データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)遍路の減少

 この時期の四国遍路の状況を把握するために、星野英紀氏は、愛媛県久万町畑野川(写真2-1-34)の遍路宿大黒屋に残る昭和10年(1935年)から同18年にかけての宿帳の調査を行った。ちなみにこの間、昭和16年には太平洋戦争が始まっていることにも留意しておく必要がある。さてこの調査によると、「全般的な傾向としては遍路者の数は年々減少しており、かりに10年と18年の総数を比較してみると、前者の2,097人に対し後者の712人と9年間で実に3分の1に減少している。(④)」のは明らかである。しかも遠隔地からの遍路数の落ち込みが大きいため、相対的に愛媛県の割合が高まり、地元中心の色合いがますます濃くなっている。地元の遍路の多くは、一国参りや七ヶ寺参りなど、地域を限定した遍路が圧倒的に多かったのではないかと推察される。
 星野氏は、「当時の社会状勢は年々逼迫しており、巡礼といういわば不要不急の宗教行動がそれに直接的な影響をうけたであろうことは、容易に理解できる。(⑤)」と述べている。遍路を行うには、食糧事情をはじめとする様々な条件が厳しくなってきたのだ。
 日本全体の食糧生産は、昭和14年(1939年)を境に減少に転じており、翌年からは、農村に対して強制的に米の供出制が実施された。遍路道沿いのある農家によると、「戦争が厳しくなると、農家も米を供出させられる。門付けに来ても、押麦しかあげられんこともあった。近くに遍路宿もあったけど、銭があっても、米を持って行かなんだら泊めてくれん。お遍路さんも減ってきよる。(⑥)」という状況であったようだ。
 それでも、大黒屋の宿帳に、昭和18年の時点で712名分の記録があるということは、そのすべてが遍路ではないにしても、単純に考えると1日平均2名弱の宿泊者がいたことにはなる。ところがさすがに昭和20年(1945年)の敗戦をはさむ前後2・3年間は、全くと言っていいほど四国路から遍路の姿が消えたようである。この点について、早坂暁氏は次のような文章を寄せている。

   私の郷里に近い五十二番太山寺の参道にある遍路宿で、古い宿帳を見せてもらったことがある。
   「このころは、ほとんど、お遍路さんが来ていません。」
     (中略)
   千年の遍路史の中で、遍路が途絶えたのは太平洋戦争末期だけだろう。
   たぶん戦国時代も、明治維新も、日露戦争のときも、お遍路さんは途絶えることはなかったはずだ。
   「月に二へんぐらい警察が来て、宿帳を調べに来ました。」
   「警察が!?」
   「はあ。不審な者に気づいたら、すぐ連絡するように、と言われました。」
   なんと、警察はスパイ調べをしていたのである。四国の遍路は(中略)思想犯の隠れ場所と見ていた様子なのだ(⑦)。

 警察が遍路の監視に乗り出していたのは事実らしく、地域の事情により多少の違いはあるものの、星野氏も「戦前まで、遍路宿は毎日正午までに前夜宿泊者の記録を所轄警察署まで提出する義務があった。(⑧)」らしいと述べている。また、昭和16年(1941年)の日米開戦の直前に遍路を行った橋本徹馬の遍路記にも、それらしい話が出てくる。例えば、八番熊谷寺近辺の宿で宿泊を断られかけた時、宿屋の主人が言う断りの理由が、一人だけ泊めるのが面倒だというだけではなく、「宿帖を明日午前中に必ず警察に届けねばならぬが、それが二里あまりもある處なので、約半日かゝるから堪らぬ。(⑨)」ということだった。また彼が遍路を終えて、遍路記を執筆するために瀬戸内海の大三島に滞在していたところ、国防服を着た刑事が宿を何度も訪問してくるという不愉快な体験をしている。大三島は瀬戸内海交通の要衝で近くに軍都広島や呉軍港もある。橋本は、刑事が彼をこのあたりの地形を探っているスパイとでも疑っていたのではないかと考えている(⑩)。
 この時期は、札所にとっても生活は大変厳しかったようである。檀家を持たない二十七番神峯寺では、ぱったり遍路が来なくなってお参りがなくなると、賽銭(さいせん)や納経料の収入が途絶えた。物はなく、子供を4人持つ住職は寺の山を開墾しようとして過労で病気になったが、薬を買うお金もない(⑪)。一時はそういう厳しい状況があったということである。

<注>
①四國八十八ヶ所霊場出開帳奉讃會編『四國八十八ヶ所露場出開帳誌』P101 1938
②星野英紀「近代の四国遍路-遍路宿々帳記録の分析-」(『講座日本の巡礼第二巻 聖蹟巡礼』P102 1996)
③前出注② P103
④前出注② P92
⑤前出注② P93
⑥『太陽 8月号』(平凡社) P103 2000
⑦前出注⑥ P74
⑧前出注② P87
⑨橋本徹馬『四國遍路記』P79 1950
⑩前出注⑨ P243~244
⑪西端さかえ『四国八十八札所遍路記』P147 1964

写真2-1-34 現在の久万町畑野川地区

写真2-1-34 現在の久万町畑野川地区

四十四番大宝寺と四十五番岩屋寺を結ぶ遍路道が通る。左の空地が遍路宿大黒屋の跡地。平成12年12月撮影