縣より侵入し來るときは之れを蔓延せしむること必然の勢なり。」次に、「他人の家に食を乞ひ得る所不十分にして糊口に難渋するに至っては變(へん)じて強盗となり偸児(とうじ)と為り極めて凶悪の行を為す者あり。(中略)是れ第二の大害也。」さらに、「老体の者や幼弱の者は或は食に索(つ)きて餓死するもあるべく。或は病に罹りて贏死(るいし)するもあるべく。寒中に於ては凍死する者も間々之れあり。概して行き倒れと云ふ者が多く有ることなり。ソシテ其の行き倒れがあれば必ず戸長場の厄介と為るなり。戸長場の厄介は即ち人民の迷惑なり損害なり。是れ第三の大害なり。」と述べる。要するに、第一に伝染病の媒介、第二に強盗などの発生、第三に行き倒れの処置の問題をあげ、これらの点において他県からやって来る遍路が大きな社会不安の根源になるというのである。
 それでは、どういう対策をとればよいのか。筆者は次の4点を挙げる。「第一には縣下各町村津々浦々に至るまでいづれも其の町、村、津、浦、の申合せを為し彼の遍路乞丐に対しては一切何物をも恵与せざることと致し。又其の町村津浦の國道とか縣道とかに當たる處丈(だ)きを除き其他へは遍路乞丐は一切立入らしめざること」にする。遍路がやって来ても、食を乞う所も身を置く所もないような状態にし、これを2・3年続ければやがて来なくなるだろうと期待するのである。第二には、県境付近の巡査に命じて他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて先の事情を告げ、「公然の道路を往来するは人の自由なれば敢て威権を以つて汝等を遮るにはあらざれども迂闊に往くなれば却つて困るやうになるだらうから成る可くならば往かないが宜しからふ」と説得するのである。ただ、四国全土にまたがって往来する遍路を取り締まるためには他県との協議も必要で、「近來近縣同士の警部長の會議と云ふ如きことが折々あるやうに承聞せり。此の警部長の會議などにて協議を為せば随分話が圓(まと)まらぬと云ふことも無かるべし。是れ第三の方法なり。」さらに、四国内にとどまらず「第四には日本の大政府より一ツの法律を作り凡そ遍路なり何なり卒(とつ)然他人の門内に侵入して食物其他の物品を乞ふことを制止せられんことを欲する也。」以上4点を解決策として主張するのである。
 そして最後に、「今の遍路乞丐の如きは宜しく拒斥すべし逐攘すべし。由し彼等に於て益々土佐の國を鬼國などと評すれば評するに任かすべし。遍路輩に物を与へざるが為めに鬼の名を受くるが如きは我が土佐の國の一向頓着せざる所なり。」と、再び断固たる口調で遍路の排斥を繰り返すのである。

 (イ)近代社会と遍路排斥

 それでは、この論説が載った『土陽新聞』とは、そもそもどういう新聞なのか。当時、自由民権運動を推進した政社として高知の立志社は有名であるが、その出版部門から『海南雑誌』と『土陽雑誌』という啓蒙雑誌が出されていた。この2誌を統合して明治10年(1877年)から新たに発行されたのが『土陽新聞』である。民権思想を盛り込んだ刊行物としての水準は高く、高知の人々の政治的自覚を促す上で大きな役割を果たした(⑳)。問題の論説は、4面から構成される紙面の第1面下段に出ており、筆者がかなり力を入れて書いた文章であることをうかがわせる。無署名のため筆者不明だが、『土陽新聞』の主筆として専ら筆を執っていたのは、『東洋大日本国国憲按』の起草で知られる民権家植木枝盛(1857年~1892年)であり、この論説についても彼の可能性が考えられるという(㉑)。
 自由民権運動の中核をなした新聞だけに、この論説においても筆者は、貧民が多数発生するような当時の社会自体の問題についても言及してはいる。しかし一方、施しを乞うて生活する遍路について、「強壮にして働きを為せば出来る者が食を乞うて来たからと云って恵与するが如きは決して宜しからざることなり。又初めより他人を的にして食を乞ふて廻るが如き者をば之れに何も与へざれば止めるやうに為るべけれども与ふるときは何時迄も他人を的にして乞食を止めず。」と述べて、遍路の大半は怠惰から働かない者だという見解を示している。筆者の排斥論には、「働こうとしない」人々に対する嫌悪感が根底にあり、そしてそれは、日本の近代化を指導した知識人階級一般に共通する意識ではなかったのかと想像される。
 食を乞いつつ旅を続けた人々について、真野俊和氏は次のように述べている。「私たちの文化のなかで、かつて乞食とは単なる貧民のことではなかった。(中略)定住農民の対極にあって独自の文化の創造者でもあった。その意味で彼らの存在はまさに文化英雄の名にふさわしい。(㉒)」しかし、遍路であれその他の巡礼であれ、あるいは旅芸人・渡り職人であれ、旅の中で食を乞う流民たちは、近代社会の中ではもはや厄介者にすぎない存在になりつつあった。論説掲載のちょうど1か月前、4月9日の『朝野新聞』は、「浪遊者処分法」を制定して乞食を北海道に送りこんで土地開墾に従事させようとの案が検討中であると報じている(㉓)。これを先の論説と考え合わせた時、こういった人々を近代国家建設のための浮遊労働力とのみ位置づけようとする、近代的論理に貫かれた為政者の姿勢を見ることができるのである。

 ウ 遍路に対する取り締まりの実行

 (ア)取り締まりの開始

 話を『土陽新聞』の論説に戻そう。この提言に対してどのような反応があったのか。それについては、5月22日『土陽新聞』雑報の欄に、「遍路拒斥すべし乞丐逐攘すべしとは本社の痛論する處なるが、聴く所によれば我高知警察署に於ても、今度各警察署及び交番所の巡査に命じ、乞丐の徒は見當り次第一々之を所轄警察署に連れ來り一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は土日留置き、其の集るを待て本籍へ追ひ返すことにせられしとか、誠に斯くの如くなれは、今後縣下に此奴等の跡を絶つに至ることにて頗ふる結構なる次第也(㉔)」という記事が見え、論説掲載後1か月もしないうちに警察が積極的に動き出したことを伝えている。続いて5月26日には、「本県警察署にて遍路乞食の徒は残らす本籍へ向け追ひ返さるることになりし由、前号の紙上に記載せし、彌々昨日より之を實行あることとなりて、現に高知警察署乃一手にて同日東西へ護送せられし分二百餘名にも及ひしと云ふ(㉕)」と報じており、これが事実だとすれば、論説中において主張された対策よりもかなり厳しい措置がとられたことになる。おりしも京都・東京では、明治18年(1885年)からこの明治19年にかけて虚無僧の取り締まりが行われていた。
 この方針はその後も継続されたらしく、明治23年5月27日の『土陽新聞』では、「客月廿(にじゅう)日より三十日迄県下各警察署并に分署に於て取扱ひたる遍路乞食放還者にして県内市町村役場へ交付し若しくは国境より放還したる人員は合計二百七十三人(㉖)」と伝え、さらにその10年余り後の明治34年3月21日の『土陽新聞』でも、「本年二月一日より十日迄各警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数三百八十一人(㉗)」と報じている。その数の多さについて新城常三氏は、明治の歴史の暗い断面を覗(のぞ)かせるものだとして、「これを仮に、高知県内の当時の乞食遍路の総数に近いものとし、また四国の平均値と仮定すれば、四国全土で1,100名ないし1,500名以上となる。(㉘)」と推測している。
 ただ、永久に高知県から遍路物乞いを一掃するという当初の目的から見た場合、こういう一時的な取り締まりを繰り返すことで本当に効果があったのかは疑問である。明治34年(1901年)2月20日の『土陽新聞』には、「是迄市外柳原のほとりに露を敷寝の草枕で敢果(はか)なき夢を結び居たる遍路乞食は其数五六名なりしが此の程に至り滅多に頭数が殖えたるにより昨日或物好きが数へ見たるに正しく三十一人ありたりと、警察署にて遍路狩りを執行し日数も未だ経(た)たざるに斯く多人数となったるは抑も何ゆゑにや(㉙)」と、遍路狩りを行ってまだ間もないにもかかわらず、高知市郊外の柳原に集まる遍路の数が5・6名から31名に増加したのはどうしたことかという疑問を呈する記事が載っている。さらに同年12月24日の記事には、「愛知県丹羽郡岩倉町酒井鍬吉といふは四国辺路となりて合力を乞ひながら歩き廻る中県下長岡郡某村駐在巡査の遍路狩りの獲物となりし処此奴遍路の僻に仲々理屈をこねる奴にて阿方(あなた)は何故に私の旅行を妨げますか旅行は私の自由で御坐りますと云張り後免警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により種々申聞たるも聴かす出高の上検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でたり(㉚)」とあり、遍路の対応によっては警察も手を焼いている様子を伝えている。これらは、必ずしも遍路取り締まりの効果があがっているとはいえないことをうかがい知ることのできる事例である。

 (イ)取り締まりの継続

 ではその後、遍路に対する取り締まりはどう展開していったのか。明治40年(1907年)に遍路を行った小林雨峯の遍路記には、「遍路入るべからずなぞの札のありし土佐の地方を見しこともある。遍路狩なぞの行はるゝ方面では、遍路は乞食と同様の観を以て目されたる(㉛)」というくだりが出てくる。また、大正7年(1918年)に遍路を行った高群逸枝は『娘巡礼記』の中に、幾つか遍路の取り締まりに関連する話を記している。
 彼女と同行の伊東老人が、高知県の三十九番延光寺の経営する木賃宿に、同宿6人で滞在することになった。「彼等の云ふ所では、遍路する者は幾らお金持ちでも日に七軒以上修業しなければ、信心家とは云へないさうな。而も其の事は法律上からは禁ぜられて有る(㉜)」四国を十何回巡ったという愛知の人が、次のように語る。「それは、出雲へ参拝の途であつた。ふと或る家で修業してゐると、巡査に見付かつて逃げるに逃げられず遂に捕まって了ひ、暫らく警察署に留置され□から、或る処に護送され、一週間馬鹿馬鹿しい目にあわされた事が有つたことだ。又宿毛でも同じ目に合ひ伊予境まで追ひやられた事も□る。そこで信心と法律とは矛盾してる形だから変だ。つまり四国遍路のお修業は公然の秘密になつてゐる。(㉝)」ここでいうお修業とは、托鉢のことである。
 徳島県では、二十番鶴林寺の山を下りた(写真2-1-10)二人が村の人に宿を尋ねると善根宿を行っている農家を紹介してくれるのだが、そこの親切そうなお爺さんは、「此頃警察が八釜しくなりまして善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められますからお気の毒だが納屋でよろしいか。」と、声を低めて言うのである(㉞)。
 遍路旅の終わり、九州に渡るために愛媛県八幡浜の木賃宿に滞在中に、二人は実際に「遍路狩り」に遭遇することになる。その時の様子も、高群は次のように詳細に記録している。

   暫らく噪(さわ)いでゐるうちに階下で警官の声がする。
   「老人と娘?然うか。一寸来いと云って呉れ」
   遂々(とうとう)(二階から)下へよび出され見ると二人の巡査さんで有る。一人は上り口に腰掛け一人は土間に立つてゐ
   られる。
   「ナニ此の娘?此りやお前の孫か。原籍氏名を述べろ」
   まるで罪人扱ひだ。
      (中略)
   「娘、お前は何の為め出て来た」
   大喝(だいかつ)が私の方にまはつて来た。
   「心願が御座いまして」
   「名は?も一度云って見ろ」
   「逸枝と申します」
   二人はジロジロ私を見てゐたが暫くすると、
   「コラ、遍路。お前達は何か。矢つ張り遍路姿か」此度はお爺さんに切尖(きっさき)が向く。
   「えゝ、お大師さまに詣るのだから遍路姿でなくちや仕方ありません」
   「馬鹿、遍路と云ったが何うした。貴様腹を立てたんか。幾ら身分は有つても遍路ぢや」
   「オイ詰まらない。行かう」
   二人はサツサと出て行って了つた。私も其座二階に引返した。
   何だか滑稽なやうな。でも彼(あ)れが警官の職責かなぞ思つて、微笑んでゐると、お爺さんはプンプン憤(おこ)つて上
   つて来られる。
   「人を罪人だと思ってやがるが何だあの横柄な態度は」
      (中略)
   「けふは遍路狩だつせ。何人も警察ひかれたや云ひまつせ」
   浮かれ節屋さんが帰って来て、一同に告げ知らせる。其晩は、道理で盲女の遍路さん遂々捕つて留置場へひかれたと云ふ
   事が分つた。捕つたが最後国境まで護送されて追つ払ひとなるのだと皆が話してゐる(㊱)。

 高群たちと二人の警官とのやりとりは全く話がかみ合っていないが、遍路取り締まりの生々しい様子をうかがい知ることはできる。これは10月23日の出来事だが、当時7月から9月にかけて全国各地で米騒動が勃発、続いて寺内正毅内閣の崩壊が起こっている。愛媛県下でも、8月14日夜の郡中町(現伊予市)の騒動を最初として何件かの暴動があり、八幡浜でも小さな騒擾(そうじょう)が起こった(㊲)。この時期、警察としても治安維持にかなり神経を遣っていたと想像される。
 以後の遍路記からは、実際に取り締まりに遭遇したという記述は見られなくなる。遍路の取り締まりが、結局いつまで続いたかは不明である。しかし、地方行政機関による一連の政策が明治前期における遍路停滞の一つの大きな原因となり、なおかつその政策が、ある程度、後の時代まで継続的に行われた点については疑いない。

<注>
①広江清編『近世土佐遍路資料』P10 1966
②前出注① P11
③前出注① P12
④高知県編『高知県史 民俗資料篇』 P1154 1978
⑤前出注① P9
⑥前出注① P12~13
⑦真野俊和『旅のなかの宗教』P228~229 1980
⑧前出注① P75
⑨前出注⑦ P222
⑩前出注⑦ P222~223
⑪前出注⑦ P223
⑫(愛媛縣第一課編『明治六年愛媛縣布達全書 全』 P35~36 1878)及び(松山東雲短期大学における森正康氏の講義用資料プリント)による。
⑬前出注⑫『布達全書』についてはP28
⑭(愛媛縣第一課編『明治七年愛媛縣布達全書 上』 P13 1878)及び(松山東雲短期大学における森正康氏の講義用資料プリント)による。
⑮(愛媛縣第一課編『明治七年愛媛縣布達全書 下』 P189 1878)及び(松山東雲短期大学における森正康氏の講義用資料プリント)による。
⑯(前出注④ P1154)及び(前出注⑦ P219)による。
⑰前出注⑦ P221
⑱松山東雲短期大学における森正康氏の講義用資料プリント
⑲平尾道雄『近世社会史考』P304~310 1962
⑳山本和加子『四国遍路の民衆史』 P207 1995
㉑前出注⑳ P207~208 ただしこの本においては、『土陽新聞』の論説を明治10年(1877)ないし11年のものと想定したうえで、筆者を植木枝盛だと推測している。
 (平尾道雄『近世社会史考』 P309 1962)も参照した。
㉒前出注⑦ P230
㉓前出注⑦ P230
㉔(前出注⑲ P309)及び(『土陽新聞』明治19年(1886)5月22日付)による。
㉕(前出注⑲ P309~310)及び(『土陽新聞』明治19年(1886)5月26日付)による。
㉖前出注① P20
㉗前出注① P20~21
㉘新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P1066 1982
㉙前出注① P21
㉚前出注① P21
㉛小林雨峯『四国順禮』P153 1932
㉜高群逸枝『娘巡礼記』P100~101 1979
㉝前出注㉜ P101
㉞前出注㉜ P180~181
㉟八幡浜市誌編纂室編『八幡浜市誌』口絵写真 1987
㊱前出注㉜ P217~220
㊲愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近代下』P248~257 1988

写真2-1-10 鶴林寺山麓の風景

写真2-1-10 鶴林寺山麓の風景

鶴林寺の山から、北山麓の生名地区を見る。平成12年11月撮影