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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)戦後の遍路①

 ア 終戦直後から戦後復興期の遍路

 戦争が終わって、世の中が大きく変わっていく昭和20年代前半は、敗戦後の混乱や生活の困窮から、人々は全くゆとりがなく、生きていくのが精一杯の時代であった。そのような時代を反映して、ごく一部の人々が、食糧を求めたり、あるいは戦没者の供養や精神的な癒(いや)しを求めたりして遍路に出ているにすぎなかった。
 しかし、昭和20年代も後半になると、徐々に産業基盤の基礎が確立され、経済の成長とともに、人々には経済的にも精神的にも僅(わず)かながら余裕が生まれ、それを反映して遍路が次第に増えていった。
 以下、戦後復興期の遍路の実態について、少ない資料をもとに、直接遍路に接した人々と四国遍路を体験した人々の両面から探り整理してみた。

 (ア)終戦直後の遍路

   a.ある札所の住職の話

 高知県から愛媛県に入って最初の札所が、南宇和郡御荘(みしょう)町平城にある四十番観自在寺である。平成12年の夏、同寺の**住職(大正11年生まれ)に、住職から見た終戦直後の遍路について話を聞いた。
 「終戦直後は一般の人の遍路は少なかったです。戦死なさった方の奥さんや子供さん、戦地より復員した人で戦友の霊を供養する人などが、車もなかったから、歩いて回っていたですな。戦争の影響でいろいろな精神的ショックを受けた人が多く目に付きました。特に遍路の家族で戦死者を出した人、戦災で家を失った人、復員して仕事のない人、戦争のショックで精神的に異常をきたした人などがいました。また極端な食糧難のため、多くの人は食糧や精神的な癒(いや)しを求めて遍路に出ていました。彼らは遍路で得たお米や麦などの穀物をお寺の通夜堂(つやどう)で煮炊きしておりました。食事の内容は今では考えられないほど粗末なものでした。お粥(かゆ)に塩をまぶしただけのものもありました。痩(や)せ細り栄養失調の人も多くいました。また彼らの服装は着物姿もあり、まちまちでしたが、男の人はカーキ色(茶色がかった黄色)の軍服まがいのものが多く目に付きました。この時代はまさに『衣食住』総(すべ)てにわたって不足していました。
 また寺の庭掃除や草抜きなどの手伝いをしながら2・3日、寺に滞在する人が多かったのもこのころの特色です。特に白装束(しろしょうぞく)のお遍路さんは、道すがらお大師さんの教えだとして、大抵の家で米・麦・とうもろこしなどの穀物や野菜、時には餅(もち)などのお接待を受けていたようです。だから極端な食糧難を『お四国』(四国八十八ヶ所霊場巡りの遍路のこと)で乗りきった人が多かったですな。
 昔はあちこちに善根宿(ぜんこんやど)がありまして、お遍路さんが来たら親切に無料で泊めていたのです。そうすることによって自分たちにもお加護があると信じていたのです。このお接待という風習は四国遍路ならではのことで、すばらしいことです。私のお寺でも通夜堂を造り、布団や炊事道具を整え、煮炊きや寝泊りができるようにしていました。次の札所へは距離が短縮されるためでしょう、険しい山道ですが健脚な人は岩道越(がんどうご)えの『中道』を行きました。今は国道沿いの『灘道』が多いようです。」

   b.ある善根宿の夫婦の話

 時代の趨勢(すうせい)で歩き遍路が減少し、自家用車やバスによる車遍路が急増した現在、地域の住民によるお遍路さんへの温かいお接待など四国遍路特有の風習が、以前にまして希薄になろうとしている。
 このように大きく世の中が変わった現在も、70年の長きにわたりお遍路さんを無料で宿泊させる善根宿を営んでいる人がいる。その人は喜多郡内子町大瀬東で日用雑貨と製麺所(せいめんじょ)を営む**(大正12年生まれ)さん・**(大正15年生まれ)さん夫妻である。**さん宅は四十三番明石寺から四十四番大宝寺に向かう山間部の国道379号沿いにある。自宅の東隣に「千人宿記念大師堂」(写真2-2-1)という善根宿が設けられている。**さんはその管理・運営を戦前・戦後を通して、親子二代にわたり続けているのである。平成12年の夏、**さん夫妻に大師堂のことや戦後間もないころのお遍路さんについて、話を聞いた。
 主人の**さんは、次のように語った。「大師堂は昭和2年(1927年)に私の母が始めたのです。母が33歳の時、医者も見離すほどの大病を患いまして、病気の平癒(へいゆ)をお大師様にお願いしたのが始まりと聞いています。そもそものきっかけは、何回も四国遍路を回っている長崎からのお遍路さんから『お遍路さんのお役に立つ千人宿を思いついてはどうですか、私も応援するから』という進言があったからと聞いています。父の協力もあって大師堂を建て、その後は順調に進んだといいます。私の父と母2人の目標だった宿泊数千人を達成するまで3年かかりました。『千人宿記念大師堂』は、その宿泊者の数を記念して善根宿として昭和5年(1930年)に建て替えたものです。当時の建物は道路の南側にあり、8畳と6畳の2間でした。建て替えに際して、私どもの気持ちを理解してくれ建築費を寄進してくださった人は120人を越しました。当時、歩きのお遍路さんの数も多く大盛況でした。修行のための遍路もいましたが、病人・身障者の遍路や食糧や金品を目的にした遍路が多かったようです。
 終戦直後の遍路さんは悲壮感がありました。今と違って、中には食べるために歩く『乞食(こじき)遍路』、『偽(にせ)遍路』も少なくありませんでした。托鉢(たくはつ)でもらったお米や品物を買ってくれという人、酒を飲んで酔いつぶれて長居する人、家庭の事情でしょうか暗くものを言わない人、手作りの手押し車に病人を乗せ押しながら回っている人、世の中のあまりの変わりように自信を失った人などいろいろな人がいました。食糧事情や家庭事情も様々で、世の中を反映してか、遍路の表情は一般に暗く、身なりも粗末で、ほとんどが歩きの遍路でした。当時の遍路は今の遍路と比べて、お大師様におすがりして救っていただく、一生懸命お詣(まい)りしてご利益(りやく)を頂くという信仰心が強かったと思います。」

 (イ)戦後復興期の遍路

 終戦後の混乱が続く中で、新憲法公布、農地改革、教育改革などの大変革が矢継ぎ早に行われた。その後、昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、特需を含む輸出ブームが出現する。日本経済は急速に発展し、国民生活も次第に豊かになってきて、遍路する人々も、かなり戦前の姿に戻ってきた。
 「四国遍路を通した民衆の歴史を探ってみたい。」として、50歳半ばに四国遍路を体験した山本和加子氏は、戦後復興期の遍路について、「戦争が終わって、四国遍路は次第に落ち着きを取り戻していった。世の中は平和になり、食糧事情が落ち着き始めた昭和20年代の後半から、次第に遍路の姿が四国路に現れ始めるようになった。(②)」と記述している。
 四十番観自在寺の**住職は、復興期の遍路の様子を次のように話している。
 「戦後、お遍路さんが増えたのは、わずかながら世の中が落ち着いてきた昭和23年(1948年)ごろからです。当時はまだまだ戦後の混乱期で、多くの人たちは仕事もなく、精神的落ち着きを望んでいました。次第に数人連れのお遍路さんも目に付くようになり、終戦直後に比べて、少しではありますが明るさが見えてきたという印象があります。しかし、戦前に比べてお遍路さんの数は少なかったと思います。身なりも粗末な普段着が多く、白装束で菅笠(すげがさ)の遍路スタイルは少なかったようです。朝鮮戦争後しばらくして、巡拝バスも走り出し、急速にお遍路さんの数も増えました。」

 イ モータリゼーションの進展と遍路

 終戦後10年余りの昭和31年(1956年)には「もはや戦後ではない」の有名なキャッチフレーズで世間を驚かせた『経済白書』が出された。昭和30年ころの神武景気から34年ころからの岩戸景気へと日本経済は右肩上がりに大きく成長していった。「所得倍増政策」のもと国全体が、経済成長一直線に驀進(ばくしん)していくのである。世の中の落ち着きとともに遍路も少しずつ復活していったが、30年代後半からのモータリゼーションの進展により、路線バスなどの公共交通機関を利用した遍路も増えた。また霊場巡拝バスの運行が開始されて、遍路の巡拝形態も大きく変化していった。

 (ア)公共交通機関を利用した遍路

   a.ある俳人の『遍路日記』より

 徳島県出身で東京在住の俳人、比良河基城氏は55歳にして、昭和30年(1955年)に列車やバスを利用して実質30日かけて四国遍路を行い、同年『遍路日記』を発行した。
 比良河氏は昭和30年3月10日に東京を発ち、3月16日徳島県より遍路旅に出発し、24日から高知県、31日から愛媛県、4月9日から香川県を巡礼し、結願(けちがん)したのは同月の14日である。そして3月10日出発以来、数えて40日目の4月19日に東京浅草に戻った。ここで公共交通機関を利用した遍路の様子を記したその『遍路日記』の中から、伊予路の旅の一節、4月3日と8日の記事を紹介する。

     4月3日 曇
   全く美味い豆腐の味噌汁で朝食を馳走になり孫さんとおばあさんをカメラに収めてあつく礼をのべ御善根の宿を辞す。
   八幡浜駅まで10分の徒歩、7時38分の上り列車に乗る。松山経由松山より久万までは国鉄のバスである。長浜で急行を
  先にやるので20分停車、此処はもう瀬戸内海に面した伊予湾である。油のような春の海、波の音は全々ない。
   松山着10時20分、真向の城山に松山城が昔の面影を完全に残して空にそびえてゐる。駅前で待つ程なくバスが来る。先
  着の同行さんも拾人程乗っている。空は青空が時折見へるようになった。此の松山辺に五十番五十一番五十二番などの札所
  があるのであるが一応四十四番四十五番と順次久万町方面より打ち上がって再び二、三日後には松山に戻って来る訳であ
  る。
   午後0時20分、四十四番のある久万町に到着。この処までの道路も大変よく九十九折にのぼる山から見遥かす村々の景
  は特によい。久万町は警察もある程の一寸気の利いた町である。町の中央より左折した山裾にある札所大宝寺に詣る
  (③)。

     4月8日 晴
   親類に宿つた様な気持で眼を覚まし昨夜この処の妻女が洗ってくれたシャツの半乾きのものをビニールの袋へしまい、朝
  食は面倒だから二階に運ばなくてもよろしいと下のテーブルで済ませ妻女へ親切を謝して8時15分発石槌駅よりの上り列
  車に乗る。
   今日のコースは伊予最後の札所であり、伊予第二の難所である三角寺を打って更に四国中第二の難所と称せられる六十六
  番雲辺寺まで歩が伸びるか如何と云ふところにある。
   ともあれ颯爽とした朝の心で石槌駅から汽車に乗って三島駅で下車。この間午前8時15分より9時40分まで1時間あま
  りの東伊予瀬戸内海に沿ふて走る列車は左に霞か海か春眠をむさぼっているかの燧灘で右は豊かな田園と農家と駅のある毎
  にちんまりとした町を距てて昨日と同じく四国山脈が屏風の様に覆い冠さつて来る様に感じる所である。其の黒々とした山
  容をバックに桜の点々と咲いているさまは人家、麦畑、菜の花、森、などと調和よく全く日本独特の活画で之れも昨日と変
  わらぬ春色で酔うばかりの景である。
   9時40分伊予三島駅下車。 10分ばかり待って伊予最後の札所三角寺行のバスに乗る。 10時半三角寺口に下車。
       「春眠を貧る海とおもひけり」
   右へすぐ登りになり急坂であるが僅か40分で三角寺に着く(④)。

   b.『四国八十八札所遍路記』より

 昭和33年(1958年)春より四国を巡礼した西端さかえ氏が著した『四国八十八札所遍路記』を紹介する。西端氏は出版社「大法輪閣」から特派され、高野山を振り出しに、四国八十八ヶ所を巡拝し、四国遍路を一遍路として巡った。その時の自分の体験を生のままつぶさに記したのが、この『四国八十八札所遍路記』である。これは昭和33年からほぼ4年間にわたり『大法輪』誌上に連載された。
 それによると、当時運行を始めた巡拝バスや列車などの公共交通機関を利用する遍路が増え始めた様子が分かる。そこでその中から、愛媛県内の四十番札所から六十五番札所のうち、南予・中予・東予地域それぞれについて、その一部の札所間の行程や交通費などを以下のように簡略にまとめてみた(⑤)。

〈南予の一部の札所と行程〉
・四十番 平城山観自在寺(御荘町平城)
  寺山口…(バス)…宿毛…(バス)…御荘(平城)
  三十九番延光寺の寺山口から宿毛に打ち戻り、平城行きバスに乗り換える。途中の東小山から伊予路に入る県界に「県境」
  という停留所があった。約1時間10分で平城に着いたが、徒歩の人は宿毛から途中、山を越えて33.8キロを歩かねばなら
  ない。
    バス代:寺山口~宿毛25円、宿毛~平城140円(急行)
    宿泊料:団体450円
・四十一番 稲荷山龍光寺(三間町戸雁)
  御荘(平城)・‥(バス)…宇和島…(バス)…森ヶ鼻(三間町)
    バス代:平城~宇和島210円、宇和島~森ヶ鼻30円
    宿泊料:2食米代別250円

〈中予の札所の一部と行程〉
・四十六番 医王山浄瑠璃寺(久谷村浄瑠璃)
  久万本町…(バス)・‥塩ヶ森…(徒歩)…浄瑠璃寺
    バス代:久万本町~塩ヶ森100円、浄瑠璃寺の下に宿屋あり。
    宿泊料:1泊3食350円
・四十七番 熊野山八坂寺(久谷村浄瑠璃)
  浄瑠璃寺…(徒歩)…八坂寺
    宿泊料:2食米代別250円
・四十八番 清滝山西林寺(松山市高井)
  八坂寺…(徒歩)・‥高井・西林寺
  その後、四十八番のある高井から久米(四十九番)~畑寺(五十番)~東野間にバス開通(1日6往復)
  東野から松山市内バスに乗り換えて五十一番に進む。しかし、バスの時間の都合で遍路さんの利用者は少ないそうであ
  る。

〈東予の札所の一部と行程〉
・六十四番 石鉄山前神寺(西条市洲ノ内)
  氷見…(バス)…石鎚山駅前…(バス)・‥小松駅前
    バス代:氷見~石鎚山駅前15円、石鎚山駅前~小松駅前20円
    宿泊料:2食米代別250円
・六十五番 由霊山三角寺(川之江市金田)
  小松駅…(汽車)…土居・いざり松…(バス)‥川之江駅…(バス)・‥三角寺口…(徒歩)・‥三角寺(金田)
    汽車賃:小松駅~土居120円
    バス代:いざり松~川之江駅前70円、川之江駅前~三角寺口30円、伊予三島駅からの場合上分にて堂成、中山口、小
        川橋、湖水口行きのいずれかに乗り換えて三角寺口下車35円、足の弱い人は岩谷駅下車(下り道三角寺まで
        2キロ)、川之江駅~岩谷60円
    宿泊料:団体400円、遍路さん250円

 西端氏は最後に、「四国遍路は何もねがわず思わずいっても、人間(心、性分)がいくらかでも変わると聞いていたが、たしかに変わる。行程ほぼ1,400km(私の概算)をゆくうちに、おのずからに教えられ、さとらせられ、つちかわれるものは、人それぞれに異なるだろうけれど、大きくまた多い。(中略)有難い旅をさせてくださった観音さまと、お大師さまの深いお慈悲に、心から感謝し奉り合掌するばかりである。(⑥)」と感謝の気持ちで結んでいる。

 (イ)四国霊場巡(順)拝バスの運行

 昭和20年代後半になると、四国霊場巡拝を取り巻く環境も大きく様変わりした。昭和26年(1951年)に「道路運送法」が改正になり、「一般貸切旅客自動車運送事業」として大型の貸切バスの運行が可能になり、また翌27年には「新道路法」が制定、施行された。これらの法改正をうけて、貸切バスが運行可能となり、伊予鉄道株式会社(以下、伊予鉄と略す)では昭和26年に貸切自動車の営業を開始した。
 当時の遍路は、汽車や路線バスを乗り継いで25日ほどの日数を要していた。また四国霊場を歩いて全部回るには30~40日も要していた。ところが貸切バスにすれば、汽車や路線バスを乗り継いで遍路する日数より10日も短縮できるため、伊予鉄では巡拝バスとして定期的に運行しようとしたのである。法改正を大きな引き金として、「四国八十八ヶ所霊場順拝バス」という団体観光バスを定期的に運行したのは、昭和28年4月である。なお四国でも遅ればせながら、このころから主要国道はもとより、主要地方道の拡幅や舗装などの整備が進んできた。
 道路整備について、建設省計画局・四国地方建設局編『四国のみち保全整備計画調査報告書要約』では次のように記述されている。

   我が国において道路整備が急速度で進められだしたのは、昭和20年(1945年)の戦災復興事業からで、自動車交通の増
  加を見越した整備が行われ、昭和27年には、道路法の改正などにより、道路整備が着々と進められるに至った。道路の整
  備は当初、国道、主要地方道などの一般道路や高速道路などの主として自動車対策に始まったが、昭和40年ころからは自
  動車道及び歩道の整備も徐々に進められてきている。道路の整備状況は、昭和53年の全国の改良済みの割合は30.6%、舗
  装済みの割合は40%で、その直後から急速に改良・整備が進行する。しかし、道路整備の進捗(しんちょく)に比べて、人
  車分離による機能分化は、まだまだ充分といえず安全性と快適性を考慮した「みち」空間の整備が期待されているところ
  である(⑦)。

 前述の山本和加子氏は、団体巡拝バスに関して次のように述べている。

   団体巡拝バスの出現は足の弱い老人や病弱な人で、巡拝したくてもできなかった人まで参加できるようになった。現代風
  マスプロ遍路の出現はそれまでの暗い貧しい四国のイメージを一掃して、明るい豊かさを創出する。1日に何台もの観光バ
  スが境内に乗りつける。寺も観光事業対策に乗り出し、寺を修復したり、改造して美しく整え、宿泊施設を充実させた。庫
  裏(くり)は浴室・食堂に変り、大人数の団体遍路の収容が可能になる。(中略)昔から続いた遍路宿は次々と姿を消し、車
  が通れる新道ができ、旧道が廃道になる。旧道沿いの遍路宿が廃屋になるとともに道沿いで盛んに行われていた「接待」も
  なくなった。豊かな現代遍路は十分な旅行品を持参し、食物にも満ち足りている。ひとり歩きの遍路も疲れればバスか電車
  に乗り、夕暮れには民宿に泊まる。こざっぱりした民宿で充分からだを癒(いや)せるのである(⑧)。

   a.発足当時の巡(順)拝バス

 発足当時の伊予鉄の四国八十八ヶ所霊場巡拝バスは、当初「巡拝」、「順拝」と特に区別することなく称していたが、順番に参拝することから昭和35年(1960年)から「順拝」に統一したと、伊予鉄が発行した『伊予鉄道百年史(⑨)』に記載されている。村上節太郎氏は、最初の順拝バスを計画し添乗した橋本衛氏、乗客第1号の岡崎忠雄氏、16回も順拝バスを運転した横山白氏らから話を聞いて、発足当時の順拝バスについて、次のように記述している。

   いよてつの順拝バスを計画したのは、昭和27年(1952年)、(中略)瀬戸内バスが巡拝バスを募集し、開始したのは4
  年後の昭和31年(1956年)からである。その後、宇和島・琴電・高松・両備などの各社が巡拝バスを出すようになった。
  昭和28年4月26日は伊予鉄の四国順拝バス第1号車が出た記念すべき日である。何事でも創業は思わぬ苦労があるもの
  である。昭和27・ 8年当時、四国遍路は汽車やバスを利用しても25日を要した。貸切バスなら10日も早く回れる計画で、
  永野浩営業係長と橋本衛氏とが、「5万分の1地形図」と昭和9年版の「四国霊蹟(れいせき)写真大観」(日和佐町の中西
  惟浩編・岡影明撮影・定価7円)を購入して立案した。参加費1万3,600円で14泊15日の計画書を上司に出したという。
  上司の山本孟六氏は慎重な方で、他県の道路事情が不明確なので消極的であった。そのニュースを愛媛新聞の記者が聞き
  つけ、25人あれば実施する計画で試みに広告募集することになった。永野氏と橋本氏は高野山(こうやさん)まで行って、
  弘法大師の信者の名簿を写し、信者の人たちに案内状を出したと言う。橋本氏は第1回順拝バス参加者から人名・住所を
  几帳面(きちょうめん)に記録している。
   第1回の運転手は戸嶋正と窪田正春の両氏、添乗員は橋本衛と小笠原博一氏の2名であった。岡崎氏も当時四国巡拝を計
  画し、彼の試算では16日だったそうである。伊予鉄ではボンネットバスの新車を使い、運転手もベテランで、当初の2ヶ
  年は食糧の米まで積んで行ったという。それでも道路不案内のため、高知市まで行って1日余計にかかることがわかり、本
  社に電話連絡し、延長分は参加者負担で了解してもらい5月10日に無事帰っている。太山寺から始めて石手寺で終わり、
  寺に4泊、旅館に11泊して今と大差ない(⑩)。

 多くの試行錯誤を繰り返しながら、現在のような快適な順拝バスが運行されるようになった。これは四国遍路にとって画期的なことであり、後の四国遍路ブームの先がけをなした。

   b.最初の順拝バスに添乗して

 最初の順拝バスが運行開始した当時、伊予鉄自動車課営業係であった**さん(大正11年生まれ)に平成12年の夏、伊予鉄最初の順拝バスの運行について話を聞いた。
 「当時、歩いて四国八十八ヶ所を全部回るには30~40日かかると言われていました。バス運行の1年前に運送業法が改正になり、貸切バスも運行できることになりました。上司に相談して許しを得て、「四国八十八ヶ所順拝遍路バス」の計画にかかりました。
 まず四国各県の国土地理院の『5万分の1の地形図』と『四国霊蹟写真大観』を購入し、札所の所在地やキロ程を地図距離測定器で計算して計画を立てました。私自身、松山市内の札所のことすら知らず、バスが走れる道路の幅があるのかどうか分からない状態でした。バスなら1km3分、徒歩なら30分、昼食は1時間、また寺の宿泊300円、旅館600円、米持参とし、全行程の日程表を作り、苦心に苦心を重ね、参加費1万3,600円で14泊15日の計画書を作りました。稟議書(りんぎしょ)と計画書を上司に提出しましたが、なかなか決裁にならず、実現しそうになかったんです。ある日、上司が社長から呼ばれ『八十八ヶ所の順拝バスはどのくらいの損ですむのか』と問われたそうです。上司が考えを述べると、『20万円くらいの損ならやれ』ということになったのです。その2日後、初めての順拝バスのことが新聞に載り、早速12・ 3名の申し込みがあり出発準備にかかったのです。
 順拝用品の線香、ローソクは市内の仏具店から、笠・杖(つえ)・白衣などは道後の小さな店で買いました。納経帳は和紙を購入し、納経紙の裏にその寺のご詠歌を和紙に謄写版で印刷し、手作りの分厚いものを25部作成しました。納経帳にご詠歌を印刷したのは初めてだと思います。団体バスでの霊場巡りは初めてのことで分からないことが多く、西林寺の三浦住職、太山寺の宮崎住職、三角寺の河村住職などから、広くご指導を頂きました。
 まあ、そうした努力が実って昭和28年(1953年)4月26日に、主催は伊予鉄観光社、運行バスの名称『弘法大師巡錫(しゃく) 四国八十八ヶ所巡り』の順拝バス第1号が松山市駅を出発しました。一行は乗務員と添乗員それぞれ2名を入れて、男性14名、女性14名の計28名でした。バスはボンネットの新車を用意し、食糧事情が悪い時代でしたから米も積んでいきました。」

   c.順拝バスの乗客第1号

 伊予鉄順拝バス第1号の乗客となった岡崎忠雄氏は、お四国参りは多年の念願であった。長い給与生活も還暦も終わり、弘法大師御入定の年齢になったことや家の新築も一段落した時であり、今年こそ大師の御蹟(みあと)を尋ねしのぼうと、自分たちで四国八十八ヶ所参りの計画を立てていた矢先、伊予鉄順拝バスの計画を聞き、真っ先に申し込み夫婦で参加したという。費用は、バス会社への払い込み金1万3,500円、小遣い6,500円、予定が1日延びた分700円を追加して合計2万700円であった。岡崎氏は『お遍路の記』の中で、4月26日出発の日のことを次のように記述している。

   伊予鉄道本社で茶菓による壮行会が開かれた。(中略)記念撮影の後、午前9時、いよいよ壮途についた。一行は男性
  14人、女性14人、最年長は75歳、最年少は16歳、70歳以上が8人、夫婦での参加は3組、親子での参加は2組、姉妹で
  の参加は1組である。(中略)
   五十五番、今治・光明寺へ。光明寺と言うより南光坊のほうがよく知られている。戦災に焼かれて本堂が無い。大師堂は
  戦災を免れているが、それでも庫裡(くり)は新築して立派に出来ている。工業都市の今治であるが、コジキが各所にたむろ
  して不潔である。なんとかしたいものだ。
   車は更に進んで、五十六番泰山寺へ。バスから近い平地に寺がある。境内に大師お手植えという「不忘松」がある。ここ
  で大阪人らしい老婆を連れた紳士に会い「香園寺までどうかバスに同乗させてほしい」と頼まれた。世話係に「どうしま
  しょうか」と相談を受け、結局乗せてあげることになった。
   車は五十七番栄福寺へ。八幡宮の鳥居から入り参拝した。前の年お詣りした時は、釣り鐘は供出してなく、再建の寄付を
  して立ち去ったのであるが、今来てみると立派な鐘が出来ている。箱車や松葉杖の古びたのが堂の横においてあるのは、ご
  利益を受けた人の遺物であろう。院主の妻らしい人から、茶とせんべいの饗応(きょうおう)を受けた。バスを門前に残して
  五十八番仙遊寺へ打ち戻りすることになった。徒歩で仙遊寺(佐礼山)に向かう。(中略)香園寺は六十一番であるが、日
  程の都合で横峰寺を明日に残して宿泊する予定になっていた。今日は最初の日であり、朝の出発も遅かったうえ、足も不慣
  れなため香園寺に到着したのは午後の7時半、すでに辺りは暗くなっていた。二階の三室通しの部屋に案内され、荷を解
  く。20分ほど停電があったため、入浴し食事を終えたら10時を過ぎていた。六十一番香園寺は子安講(こやすこう)でも有
  名。学校を経営し四国の寺院の中でも異色の寺である。数百人の宿泊設備を誇り、この日も400人以上の団体参拝があると
  かで、あちらこちらの部屋で御詠歌が唱えられていた。百畳ほどの大食堂は混雑し、湯殿も市中の銭湯ほどの大きさがあっ
  たが、清潔が行き届いてない感があった。食器類もだいぶん使い古したもののようであったが、多数の講員の賄(まかな)い
  ようとしてはやむを得ないものだろう(⑪)。

 d.順拝バスの発展

 伊予鉄道の順拝バスは昭和28年4月にスタートして以来、時代の要請に応(こた)えつつ現在まで脈々と確実に歩み続けてきた。昭和29年には四国霊場寺宝展とお砂踏み法要、同30年にはハワイ四国順拝バスの運行を開始した。同36年には西国三十三ヶ所巡礼バスの運行開始(12泊13日、2万3,000円)、同39年には坂東秩父巡礼バスの運行開始(15泊16日、2万6,000円)、また同51年(1976年)には四国霊場一国参りバスの運行開始(3泊4日、2万4,800円)、同53年には日曜へんろバスの運行開始(年15回、10万3,600円)など、利用者のニーズに対応して観光地を取り入れた各種コースが生まれた。さらに、同59年には弘法大師御入定1150年御遠忌(おんき)大法要を行い、同年4月1日には月刊新聞『へんろ』第1号が伊予鉄観光社より発行され、平成4年には順拝バス運行40周年祝賀会を行っている。伊予鉄では、順拝バス第1号が運行されてから間もなく50年を迎える。今や団体順拝バスは順調に発展し、経営の大きな柱となっているという。
 四国八十八ヶ所霊場順拝バスの所要日数は、当初から4ヵ年間は15泊、翌昭和32年(1957年)からは14泊、同42年からは13泊、同47年からは12泊、同53年以降は11泊に短縮されている。
 バスの運行台数も年々順調に増加しており、最初は1台だったが、昭和30年(1955年)には5台、同40年には100台となり、特に40年代からは急激な伸びを見せ、同50年には600台、同60年には955台となった。
 さらに、先述の橋本氏等によって書かれた『伊予鉄順拝の回顧録』を見ると、順拝バス第1号が出発して間もない昭和28年(1953年)4月末に、ハワイから最初の巡拝団が来日し、シボレー(外国から輸入した大型乗用車、その内部を改造して座席を増やしてハイヤーとして使った)3台に分乗して巡拝していることが記されている。何分、慣れないことなので言葉も分からず、案内社員が英和辞典片手に悪戦苦闘している様は滑稽(こっけい)ですらある。ハワイ同胞の八十八ヶ所参りは翌年もシボレーを改造したハイヤーだったが、3年目の昭和30年には団体バスに変わっている。7・8年目からは隔年となったが、多い年は100人を超える盛況で、県庁所在地以外では数軒に分宿という状態であったという。

写真2-2-1 千人宿記念大師堂

写真2-2-1 千人宿記念大師堂

内子町大瀬東にて。平成13年2月撮影