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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

2 遍路の盛行-明治・大正から昭和へ-

 四国遍路は、明治前期の停滞の時期を経て、明治10年代半ばころから徐々に回復に向かったと推測される。前田卓氏はその点について、「明治二十五年頃の遍路の数について、立江寺の前官の話によると三月から五月までの間に非常に遍路が多く、時には日に五百人ほどの遍路があったと言う。道隆寺の住職の話によると、納経料が一人二銭であった大正時代に、遍路の数が多い日には、一日の納経料の収入が二十円ほどあったと言う。すなわち一日千人近い遍路が出たことになる。(①)」と述べている。1日に1,000人というのは、1年の中でも讃岐七ヶ寺参りのごく限られた時期のことであろうが、それにしても明治中期以降、再び四国遍路が盛んになりつつあることをうかがわせる記述である。
 この傾向は昭和の時代に入っても、太平洋戦争に至るまで続いた。残念ながら、具体的にどれだけの人数が遍路として四国を往来したかについての正確な統計は存在しないが、遍路の盛行を示す次のような人々の証言を挙げておきたい。
 まず相原熊太郎は、昭和2年(1927年)に、「お寺を巡つている遍路は一年中絶へず、冬の寒い時でも一日に十人や廿(にじゅう)人巡らぬ日とてありませんが、特に多いのは春であります、春の日永に且つ農家の手のすいて居る時に、多くの人が巡るのであります、最も澤山廻る時には一日に五百も七百も通ります、尤も斯様(かよう)な日は春の内十日位しか續きませんが、其の前後にも澤山お参りするのであります、一日に五百人位か、ナンダそれ位のものかとお聞きになる方があるかも知れませんが、月日もかゝり困難も伴ふので百人と云ふても非常に澤山の人と云はねばなりません。況んや三百四百五百となると大したものです。(②)」と語った。また橋本徹馬は、昭和16年(1941年)の遍路行において、「この近年の四国遍路者の数は一年平均約五万人くらいだという(③)」と書き残している。
 さてこの時代、明治から太平洋戦争にかけての日本は、欧米列強に追いつくことを目標にひたすら近代化に邁進(まいしん)した。やがて、近代化の波は遅ればせながら四国に及び、遍路にも大きな影響を与えていくことになる。例えば、明治になって女人禁制の札所がなくなったのも、近代化の第一歩といえるかもしれない。かつては二十四番最御崎寺・二十六番金剛頂寺などはよく知られた女人禁制の聖地で、女性がこれらの寺院に詣(もう)でる場合は、代わりに女人堂に参ってそこで納経を行うことになっていたが、明治5年(1872)の女人禁制を解く太政官布告をきっかけに女性の入山が認められていったのである(④)。
 ここではまず、遍路が社会の近代化によりどういう影響を受け、その形態をどう変化させていったのかを見ていく。近代化の進展は同時に社会の大衆化をもたらしたが、遍路の大衆化の面についても触れたい。さらに、この時代、病気治癒の切なる願いをこめて遍路に出た人々や成人の通過儀礼として遍路を行った人々など、盛んに四国を往来した様々な遍路について探り、その姿を浮かび上がらせていきたい。