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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)様々な遍路たち①

 ア 通過儀礼としての遍路

 ここでは、大人の仲間入りをするための通過儀礼として、若者遍路・娘遍路など、遍路を行う青年たちの姿を取り上げる。その風習の発生の時期は定かではないが、かつて愛媛県や広島県の島嶼(しょ)部を中心にいくつかの地域で見られた。

 (ア)若者遍路の風習

 古来より、子供から大人への仲間入りの通過儀礼として、成年式(成人式)や成女式といったものが、男子は15歳ころ、女子は13歳ころに行われてきた。これらは、男子の場合では、元服・烏帽子(えぼし)祝い・褌(ふんどし)祝い・ヒタイトリ(額取り)、女子の場合では、ユモジ祝い・鉄漿(かね)祝いなど、地方により様々な名称で呼ばれていた。また、こうした儀式的なもの以外にも、霊山登拝や伊勢参り等、体験的なものが見られる。四国地方では、石鎚登山や四国遍路などが、若者組への加入の前に行われ、一種の成年式のようになっていたようである。
 前田卓氏は『巡礼の社会学』の中で、「昔時、いかに若い者たちが数多く遍路に出たかということを端的に示すものに、各霊場にある大師堂の床板の『くぼみ』があげられる。すなわち、元気に溢れた若者たちは、大師堂で般若心経をあげながら、金剛杖を力いっぱい床にふみならすので、板が大きくくぼんでしまうのである(①)」と述べているように、昭和15・6年(1940・41年)以前までに、若者たちは数多く遍路に出ていたようだ。現在、この若者遍路は、その習慣が全く見られなくなってしまったが、以下その実態について、地域別に整理を行った。

   a.愛媛県内の分布

 大正年間に愛媛県で若者遍路が行われていた地域は、『愛媛県民俗地図(②)』によると、東予地域は今治市(宅間地区)や菊間町(高田地区)、中予地域には北条市(浅海本谷・上難波・別府・院内地区)、松山市(由良・高浜・東大栗地区)、中島町(睦月地区)、重信町(上村地区)、松前町(東古泉・大間地区)、砥部町(万年地区)、久万町(東明神地区)、小田町(上川地区)、南予地域では瀬戸町(塩成地区)、伊方町(奥地区)、宇和町(田野中地区)、吉田町(奥浦・惣代地区)で、おもに松山市を中心とする中予周辺と南予の一部に若者遍路の風習が存在していたようである(図表2-1-7)。
 また、若者遍路の形態や意義については、「遍路を経験した先輩に引率されて巡拝の旅に出ることもあれば、久万町東明神のように青年団・処女会が集団で観光旅行を兼ねて巡拝するところもあった。いずれにしても遍路を終えた若者は、結婚の資格を得たとして、良い縁談がよせられたり(吉田町惣代)、これを機会に男子は丁稚(でっち)奉公、女子は女中奉公のため町へ出た(瀬戸町塩成(③))。」というように、各地域で様々である。
 この風習の起源は不明である。そして、その消滅は、地域によって異なり明治期で消滅した所、大正期で消滅した所、昭和17・8年ころまで存続した所など様々であるが、そのほとんどは太平洋戦争を境に消滅してしまったようである。以下、若者遍路の様子を見ていきたい。

   b.松山地方の若者遍路

 愛媛県では、松山市北部の地域に若者遍路の風習を持った地域が多かったようである。昭和55年(1980年)に松山市教育委員会から発行された『おへんろさん』には、「この若者遍路の盛んだったのは近世の和気郡に属す市北部の地域ではなかろうか。姫原あたりから太山寺・和気浜を経て堀江・東大栗に至る一帯、および興居島である。この地域の、現在70歳以上になる男性の多くが、若者時代に遍路を経験しているとみてよい。」と記されている(④)。
 そこで、大正10年(1921年)に若者遍路に参加し、この『おへんろさん』に紹介されている松山市和気地区の上松政秀氏からの聞き書き(⑤)をもとに、あわせて『愛媛県史 民俗下』の若者遍路の記載を引用しながら松山地方の若者遍路の様子を整理した。
  <出立前のこと>
 上松政秀氏の住んでいた和気地区は、昭和25年(1950年)に松山市と合併するまでは温泉郡和気村であった。この地域では、若者が遍路に出る風習をワカイシヘンロ(若衆遍路)といい、これを済ませていないと嫁の来手がないといわれ、ほとんどすべての若者が遍路に出たようだ。大正時代には、徴兵検査が満20歳であったので、それ以前に行く者が多かった。上松氏が、大正10年に若者遍路に出た時は、満18歳であった。この地域では、2・3年ごとに若者が遍路に行くことになっていた。上松氏が遍路に出るとき適齢の者が7人いたが、和気付には「七人ミサキ(⑥)」の俗信があって、七人旅はタブーになっていた。そこで、少し歳の若い少年と、少し年長だが他所へ出ていたために遍路を済ませてなかった青年とを加えて、計9人で出かけた。遍路に必要な般若心経などのお経は、遍路経験のある先輩から、幾晩かかけて教えてもらった。
 松山市勝岡地区では、遍路に出る20日ほど前からお経の練習が始められ、その最初の晩に同行の固めの盃を交した。それを「キマリザケ」といった。そして、このキマリザケを飲むと約束は変更できないことになっており、親も遍路に出ることを止めることができなかった。
 納経帳は、先祖代々使ってきたたくさんの朱印が押してある物ほど値打ちがあるとされており、父や兄が使った物を持っていった。菅笠(すげがさ)や金剛杖(こんごうつえ)は松山で買い、さんや袋(身の回りの品を入れ、肩から下げる頭陀袋(ずだぶくろ))は布を買ってきて縫って作った。伊予の遍路の菅笠は、無地か、「い」や「イ」、あるいは「伊予」の字を図案化した印を書いたものであった。また、「伊予の無地笠」とか「伊予の深三度(ふかさんど)」とも呼ばれていた。さらに、伊予の若者遍路は、短時日で四国遍路をまわるのを競う一面もあり、「伊予の走りへんど」とも呼ばれていたようである。
 着物は、普段着として伊予絣(かすり)の着物に加え、高松や徳島の町で着るためのおそろいの無地紺の着物を新調した。この着物は、真黒に見えるために、よく「伊予のガラスヘンド」とか「伊予の紺ぞろい」などと呼ばれた。
 旅費(路銀)は、1日1円要ると考えて40日分で、一人40円ずつ持って出た。金の工面のつかない者には、村の裕福な家が金を貸すことになっており、遍路に出るときの借金の申し込みは断れないものとされていた。
 出発の2・3日前には、遍路に出る9人全員で、道中の安全祈願のため氏神へお参りに行った。
 出発は、旧暦2月吉日で、3月の節句のころに徳島市付近に来るような日程であった。出立の時期は例外なく春の3・4月(旧暦の2・3月)であったようで、これは農作業の関係で、5月になると苗代の仕事が待っていたから、それまでに帰るような日程であった。
 出発の日には、まず最初に五十二番太山寺を打ち(参詣し納札を納めること)、次に村内にある五十三番円明寺を打った。円明寺では、住職がお経をあげ、道中の注意などをしてくれた。親兄弟や親戚の者は、円明寺かその先の遍路橋まで見送った(⑧)。
  <遍路の道中のこと>
 春は、遍路の季節でもあり、お接待の季節でもある。若者遍路たちも、接待にあずかったようだが、米が多かった。しかし、米は持ち歩くには重いので、途中の宿や民家で売ったりもした。なぜ一般の民家で遍路からの米を買ってくれたかというと、「松山市内ではあまり聞かれないが、接待やお修行(門付(かどづ)け)によって遍路が集めた米を売ってもらい、それを食べると厄除(やくよ)けになるとか、丈夫になる、病気が治るなどと言っている地方も多い。(⑨)」からであるという。
 また、若者遍路には娯楽の一面もあり、道中では「おもに遍路宿へ泊ったが、金毘羅では、『さくらや』という大きな旅館の一泊2円もする上等な部屋に泊り、酒を飲んで、女郎屋へ繰り出した。(⑩)」こともあった。
 道中、他の若者遍路とも出会ったが、「伊予のカラスヘンド」は、道端の地蔵をころがしたり、娘をからかったりなどの悪さをはたらくので嫌われていた。伊予の若者遍路は「い」と書いた菅笠を宿屋の軒先に吊(つる)したりして、後から来る者への目印としたりすることもあったが、「い」印の伊予の若者遍路の泊まっている宿には、他国の遍路が同宿を敬遠して泊まらなかった。「伊予のカラスヘンドだけは泊めることはできん」と宿に断られたこともあったようである。
 「一方、若者らが遍路に出ている間、残っている家族がその無事を祈って接待や善根宿をする慣習も、勝岡・和気などにはあったし、遍路の場合には限らないが、陰膳(かげぜん)を据えたり、旅をしている者の足にマメができるからといって豆を炒ることを忌むことも広く行われていた。(⑪)」という。
 遍路も終わりに近づくと、「宇和島あたりから家に手紙を出して、帰還の日を報せた。最後の札所は道後の石手寺で、家族らは巻ズシなどを作って、ここへ出迎えてくれた。石手寺の廊下で家族と御馳走を食べた後、道後の湯へ行ったのだが、この時、着ていた着物をはらうと、ノミ・シラミがパラパラと落ちた。オヘンドにシラミはつきものだった。(⑫)」という。
 このような、「遠方の社寺参詣などで旅に出た者の帰りを親族や村人たちが村境まで出迎えて、飲食をともにして祝う風習をサカムカエ(坂迎え)という。伊勢参宮、金毘羅参り、石鎚登拝はもとより四国遍路にも坂迎えがあった。四国遍路の場合は、村境ではなくて、打ち止めの札所であるのが特色である。(⑬)」
 道後の湯から出ると、家族が用意してくれている一張羅の着物に着換え、おみやげに道後煎餅(せんべい)を買って和気へ帰った。この遍路帰還後の着物は、「遍路に出ると、家族の者がマチギモノ(待ち着物)といって、帰るまでに着物を新調して待つのである。この着物を待ち着物といったのであるが、エコギモノ(回向着物)、ゲコギモノ(下向着物)といった所もある。松山市興居島や大洲地方では下向着物といっていた。(中略)待ち着物の風習は、遍路装束を脱いで、待ち着物に着替えるのであって、いわば『変身』することである。四国をめぐって死の世界から蘇生し、脱出して聖なる人間に再生復活することを意味する。遍路装束は死装束をあらわすといわれるが、そうだと見なせばまさに待ち着物は死よりの蘇生を意味することになろう。(⑭)」
 若者たちは村に帰れば、まず、氏神にお参りをし、五十三番円明寺へお参りに行く。そこには、村の子供たちが待っているので、その子供たちに道後の土産である道後煎餅をあげる。上松政秀氏たちは遍路に出てから、村に帰ってくるまでに33日かかったようである。
  <遍路を終えて>
 村に帰って2・3日後に、遍路中に接待を受けたことへの返礼として、一緒に遍路に行った者たち(同行)がお金やミカンなどを持ち寄り、円明寺でお接待をする「接待がえし」をした。この「接待がえし」は、その年一回きりであるが、一緒に遍路した仲間たちは「同行」と呼ばれ、一生の付き合いとなり、後々まで、毎年春先に氏神に集まって御神酒を交わす行事を続けたようである。
 松山地方では、帰参の翌日か2・3日してからこの待ち着物を着て氏神や近くの札所へ「お礼参り」に行く所も多かった。同市勝岡町ではこれを「コヘンド」と呼んだ。所によっては「七ヶ寺参り」をした。また、「結願式」、「納めの祝い」、「下向祝い」などと言って、家に親戚を呼んだり、ワカシュウヤド(若衆宿)やムラの青年会堂、あるいは氏神に集まったりして盛大に精進落としをするところも少なくなかった。

   c.島嶼部の若者遍路

 武田明氏の『巡礼の習俗』によると、「広島県の走島(現福山市走島町)では、成人入りは15歳の正月で、15歳になると若衆組の仲間に酒を持って行き、一緒に酒盛りをしていた。その若衆組入りの前年すなわち14歳の春に四国遍路をして来たという。しかし、四国遍路だけでなく、石鎚山(いしづちやま)参りもしてくるものだったという老人もいたから、あながち四国廻国のみに限っていたとは言えないかもしれない。(⑮)」また、「若衆は遍路から帰って来ると南天の箸や手拭などを配った。そうして近所からは酒などを持って来たと言っている。それからは若衆組の中でも頭のすぐ下の役でもう走り使いなどはしない。(⑯)」と記述されている。
 愛媛県の島嶼部では、「愛媛県の魚島などでも若衆入りが近づくと四国遍路に出ていたと言い、ここでは帰ってくると盛大な宴会をして、上座に座った若衆は四国での経験をいろいろと物語っていたという。成人になるための条件でもあり、かつ又、一つの人生経験ともなることを四国遍路をすることによって味わさせていたのである。(⑰)」と述べられている。

図表2-1-7 若者遍路の愛媛県内分布(大正年間)

図表2-1-7 若者遍路の愛媛県内分布(大正年間)

『愛媛県民俗地図』により作成。