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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)近代化の進展と遍路①

 ア 遍路形態の移り変わり

 (ア)交通機関の発達と遍路

   a.道路交通

 明治以降の近代化を象徴するものの一つに、交通手段の発達がある。四国においても徐々に道路の整備が行われ、香川県丸亀港・多度津港を起点として、琴平・徳島県池田・高知・愛媛県久万などを通過し松山に至る「四国新道」が明治27年(1894年)に全通した(⑤)。愛媛県を例にとると、明治12年(1879年)に岡山県下津井から香川県丸亀を経て川之江・松山に至る国道が設定され、さらに明治末年には国道が2路線、県道が23路線となった(⑥)。これらは従来から遍路道として利用されてきた路線が多く、国道については、「道路概ね坦々として車馬を通ずるに便なり(⑦)」という状態であった。こうした道路網の整備に伴い、新しい交通手段による遍路形態の変化が徐々に現れてくるのである。
 交通手段の発達について星野英紀氏は、「日本は近代化の主要交通手段として自動車ではなく鉄道を選択した。しかし、四国の例でも分かるように、鉄道は町から町へ、村から村へと、すべての市町村を漏らさず連携する交通手段ではない。(中略)当然、より簡便な他の交通手段が、鉄道網の行き届かないところを埋め合わせる補助的交通手段として採用された。それは、明治初期に発明された人力車であったし乗合馬車であった。しかしそれらは次第に、自動車および自動車を改造した乗合自動車(いわゆるバス)にとって代わられていく。(⑧)」とし、「明治期後半期から大正期にかけては大都市部よりの鉄道の発達、自動車利用の普及が次第に四国にも波及し、そのことが伝統的な四国遍路にも徐々に影響を与えてきたのである。(⑨)」と述べている。
 この星野氏の見解に沿って、交通の発達と遍路のかかわりを見ていく。明治の交通手段としてまず挙げなければならないのは、人力車と乗合馬車である。しかし長い距離を行く遍路には、高価で短距離輸送に適した人力車は使いにくい乗り物であり、むしろよく利用されたのは乗合馬車の方だった。乗合馬車については、例えば、生涯に280回の遍路を行ったという中務(中司)茂兵衛の明治42年(1909年)正月から明治44年正月までの日記を見ると、「二十五銭馬車」、「五十銭馬車代」というふうに、たびたびその記述が出てくる(⑪)。乗合馬車は、自動車の登場後も細々と使われたらしく、昭和7年(1932年)に遍路行をした宮尾しげをの遍路記にも、愛媛県の深浦港(城辺町)で地元の人に馬車を勧められ、四十番観自在寺まで乗って行ったという記述がある(⑫)。
 自動車は、愛媛県内では明治44年に12人乗りの乗合自動車を松山・堀江間に走らせたのがその始めらしく、続いて大正時代には次々と県内各地に中小の自動車会社が設立されることになった。輸入した大型乗用車の座席を改造して、6人乗りや12人乗りにして運行するのである(⑬)。乗車賃は決して安くはないが、自動車の登場は一部の裕福な遍路たちにとっては朗報であったに違いない。
 最も厳しい遍路道の一つとして十一番藤井寺から十二番焼山寺への山道が有名だが、乗合自動車の登場後は、かなり事情が変わってきた。昭和3年(1928年)に遍路した島浪男は、この昔からの遍路道を通らず、藤井寺に参った後、いったん徳島に出ている。「徳島から自動車を利用すれば、朝の七時發の一番で寄井まで八里、十時半に着き、そこから寺まで山路二里を徒歩で往復して、午後三時寄井發の自動車で徳島に歸ることが出来る。私達はこの道をとつた。徳島から寄井までの間は自動車道としてはかなり瞼呑な道だ。(中略)道は縈廻(ねいかい)又縈廻、辛うじてすれちがひの出来る位の幅員しか持つてゐないのでひやひやするやうなところもある。(⑮)」と書き残している。8里を7時から10時半までかけて走るということは、1里を約4kmと考えると、計算上時速10kmを下回るスピードであるが、山道かつ悪路であることを考え合わせると、それでも当時としては画期的なことであったろう(写真2-1-14)。
 自動車会社はハイヤー業も兼ねていたところが多く、ハイヤーを利用する遍路もあった。島たちがある停留所に駆けつけてみると、乗合自動車は2時間おきでしかも今出たばかりということが分かり、結局同行者4人でハイヤーを雇うことにしたという記述が出てくるが(⑯)、たしかに何人かで割り勘にすれば大きな負担にならず、相乗りの形でのハイヤー需要もある程度はあったと思われる。
 昭和9年(1934年)発行の『四國靈蹟寫眞大觀』に、徳島県の阿南自動車協会の宣伝広告が載っている。それによると、大阪からの汽船が小松島港に到着する午前5時20分から再び大阪へ出航する午後10時の間に、「青バス」に乗って一番霊山寺から十番切幡寺を参詣し、なおかつ徳島市内を見物する「御遊覧コース」というのが設定されており、料金は、14人乗り1台の借り上げ賃として35円、1人当たりだと2円50銭となっている(⑰)。大工の平均手間賃が1日約2円、労働者の日当(にっとう)の平均が1日1円31銭の時代である(⑱)。この遊覧料金はそう高いものとは思えない。そこそこの利用者はあったのではないか。なおこの会社では、四国霊場を自動車で参拝すれば10日以内に楽々と出来るとして、14人1組の四国1週コースも募集している。料金は書かれていないが、かなり高価な旅のようであり、しかも10日という日数は今日の巡拝バスより若干短く、実際に運行したかどうかは疑問である。ただ、すでに戦前から、バス会社によって現在とよく似た遍路形態が発案・企画されていた点は興味深い。
 ともあれ当時の乗合自動車は、やはり現在とは異なってのどかなものであった。大日寺前の停留所に向かう乗合自動車の中の様子を、宮尾しげをは次のように書き留めている。「自動車はすでに満員、途中で婦人が乗りこんできた。ドアを開けて『一寸まつておくれ、お小用してきますから。』暢氣なもの、その間自動車は待つてゐる。小角と云ふ所で、太った女遍路が自動車を止めた。『あんじょう、よくして、じわじわお乗んなさい』と助手臺へ乗せる。この女遍路『孫が胃で倒れましたが、今度は乳をのむ様になつたのでお禮に來ました、本當に有難い事でござります。弘法様のお陰でござります。御詠歌を上げさせて頂きます。私のは金剛流でございますが、よろしいでせうか。』それから後は、いろいろと一人萬才の如くしやべるので、乗客一同相當に悩まされる。頭がふらふらになった時、十三番大栗山大日寺の前へ車はとまる。(⑲)」
 島浪男が、八十七番長尾寺から八十八番大窪寺へ他の遍路と語らってハイヤーでとばした時のこと。運転手が聞いてくる。「『お遍路さん、向ふにお接待が出てゐますが停めますか?』把手(はんどる)を握つて前方を見つめたまゝ、運轉手はかう言って車内にはかるのであつた。『さうだ。停めて貰はうー』の聲で、尻を浮かせ加減に運轉手の背の矮い身體が反つたのは、舊式(きゅうしき)の車輛のブレーキ・ペダルをグツと踏んだのらしい。キヽ-と金属の擦れ合う音がして車が停まる。と、『お遍路さん、接待受けて下さい-。』手製らしい眞黒な饅頭や精進揚げの手が幌(ほろ)の間から差出される。(⑳)」こうして島たちは、車上で接待を受けることになったのである。

   b.橋と渡し

 道路の整備が着実に進む一方で、四国の架橋事業は比較的遅れていたようで、橋のない大河にどの遍路も不便を強いられた。渡河に苦労した様子が、戦前までの様々な遍路記の中に記録されている。
 十番切幡寺から十一番藤井寺に向かう遍路道は必ず吉野川を南北に横断することになるが、ここには橋がないため渡し船が往来していた。中でも代表的なのは、吉野川中州の善入寺島と南対岸の鴨島町をつなぐ粟島の渡しである(写真2-1-15)。自動車遍路を好む島浪男も、ここではさすがに渡し船に乗らざるを得なかった。「吉野川には橋がない。自動車は兩方から水際まで來て、渡船によつてお互の乗客を交換する。風の強い日などは渡船に二十分位かゝる事もあるさうだが、この日は五分位で渡る事が出來た。(㉑)」
 ようやく昭和5年(1930年)になって、ここに八幡橋と呼ばれる木橋が完成した。昭和7年(1932年)に同行者の遍路僧とここにやってきた宮尾しげをは、「橋の袂に橋番の小屋がある。遍路僧は小屋に向かつて『お接待ねがひます』と云ふ。いゝかへれば、無料で渡してくれろと云ふのである。すると小屋の中から、『橋銭は誰でも貰ひますよ、わしが取るのぢやない、こゝの役場が取るのぢや、払はつしやい。(㉒)』」と、有無を言わさず通行料を支払わされたことを記している。遍路にはお接待として無料券を配布したこともあったようだが、基本的にはすべての人から通行料を徴収して、橋の維持管理費としていたようである。多くの遍路からすれば、料金を多少徴収されたとしても川止めよりはましであったろう。もっともこの橋は、その後洪水のたびに破損・流失を繰り返し、昭和16年(1941年)には再び渡し船に戻ってしまった(㉓)。
 翌昭和17年3月の粟島の渡しでは、切幡寺参拝から帰る人々を乗せた渡し船が転覆、5人の死者を出す惨事が起こった(㉔)。その後、昭和28年に下流に阿波中央橋(写真2-1-16)が架かり、さらに昭和37年(1962年)、上流に川島潜水橋が完成したことにより、ようやく遍路たちは吉野川渡河の苦労から解放されることになったのである(㉕)。
 徳島県では、それ以外にも二十番鶴林寺と二十一番太龍寺の間にある那賀川の渡しが有名である。大正7年(1918年)に遍路した高群逸枝は、雨が激しく降る中ここに到着し、その時の地元の人とのやりとりを記している。「那賀川は此水ではとても船が出まい此間の暴風雨では川沿ひの一部落は全部川原となつて了ひ人畜の死傷百を越えたと云はれる位出水の烈しい川だから、と云ふので有る。四国は川がうるさくて困る。まるで昔の旅行同然で有る。(㉖)」宮尾もまた、那賀川の渡しで川止めになって困惑している。この時は宮尾と船頭が交渉して、普段は5銭で渡すところを2円50銭で一船借り切って対岸に渡してもらうことにした。彼は、どうせ一船借り切ったので何人乗ろうと同じだと思い、船を接待しますと遍路たちに呼びかけるのだが、やはり危険だからか、呼びかけに応じたのは一人だけだった。どうやら無事に対岸に着くと、先程まで向こう岸の木賃宿の窓から不安げに見ていた連中が、今度は羨(うらや)ましげに見ていたそうである(㉗)。また橋本徹馬は、十四番常楽寺に行く途中で鮎喰川(吉野川支流)の川止めに出くわし、「昔の大井川ではあるまいし、今此昭和十六年にもなって川止めの厄に遭ふなど、全然思ひ設けぬ事であったので、馬鹿々々しいこと限りがない。(㉘)」と怒っている。
 徳島県以外でも事情は大体同じであって、例えば高知県の四万十川についても宮尾の遍路記の中に、「中村では、小さな町のこととて宿を出立する時には乗合自動車が玄関前まで迎えに来てくれる。川のふちで乗換え。渡しで対岸に着くと、別の自動車が待っている。(㉙)」といった記述を見出すことができる。

写真2-1-14 十二番焼山寺への山道

写真2-1-14 十二番焼山寺への山道

右は遍路道、左は舗装された自動車道。平成12年11月撮影

写真2-1-15 粟島の渡し跡付近

写真2-1-15 粟島の渡し跡付近

鴨島町側から上流部を見る。右側の森は善入寺島。平成12年11月撮影

写真2-1-16 阿波中央橋

写真2-1-16 阿波中央橋

鴨島町側から。平成12年11月撮影